風は囁く(4)
アルバイト再開の許可を取り付けた、次の日――。
羽賀真琴をソロに迎えたチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲の演奏会は、二日後に迫った。
今日はオーケストラだけの通常練習で、明日はソロの羽賀真琴を交えてのゲネプロが予定されている。
真琴は、ゲネプロの前に自主練習がしたいと、マネージャーを通じて楽団側に連絡してきた。美濃部青年がその対応をし、リハーサル室の一つを開けるよう手配していたのを、華音はそばで聞いていた。
あとで、挨拶だけでもしにいこうか――それくらいは許されるだろう、と華音はのんびりと考えた。
とにかく、今は仕事である。
華音は事務管理室でひとり、プログラムに他団体の演奏会のチラシを挟み込む作業をすることにした。
冊数も多く、気の遠くなるような作業だが、それでも音楽監督のアシスタントよりは、ずっとずっと気楽な仕事である。
ドアの向こうの廊下で、何やら首席陣の動きが慌ただしい。
歩きながら話しているのか、通り過ぎざまに、コンサートマスターの美濃部を始めとした数人の話し声が聞こえてくる。
「監督、休みだって?」
「体調が優れないそうで」
「明日は羽賀さんとのゲネプロだよ? 夜遊びばっかしてるからじゃないの?」
「やっぱり? そういえば藤堂女史も今日、珍しく遅刻してきたしさ」
「え、たまたまでしょ? 見てきたような噂話は感心しないよ」
「ちょっと待って、華音さんとはどうなったの?」
事務室に華音がいることを知らずに、それぞれが好き勝手なことを言う。
やがて気配は遠ざかり、話し声は聞こえなくなった。
――鷹山さんが、体調不良で休み? 藤堂さんが遅刻?
その会話が何を意味しているのか、華音はすぐに理解できずにいた。
パンフレットにチラシを挟み込む手を止め、しばし考える。
その時である。
突然、前触れもなく事務室の扉が勢いよく開いた。
「ちょっとー、何? 私がパリ行ってる間に、雰囲気がらりと変わってるんだけど。華音ちゃん、楽人君を捨てて祥先輩とより戻したって、ホント!?」
威勢よく中へ入ってきたのは、羽賀真琴だった。
華音は驚きを通り越し、ただ茫然と、目の前に現れたすらりとしたショートヘアの美女を見つめた。
ソロを受け持つゲストであるはずなのに、パリ帰りのヴァイオリニストは、ホール内をあちこち散策しては休憩中の楽団員を捕まえて、持ち前の人懐っこさを生かして噂話に興じていたようだ。
こちらから挨拶に出向くまでもなかったな――と、華音はふとそんなことを思った。
「祥ちゃん、病み上がりなので側についているだけです。捨てたとかより戻したとか、そういうことじゃないですから」
「相当荒れてるみたいだねえ、楽人君。完全、本業をないがしろにしてるみたいだし、このままじゃ降ろされるのも時間の問題じゃない?」
「そんな……」
音楽監督を辞めさせないために、別居という選択をしたのに、その行動が徒となって監督業務を半ば放棄する事態となっているのだから皮肉なものである。
「団員たちにもそういう風が吹き始めてるし」
「そういう『風』って?」
「祥先輩に帰ってきて欲しいって人が、少なからず存在してるってこと」
真琴は、仕方がないといったふうに、短くため息をついた。
もちろん華音自身も、あかりを始めとする富士川祥を慕う「富士川派」と呼ばれる楽団員の存在は知っている。
しかし、富士川がコンサートマスターを退き退団してからもうじき一年――鷹山が音楽監督になってからは、「富士川派」は鳴りを潜めている。少なくとも華音はそう思っていたのだが、真琴は楽団にとってあくまで第三者ということもあり、団員たちは気安く本音を話したのだろう。
噂とはいえ、その信憑性は高い。
「楽人君は、こうやって精神不安定なところがあるのがねー、団員たちもそれについていくのは大変だろうし」
真琴の話を聞き、華音は昨日、鷹山に言われた言葉を思い出した。
【君をあの男に取られてまで、音楽監督をやる意味がどこにある?】
華音が深々とため息をつくのを見て、真琴はさらりと言った。
「何とかしてあげようか、華音ちゃん?」
「何とかって、何ですか?」
華音が訝しげに聞き返すと、真琴は何故か優雅に微笑んでみせる。
「ハッキリ言ってさ、美濃部君なんか、全然大したことないし。中立的といえば聞こえはいいけど、つまりは中途半端で皆のお手本になるようなタイプじゃないんだよ。楽人君の、新しい風を吹かせようという心意気も分かるんだよ? でも、それを支えるのが美濃部君じゃ、役不足」
「……まあ、そりゃあ、祥ちゃんと同じというわけにはいきません」
真琴は華音の反応に気を良くしたのか、ひときわ胸をときめかせたような目をして、芝居がかったように喋りだす。
「昔見たことあるんだけど、芹沢先生にね、祥先輩が指示を受けると、忠犬のような目をして真剣にそれを仰いで、率先して実践して、皆がそれに倣う……」
うっとりと、過ぎ去りし日々の美しい思い出を思い出すかのように、真琴は一人満足げに頷いている。
「だからさ、別に美濃部君じゃなく、祥先輩でもいいんじゃないの? それこそ弟子の順番なんてこの際考えないでさ」
その言葉に、華音は唖然となった。
音楽監督とコンサートマスターという関係に収まればいいと、この涼しげな美貌のヴァイオリニストはあっけらかんと言う。
「……ありえなくないですか? もし仮に、ですけど、そうなったら美濃部さんはどうするんです?」
「彼はそういうことにはこだわらないでしょ。もともと事務仕事が好きなようだし、ステージマネジメントを任せればいい」
おそらく間違ってはいない。美濃部青年であれば、確かに二つ返事で了承するだろう。
「前も言ったけどね、祥先輩は芹沢の名が似合うよ」
真琴は意味ありげに華音に微笑んでみせる。
しかし、問題は山積している。
それよりなにより――。
「でも、いまさら戻ってこれないですよ。鷹山さんが許すはず……ないですから」
「そう? きっかけなんてね、ほんの些細なことだったりするんだよ」
自由奔放な風が、凛とした笑みをのせて颯爽と通り抜けていく――。
そして。
この、羽賀真琴が残した一言が、やがて大きな事件を引き起こしてしまうことを、華音はのちに知ることとなる。
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