策略に揺れる楽団(3)

 華音は、鷹山とは似ても似つかぬ容貌の『父親』を連れ、楽屋棟の四階にある音楽監督室へと向かった。

 特に会話もなく、男は黙ったまま華音のうしろを付いてきている。


 鷹山がいるであろう監督室のドアの前に立つと、一つ深呼吸をし、意を決してノックをした。


「鷹山さん……鷹山さんいらっしゃいますか?」


「――君に用はない」


 不機嫌極まりない彼の声が、ドアの向こう側から返ってくる。

 所在は確認できた。この中にいる。

 華音はもう一度、問いかけた。


「お客様をお連れしました。お通ししてもよろしいでしょうか?」


 数秒後、勢いよく監督室のドアが開き、鷹山は一分の隙も与えずまくし立てた。


「君のことは今回のサポートから外すとあれほど言って――」


 そこまで言って、悪魔の動きがぴたりと止まった。



 琥珀色の大きな瞳が、数度瞬いた。

 驚きを通り越し、唖然とした表情を見せている。



 華音の背後に控える人物の姿を認識するのに、わずかな時間を要し、そしてようやく事態が飲み込めたのか、ふてくされるようにしてひとこと告げた。


「……どうぞ」




 鷹山はソファにどかりと座り込み、足を組み上げてふんぞり返った。

 精一杯の虚勢である。

 鷹山と『父親』は、応接セットに向かい合うように座り、華音は少し離れた場所で、立ったまま二人の様子をうかがっていた。


「よく分かったね。僕がここに居るって」


 ばつが悪いのか、向かい合った男の顔を見ようとせず、隣の座面に置かれた楽譜をぱらりとめくりながら、淡々と言う。


「いくら本屋もない田舎に住んでるからって、甘く見るんじゃないぞ。俺はお前がどこか小さくでも載ってないかと思って、それっぽい音楽雑誌を何冊か定期購読してるんだ」


「――ああ、雑誌」


「そしたら、その雑誌にここの演奏会の広告が載ってて、なんだ、お前が指揮者やってるじゃないか? ウィーンで暮らしてても連絡なんかろくに寄越す奴じゃなかったけどな、何で黙ってたんだ? 正月に帰ってきたときにも、なんも言ってなかっただろ」


「いろいろと事情があったんだよ。……しかし、音楽雑誌の広告から足がつくとは、予想外だったな。父さんは絶対にそういう類のものは興味ないと思って、ついつい油断してしまった」


「油断って……まったく可愛げのない奴だ。確かに興味なんかこれっぽっちもないけどな、俺はお前が――」


「分かってるよ。分かってるから、ここでこれ以上言うのは止めてくれよ」


 鷹山は父親の言葉を遮った。一瞬だけ、華音のほうへ視線を向け、すぐまた戻す。

 どうやら、父子のやり取りを華音に見られてしまうのが不本意らしい。

 しかし『父親』は、息子の頼みに耳を貸さず、なおも続けた。


「いいや言わせろ。俺はお前が小さいときから男手一つで育ててきたんだ。自分で決めたんならと、どんなことも自由にさせてきた。俺は音楽のことなんかまるで分からないけどな、自慢の息子がいま何やってて、どんな活躍してるのかは誰よりも知りたい」


「何が自慢の息子だよ。いい加減子離れしてくれ、まったく――」


 遅れてきた反抗期のごとく、息子がそっけない態度をとると、なぜか『父親』の表情が和らいだ。


「俺も歳を取ったな」


「そう? 二十五歳の子供がいる父親にしては、随分と若いほうだと思うけど」


 そりゃそうだ、と『父親』は頷いてみせた。

 鷹山が小学生で引き取られたとき、富良野の父親は当時大学を出たばかりだったという話を華音は聞いたことがある。

 その鷹山の説明どおり、確かに端から見ても、一般的な親子の年の差には見えない。


「今日ここまで出向いてきたのは他でもない――お前が俺に連絡もしないで、芹沢の楽団にいるのを知って、無性に寂しくなったのさ。お前がここにいるということはな、ウィーンにいるよりも、俺にとっては遠いんだよ。……もう富良野には帰ってこないのかなあって、無性に寂しくなって、ホント、ガラにもないな」


