策略に揺れる楽団(1)

 夜明け前から降り続いていた雨が、午後になって小雨となった。夕方には完全に止むことだろう。

 今日は金曜日、芹響の本拠地ホールでは、ヴァイオリンソロの羽賀真琴を交えた予行練習、すなわちゲネプロが行われている。



 華音はいつも通り高校で授業を受け、放課後になってようやく本拠地ホールへと向かうことにした。


 以前と違って、急ぐ必要はない。赤城オーナーの小間使いをするといっても、今の芹響には『RAMP』という赤城が統括する演奏会の運営チームもあるため、特にすすんでやれる仕事は実質ないのである。


 オーナーの赤城が本拠地を訪れていれば、話し相手を務めたり、秘書の真似事もできるのだが、最近は興味のある演奏会のその当日にしか現れない。

 今頃、本業の社長業にいそしんでいることだろう。



 華音が本拠地ホールへ着いたのは、午後四時を過ぎた頃だった。

 予定では、午後三時まで演奏会第一部の「チャイコフスキー ヴァイオリン協奏曲」の総リハーサル、三十分の休憩を挟んで第二部の「ドヴォルザーク 交響曲第9番」の総リハーサルとなっている。


 どうやら今日は、予定通りスケジュールが進行しているらしい。

 何故なら、第一部のリハーサルを終えたらしいソリストの羽賀真琴が、帰り支度をすませた状態で、エントランス脇のベンチに座っていたからである。


 白を基調とした細身のパンツスーツに身を包み、まるでCAのように、モダンな柄の派手なスカーフを首に巻いている。遠目でも、すぐに真琴だと確認できる。

 すらりとした付き人の青年は、その側に立ったまま控えている。そして、華音の姿を確認すると、真琴に笑顔で目配せし、「車を回してきます」とその場を離れていった。


 真琴は、華音が来るのを待っていたらしい。片手を挙げてベンチから立ち上がり、意味ありげに微笑みながら、華音のほうへと近づいてくる。


「ねえ華音ちゃん、今夜一緒にご飯しようよ」


「え、今夜ですか?」


 突然の申し出に、華音は途惑った。

 食事をともにするような仲では、決してないはずなのだが――。

 そんな華音の心の内を表情から読みとったのか、真琴はさらに説明を付け加えた。


「もちろん、保護者同伴でね。ホテルのレストラン、予約しておくからよろしくー」


「保護者同伴?」


 華音が首を傾げて聞き返す。

 すると、涼風のような美しきヴァイオリニストは、にわかにはしゃいでみせた。


「祥先輩に決まってるじゃないー。だってもう二年くらい会ってないし。祥先輩に会って、明日の演奏会の英気を養いたいんだもん」


 あまりにも分かりやすいその理由に、華音は呆れ混じりのため息をこれ見よがしについてみせた。


「そういうことですか。私はダシで、ついでってことですね」


「そんなすねないの。あ、病み上がりなら和懐石とかのほうがいいよねー。よし、奮発して高いのご馳走してあげるから、任せといて!」


 真琴は華音の返事を待たずに、正面入り口に横付けされた車に向かって、善は急げとばかりに勢いよく駆け出していった。




 華音はすぐに、マンションで夕食の支度をしているであろう富士川に電話を掛けた。

 真琴からの誘いを伝えると、富士川は意外にもすぐに了承してみせた。


 華音はいったんマンションへと戻り、そして二時間後――。

 真琴の指定通り二人連れだって、彼女が宿泊する市内随一の高級ホテルへとたどり着いた。




 真琴はホテルの豪奢なエントランスロビーで、華音と富士川青年を待ち受けていた。

 きっちり身なりを整えたスーツ姿の富士川青年の姿を見つけるなり、真琴は喜色満面の笑みで飛びついてくる。華音はすでにそっちのけだ。


「ホントに来てくれたー! 祥先輩、相変わらずシュッとしててカッコいいですねえ。スーツ姿も決まってて、ホント惚れ直しちゃうー。アハハッ」


「……付き人さんは一緒じゃないんですか?」


 華音ははしゃぎまくる真琴に冷ややかな目を向けながら、『婚約者』である付き人の青年の所在を確認してみる。

 辺りを見回しても、その姿は見当たらない。

 すると、真琴は肩をすくめて、あっけらかんと言い切った。


「彼、ああ見えてかなりのやきもち焼きなの。連れてきちゃったら祥先輩と思いっきりラブラブできないもーん」


 唖然とする華音の側で、富士川は手慣れたようにして、真琴の言葉を容赦なく切り捨てた。


「いい加減にしろ羽賀。まったくお前というやつは…………変わらないな、全然」


「それって褒め言葉ですよね? 祥先輩も私と再会できて嬉しいでしょ?」


「そうだな。元気そうで何よりだ」


 何を言われてもその更に上をいく真琴のアプローチっぷりに、さすがの富士川青年も根負けしたのか――どこか懐かしそうにして、眼鏡の奥の切れ長の両眼をゆっくりと緩ませた。




