策略に揺れる楽団(2)
あくる日の、土曜日の昼下がり――。
本日は午後七時より、芹沢交響楽団の定期演奏会が催されることになっている。
久しぶりに、オーナーの赤城が、本拠地ホールへ姿をみせた。
いつもの演奏会の時よりも、ずいぶんと早い会場入りである。
赤城オーナーはすべての演奏会に顔を出すわけではなかったが、本業が多忙な時であれば、わずかな時間の合間を縫うようにして秘書の運転するBMVでホールへ乗り付け、一時間も滞在せずに戻っていくことも珍しくはなかった。
しかし、今日はスケジュールに余裕があったためか、午後の早い時間から、自分自身で愛車を運転し、本拠地ホールへとやってきたらしい。
濃茶色の、スリーピースのオーダースーツに身を包み、いつものようにヴィヴィアンウエストウッドの派手なネクタイが人目を惹いている。相変わらず、その身なりに隙はない。
赤城は、事務管理室の隅に設えてある簡易的な応接スペースで、ゆるりとくつろいでいた。
事務室の中には、赤城と華音の他に人影はない。受付の設営のために、事務職員はすべてロビーに借り出されているためだ。
いつもであれば、オーナーの赤城の対応は事務職員がしているのだが、今日は、音楽監督のサポート業務を外されて手持無沙汰な華音に、その役目が回ってきたのである。
華音は手慣れたように、赤城にアイスコーヒーを給仕する。
氷は少なめ。ガムシロップは一つだけ。ミルクとストローはなし、だ。
赤城はガムシロップのポーションを注ぎ入れると、かき混ぜもせずに、一気に半分ほど飲み干した。
いつもながらに豪胆な飲みっぷりである。繊細さの欠片もない。
華音は赤城の話し相手を務めるべく、お盆を携えたまま、向かい合うようにしてソファに腰かけた。
赤城は周囲に人がいないのを改めて確認して、ゆっくりと喋り始めた。
「鷹山君は、ずいぶん荒れているようだな。楽団員から、私のところへちらほら苦情が届いている」
「苦情だけですか?」
「どういう意味だ?」
「羽賀さんが言ってました。祥ちゃんに戻ってきてほしいって思ってる人たちがいるって」
「そういう声があるのは、私も承知しているが――」
オーナーの赤城は珍しく言葉の選択に迷っているのか、歯切れの悪い言い方をする。
「何というかね……私には到底理解できないのだよ。仕事に私情を交えて、ないがしろにしてしまうまで、その身を崩してしまうということが」
何一つ、間違ったことは口にしていない。
『到底理解できない』とまで言い切るのは、赤城自身の恋愛観が鷹山のそれと、相容れないものだということを示している。
ふと、何となく。
華音は気まぐれに、目の前の大男に尋ねてみた。
「赤城オーナーは、誰かのことを好きになったことって、ないんですか?」
「三十八年も生きていれば、それなりの経験は積んできているつもりだが。ただし、私は恋愛で学業や仕事をおろそかにしたことはないがね」
赤城らしい答えだ。迷いなく、自身の恋愛ポリシーを披露する。
しかし、本当にそうなのだろうか。
どんな人間だって、程度の差こそあれ、恋愛によって影響を受けることがあるのでは――そう華音は思い、さらに赤城に聞いてみた。
「じゃあ、一番好きだった人って、いつ、どのくらい付き合ってました?」
「一番か……別に順位をつけるものではないが、あえて言うなら大学時代かな。若さゆえの過ち、というやつだな」
大学時代。聞き覚えのあるキーワードだ。
華音はすぐさま、女子特有の鋭い『勘』を発動させる。
「あ、それ、ひょっとして……前に連れていかれたブティックの女の人?」
「な――」
おそらく図星をさされたのだろう。
あまりにも分かり易すぎる赤城の反応が、華音の目にはひどく滑稽に映った。
「あの人、オーナーと大学時代からの知り合いだって、確か赤城先輩って、そう呼んでましたよね。ただの後輩にしては、口の利きかたが妙に親しげだったから」
「……大昔の話だ。それにしても、芹沢君の観察力は侮れないな」
赤城は動揺を抑えようと、半分ほど残されていたアイスコーヒーのグラスを手に取り、すべて一気に飲み干した。
お替りは結構――と、グラスをテーブルの上に戻すと、小さくなった氷が涼しげな音をたてた。
幾分落ち着いたらしい。
オーナー赤城との恋愛談義は、さらに続く。
「今はどうなんですか? カノジョは? というか、いい年して結婚願望とかないんですか? 会社経営しててお金もあるし、背も高いし、身体も鍛えてそうだし、顔もそこそこ整ってるし、なかなかのハイスペックだと思いますけど」
「それが意外と難しくてね。並大抵の女性では、私の相手は務まらないからな。芹沢君、君ならいつでも歓迎だ。なんなら、赤城華音になってみるか?」
この大男と来たら。いけしゃあしゃあと甘い言葉をためらいもなく口にする。
ふざけているのは一目瞭然だ。
華音は赤城オーナーの戯れ言に、負けることなく言い返した。
「……要するにそれって、私のこと『並大抵の女性じゃない』って言ってますよね? ヒドイ」
華音がすねるのを見て、赤城は顔をほころばせて、楽しそうに笑い出した。
オーナーの暇潰しに付き合い、だらだらと話し込んでいたその時である。
事務室の扉がゆっくりと開き、そこから見知らぬ中年男性が顔を覗かせた。
勝手が分からないのか、男はおずおずと切り出す。
「すみません。あの……」
「あ、はい。何でしょうか?」
今日は演奏会当日のため、様々な業者が出入りするのである。
花屋か、弁当の配達か――受け取りにサインをしようと、華音はペンを持ってその男のもとへと近づいていく。
すると。
「あのー、鷹山楽人はどちらですか?」
その言葉に、華音はふと動きを止めた。
――あれ……いま、呼び捨てにしてた?
華音が返答に躊躇しているのを見て、赤城はソファから立ち上がって颯爽と華音の側へとやってきた。
「うちの音楽監督に、なにか御用ですか?」
赤城はどこか訝しげにして、男の顔をまじまじと観察するように見つめる。
呼び捨てにしているのを、赤城も聞き逃さなかったのだろう。必然的に、鷹山よりも目上の人物ということになるのだろうが――およそ音楽関係者とは思えない朴訥とした雰囲気が、赤城の胸の内に疑問符を浮かび上がらせたようだ。
「失礼ですが、お名前をお伺いしてもよろしいですか?」
「鷹山信明といいます。楽人の父です」
――ということは……この人、ひょっとして富良野の!?
「そうでしたか、あなたがあの鷹山君のお父さんですか! 私は楽団オーナーの赤城です。実に面白い!」
「……面白いって、そんな」
赤城は、長身をかたわらの華音に寄せて、素早く耳打ちする。
「鷹山君の生い立ちを語る上での『最重要人物』だろう? 実に興味深いじゃないか?」
赤城はビジネスマン風の営業スマイルを造って、華音にさらりと指示を出した。
「君が鷹山君のところへ案内すればいい。今ならまだ監督室にいるはずだ」
「え? でも……」
華音が音楽監督室に出入り禁止になっていることは、オーナーの赤城も知っているはずである。
華音が腑に落ちない表情をすると、赤城はさらに付け加えた。
「君が適任だ。さあ、行ってきたまえ」
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