 鷹山は黙った。

 親子として、十五年もの長い時間を共にしてきたからこそ分かる、言葉の奥底に秘められた思いが、そこにはあった。


「なあ楽人、ひょっとしてお嬢さんがカノンちゃんか?」


 初めから何となく気になっていたのだろう。『父親』は、ここまで案内をしてきた少女をちらりと見やり、目の前に座る息子に尋ねた。

 鷹山は無言のまま頷くと、部屋の隅に立ちすくんでいた華音に目配せをし、ようやく口を開いた。


「ほら、僕の養父に挨拶してくれないか? 君の叔父さんでもある」


 富良野の父は、亡くなった母親の実の弟――以前、鷹山はそう話していたのを華音は思い出した。


「あの、そうです。芹沢華音といいます」


「あのときの赤ちゃんが、こんなにおっきくなったか。そうか……」


 過ぎ去りし日々に、思いを馳せているのだろう。

 鷹山の『父親』は、どこまでも優しく穏やかな眼差しを息子に向けた。


「ということは……お前はいま、幸せなんだな」


「何だよ、急にそんな」




「華やかな音楽が、いつもともにありますように――だろ?」



 刹那。

 それまで虚勢を張っていた鷹山の硬い表情が、一瞬にして崩れていくのを華音は見逃さなかった。


 その言葉がいったい何を意味するものなのか、華音には分からない。

 しかし、鷹山父子にとって重要な意味を持つものであるらしいことは、華音にも理解できた。




 静寂を破るようにして、誰かが音楽監督室のドアを勢いよくノックする音が、室内に響き渡った。

 よほど慌てているのか、部屋の主である鷹山の返事を待たずにドアは開く。

 そこから顔を覗かせたのは、コンサートマスターの美濃部青年だった。

 来客中だったことに気づき、美濃部はにわかに動揺し、すみませんと勢いよく謝った。


 その場の空気を察したのか、『父親』はおもむろに立ち上がった。


「終わったら、また話そう。今日は近くのホテルに一泊するから」


「ということは、まさか聴いていくつもり?」


「いい子守歌替わりだ」


「いびきだけはご遠慮願います。では後程」


 『父親』はああ、と言って足早に控え室を出ていった。



 美濃部は訳が判らず、今しがた男の出ていったドアを見つめている。


「で? 美濃部君、どうしたの?」


 鷹山が尋ねると、美濃部はおもむろに喋り出した。


「あの、お二人とも、羽賀さん見ませんでした?」


 本番三十分前。もうじき、開場が始まり、観客が入ってくる頃だ。


「真琴さん? 最終リハ終わってからは、僕は見かけてないけど?」

「私は赤城オーナーの側にずっといたから……羽賀さんがどうかしたの?」


 鷹山と華音の答えに、美濃部は一気に血の気が引き、顔面蒼白となった。


「居なくなっちゃったんですよ、羽賀さん! 付き人さんの姿も見当たらなくて……いま、羽賀さんが使っていたソリスト用の楽屋を確認してきたんですけど、荷物がすべてなくなっていて……もう、何が何だか」


「美濃部君、真琴さんの付き人の『彼』には連絡してみた?」


「ええ、先程から何度も電話をかけてみてるんですけど、全然繋がらなくて……なんか、すごく嫌な予感がするんですけど」


 焦りまくる美濃部の姿に、鷹山は眉をひそめる。



 羽賀真琴の控室が、もぬけの殻に――。



 演奏開始の三十分前という、迫りくるタイムスケジュールを前にして。



 音楽監督は、取り乱しているコンサートマスターの青年に、よどみなく指示を出した。


「美濃部君、この事をオーナーに知らせてきてくれ」


「分かりました! すぐに!」


「ま、待ってください! 私も一緒に行きます!」


 華音は先に音楽監督室を飛び出していった美濃部青年の後を追うようにして、オーナーの赤城がいるであろう事務管理等へ向かって、全速力で走り出した。

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