 真琴が予約していた和懐石の店は、ホテル地階の奥にあった。

 石庭をイメージした中庭を眺めながら、落ち着いた雰囲気で食事が楽しめるようだ。

 華音たちは和装の店員に案内され、特に庭の景色が良いテーブル席の個室に通された。


 テーブルの上には、先付や向付のお造りなどのいくつかの料理がすでに配膳されている。

 真琴は自分が飲む日本酒の銘柄を店員に告げ、華音と富士川の分のウーロン茶を二つ注文した。

 着席し、やがてそれらが運ばれてくると、三人そろって乾杯をした。


 真琴は近況の報告もそこそこに、冷酒を水のように豪快にあおって、早々にほろ酔い加減になっている。

 アルコールにめっぽう強い性質らしい。

 いつも以上に口数が多くなる真琴のおしゃべりに、ノンアルコールの富士川と華音は、上品な懐石の酒肴を口に運びながら、淡々とつき合っていた。


「祥先輩! 私、ソロやるんです。明日、絶対聴きに来てくださいねー!」


「そのつもりだよ。しかし、お前が鷹山と組んで仕事するなんて、なんだか複雑な心境だな」


「やっぱり複雑なんですかー? もー、祥先輩と楽人君って、なんでそんなに仲、悪いんですか? 芹響の楽団員さんたち、みんな困ってますよ? 二人して華音ちゃんのこと取り合ったりするからぁー」


 すでに出来上がった酔っぱらいと化した真琴に、もはや禁句は存在しない。

 名指しされた富士川は、珍しく取り乱している。真琴相手だと、どうも調子が狂ってしまうらしい。言葉を選び、努めて落ち着いた口調で、慎重に答える。


「取り合う……って、そんなに簡単な問題じゃないんだが」


 一方の真琴は、言い淀む富士川にもお構いなしだ。酔っぱらいの戯言はさらに続いていく。


「だって、昔っからそうじゃないですか。祥先輩はいっつも華音ちゃん命で、私が何度アタックしても振り向いてくれなかったくせにー」


「……アタックって。お前のは『突撃』だろ」


 富士川青年はおしぼりで何度も額を押さえている。完全に真琴のペースに嵌ってしまったようだ。


「楽人君は楽人君で、自分が手に入れられなかったものを祥先輩が全部持ってるって、付き合ってた時よく私に言ってたし。それってそれって要するに、華音ちゃんってことだったんじゃ?」


 真琴の好奇に満ちた視線が、今度は、煮物を頬張る華音の顔へと注がれる。


 鋭い。

 鋭すぎる。


 華音はのどにつかえた里芋を、慌ててウーロン茶で流し込んだ。


「……そんなに簡単な問題でも、ないと思いますけど」


「相変わらずお前は直球だな。華音ちゃんを困らせるんじゃない」


「はぁーい」


 真琴は、敬愛する先輩にたしなめられ少しは反省したのか、話題を変え、今度は音大時代の思い出話に花を咲かせ始めた。

 懐かしい時間がゆるりと流れていく。

 華音はひたすら聞き役に徹していたが、一通り料理を堪能し、デザートである水菓子が出されたとき、真琴はふと何かを思い出したようにして、富士川に訊ねた。


「そうだ祥先輩、明日演奏会が終わったら、練習に付き合ってもらえませんか?」


「練習? 打ち上げがあるんじゃないのか?」


「またすぐにパリへ戻ってレコーディングなんです。どうしても祥先輩の師事を受けたくって」


 柄にもなく、まるで小動物のような、か弱げな眼差しを向けている。

 そんな真琴の申し出に、富士川は半ば呆れたようにして、首を横に振った。


「おいおい、国際的に活躍してるヴァイオリニストに俺が教えることなんてないよ。とっくに追い抜かれてるさ」


「えー、可愛い後輩の頼みを聞いてくれないんですか? こんなに美味しいお食事御馳走してるのにー?」


 先程までのか弱さはどこへやら。今度は大胆にも、上目遣いを駆使して、敬愛する先輩に懇願する。甘え方も堂に入ったものだ。


「まったく……分かったよ」


 富士川はあっけなく陥落した。断ったところで、肯定の返事をするまで食い下がられて、面倒臭いことになることを、経験的に知っているためらしい。


「ちょっと手荷物が増えますけど、明日は楽器持参でお願いしまーす」


「それは構わないよ。それで、何を練習するんだ?」


 富士川が肯定的な態度を見せたのをいいことに、真琴はどこまでも楽しそうにしながら、よどみなく曲名を口にしていく。


「今度のアルバム、バロックの小品集なんです。アルビノーニとか、マンフレディーニとか。祥先輩の得意なやつですよー」


「それじゃ、厳しく指導しないとな。ははは」


 珍しく、富士川は声を上げて笑った。


「やった! 華音ちゃん、リハーサル室の予約、お願いねー。祥先輩と秘密のレッスン、むふふふふー」


 華音は、羽賀真琴という女流ヴァイオリニストの、あまりのキャラクターの濃さに圧倒され、どっと疲労感を覚え、すでに返答する力を失っていた。

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