風は囁く(3)

 恐る恐るドアを開けると、安西青年が話していたとおり、気まぐれな音楽監督は練習を途中で切り上げたのか――スコアが応接セットのソファの座面に、乱雑に置かれたままになっている。



「いまさらどの面下げて戻ってきたんだ」


 部屋の奥に視線を向けると、鷹山は革張りの椅子にふんぞり返るように腰かけて、行儀悪く革靴のままデスクに足を載せ、憮然とした表情を見せていた。

 重症だ。

 絶対に、華音に友好的な態度はとってこないとは思っていたが、やはり口から発せられる言葉は辛辣そのものだ。


 華音は意を決して、不機嫌な悪魔に向かって軽く頭を下げた。


「オーナーの許可が出たので、外回りとかの雑用は私がやります」


「許可? 君の仕事の有無を、なぜオーナーが決める?」


 美貌の音楽監督は眉をひそめ、微かに首を傾げた。

 周囲の空気が一気に張りつめる。

 華音は薄氷を踏むように、慎重に言葉を選んだ。


「お給料払ってくれているのは、赤城オーナーですので……」


 眉間のしわはさらに深くなった。

 そして、氷はあっけなく割れ、破損した水道管のように文句が噴き出してくる。


「オーナー、オーナーって、君はどうしていつもいつもそう簡単にオーナーの言いなりになるんだよ」


 鷹山はデスク上から両足を下ろし、おもむろに椅子から立ち上がった。そして、立ちすくむ華音のほうへと、ゆっくりと近づいてくる。


 華音は息をするのも忘れ、その場で固まったまま、じっと鷹山の様子をうかがった。

 しかし華音の予想に反して、鷹山は応接セットへと向かい、散らかったスコアを両手で雑に避けるようにして、空いたところにどかりと座り込んだ。


 鷹山はどこまでも気怠そうな表情を崩さず、大きな琥珀色の瞳をゆっくりと瞬かせ、面白くなさそうに吐き捨てるように言う。


「だいたい、あの金蔓男は口出ししすぎなんだよ。僕と君の本当の関係を知ってる人間は、和久さんと乾さんとあの金蔓男くらいだろ。黙って墓まで持っていけば済む話じゃないか。君が未成年だから? そんなの理由にならないね。だったら、どうしてあの男は許される?」


 あの男――。


 それが誰のことを指しているのか、華音はすぐに分かった。

 心臓の鼓動が、大きく脈打つような音をたてる。


「あの男のところで暮らして、毎日毎日楽しいか? 家出して、馴染みの男と同棲して、楽しくないわけがないよな?」


「祥ちゃんと……私は、そういう関係じゃないって、何度言えば……分かってくれるの?」


 華音は言葉を振り絞るようにして、弱々しく鷹山に答えた。

 しかし、弁解の猶予は与えられない。すぐに反撃が飛んでくる。


「君の戯言なんか、百万回聞いたって分かるもんか」


 鷹山の息もつかせぬ口調は健在だ。持ち前の機関銃のようなしゃべりはさらに続く。


「そんなにあの男が心配か? 病気で入院していると聞けば僕を欺きないがしろにしてまで、『そういう関係じゃない』赤の他人に、逢いたくて逢いたくてしょうがない? これでも疑うなって? 理解しろって? 君はそんな馬鹿げたことを、この僕に言うんだ?」


 鷹山の勢いに押されて華音が口を閉ざしてしまうと、やがて饒舌な悪魔も勢いを失い、辺りに重苦しい沈黙が立ち込める。


 その束の間の静寂を先に打ち破ったのは、鷹山のほうだった。

 ゆっくりと口を開き、そして――。


「僕じゃなくちゃ嫌だって……あれは嘘だったのか?」


 鷹山の唇が震えている様子が、華音の目にハッキリと映った。


 ――違う違う違う違う。


 あふれる想いが言葉にならない。力なく首を横に振ってみせるのが、華音の精一杯だ。


「だって、音楽監督を辞めさせられたら……鷹山さんのためには、こうするしか――」


「あの男と暮らしてるのは、僕のため? それが僕のためだと、君は本当に思っているのか? 僕が音楽監督で居続けることが、そんなに大事なことか?」


「音楽監督は、鷹山さんの天職だと思う。だから、どんなことがあっても続けていてほしいの」


 華音は目の前の『兄』に、自分の譲れぬ思いを伝えた。

 その懇願の言葉に――。

 鷹山はこの世の終わりを迎えたかような、すべての感情が麻痺してしまったような表情で、華音の顔をまっすぐに見据えた。


「君をあの男に取られてまで、音楽監督をやる意味がどこにある?」


「鷹山さん……」


 ――ああ、もう。


 どうしてこの男は、こんなにも脆く、いまにも崩れてしまいそうな顔をするのだろうか。

 華音は黙ったまま、鷹山の壊れていく心の声に耳を傾ける。


「節操なく女性と関係を持ったりするようなスキャンダラスな人間は必要ない――そう、オーナーの言うとおりだよ。しかもそれが未成年で、図らずとも実の妹だなんて、狂ってると言われても仕方がない」


 透き通った琥珀の両瞳が、ゆっくりと瞬く。

 鷹山はなおも続けた。

「そう、僕はいつもそう言われるんだ。要らない、必要ない、って。君だけは違うって思っていたけど――自分で自分のやっていることが、もう……よく分からない」



 その時である。


「監督、ゲネプロのスケジュールなんですけど――」


 ドアノブを回す音がし、すぐにドアが開く。ノックもなしに中へ入ってきたのは、華音の代わりに鷹山のサポートを任された藤堂あかりだった。


「あ……華音さん?」


 あかりの両眼はこれほどまでにないくらいに見開かれている。

 鷹山は素早くソファから立ち上がり、あかりに背を向けると、ひと言で説明をした。


「今日からまた働く気らしい」


 あかりはその場の状況を把握しようと、音楽監督とそのアシスタントの少女の様子をうかがっている。


「では、私は華音さんに引き継ぎを……」


 ようやく鷹山は振り返った。

 すでに気持ちを切り替えたのか、仕事モードの顔つきに戻っている。そして、あかりが手にしていた紙の束を半ば奪うようにして受け取ると、機械的に喋り出した。


「いや、藤堂さんはこのままでいい。芹沢さんはせいぜい、大好きな金蔓オーナーの小間使いでもしてればいい」


 鷹山は華音に一瞥をくれると、再び奥のデスクのほうへ移動し、あかりから受け取ったスケジュール表に目を通し始めた。


「……分かりました」


 もう、華音のことは眼中にないようだ。

 あかりの手前、そういう素振りを見せている、と言うべきなのだろうが――華音は、途惑いの表情を浮かべているあかりの脇をすり抜けるようにして、そのまま音楽監督室をあとにした。



 部屋から出て事務管理棟へ戻ろうと歩き出すと、すぐに背後から、音楽監督室のドアが開く音がした。

 振り返ると、そこに立っていたのは藤堂あかりだった。

 ムスクの香りをまとわせている美しきヴァイオリニストは、何かを言いたげにしてたたずんでいる。


「あの、華音さん……私」


「え? いえ、いいんです! 私のことは気にしないでください! ホール出入り禁止にならなかっただけ、マシですから」


 鷹山は持ち前の饒舌さを生かして喋りまくってはいたが、頭ごなしに怒鳴りつけて追い出すようなことはしなかった。オーナーの小間使いでもしてればいいと、いつものように悪態をついていただけだ。

 こちらが拍子抜けしてしまうほどに――。


「それより藤堂さん、鷹山さんに振り回されて大変ですよね。本当にすみません」


「大変だなんて、そんな……なんとか監督のお力になれればと思っているんですけど、なかなか」


 あかりは目を伏せながら、小さくため息をついた。

 その様子から察するに、思うようにいかないもどかしさ故の気苦労が積み重なっているのだろう。

 監督室の中から、鷹山の声がする。


「呼ばれたので、行きます。それでは」


 あかりはまだ何かを言いたげにしていたが、華音に会釈し、再び音楽監督室のドアの内側へと消えていった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る