風は囁く(2)

 様子見をしていたオーナーの赤城からようやくアルバイト再開の許可を取りつけると、華音は久しぶりに芹響の本拠地ホールへとやってきた。


 休んでいる間は、コンサートマスターの美濃部とだけは、事務上必要なやり取りを電話で何度かしていた。

 鷹山が、用事のすべてをあかりに頼むようになった、ということ。ただ、コーヒーだけは自分で淹れているらしいというのを、華音は監督室に出入りする美濃部から聞いた。


 まずは、管理棟にある事務室へと足を向けると、その途中にある休憩スペースで、さっそくヴィオラの若手団員と遭遇した。

 安西青年は、愛器のヴィオラを自身が腰掛けるベンチの側に置いて、悠然と缶コーヒーを飲んでいた。


「…………華音サン? お久しぶりー」


 華音の姿をとらえ、安西青年はいつになく驚いた表情を見せた。しかしすぐに脱力し、黙々とコーヒーをすすり出す。


「ホントにお久しぶりです、安西さん。ようやく今日からバイト復活したので、またよろしくお願いします。といっても、やることはほとんどないんですけど」


 そこまで説明をして、ふと、華音は壁掛け時計に視線をやった。

 時計の針は、十五時半を指している。


「あれ……安西さん、合わせの練習は? 十六時まででしたよね?」


 安西青年は、手にしていた缶コーヒーを一気に飲み干した。ふうと軽く息をつき、華音の問いに答える。 


「最近はもう、スケジュールなんて、あってないようなものだからさー」


「え……どういうことですか?」


「時間通りに始まらないくらいならまだいいほうで……突然前倒しで始まって、メンバーが集まってなければ暗雲ならぬ雷雲が立ち込めて、巨大な雷をいくつも落として、そのあとの予定をすべてキャンセルとか、まあ、華音さんが来なくなってからは毎日そんな感じー」


 華音は言葉を失った。

 安西青年特有の軽い物言いが、逆に事の深刻さを感じさせる。もはや、驚嘆という名の深い深いため息しか出てこない。

 華音の心の内を見透かすように、安西青年はさらに続ける。


「荒れ狂う監督にさー、もう誰も手がつけられないんだって。唯一、藤堂サンが必死に説得してるみたいだけど、そこはやっぱり、華音サンじゃないと上手く転がせないっていうか」


 ずきりと、胸が痛む。

 鷹山と藤堂あかりのやりとりが、極めて鮮明に、華音の脳裏に浮かび上がる。


「でも、元はといえば華音サンが、元彼を選んで監督のコト振っちゃったからなんでしょ」


「祥ちゃんは、元彼とかそういうのじゃないです」


「違うの? 古くからいる人はみんなそう言ってたんだけどなー。元のさやに収まった――って。だって華音サン、監督を置いて芹沢邸から出て、いまは兄弟子サンと一緒に暮らしてるんでしょ?」


「祥ちゃんはもともと一緒に住んでたこともあったし、家族みたいなものなの。鷹山さんと同じ家にいるのよりも、自然というか……」


 華音がその場を取り繕うように、そう言うと。

 安西青年は手にしていたコーヒーの空き缶を、リサイクル用のゴミ箱めがけて投げ入れた。空き缶は派手な音をたてて、きちんと箱の中へと収まる。

 そして、これまで見たことのないような厳しい表情をして、何かを振り払うかのように首を横に振り、大きなため息をつくと、突き刺すような眼差しで華音を見据えた。


「もうドロッドロ。まあ、華音サンひとりのせいとは言わないけどさ。でも、ただでさえ監督は、兄弟子サンとは犬猿の仲なんでしょ? 何があったか知らないけど、乗り換えたらこうなることくらい、華音サンでも予想ついたんじゃないの?」


 普段は飄々としている安西青年の、いつになく強い口調に押され、華音はわずかにたじろいだ。


「……乗り換えた、って……そんな。だって、鷹山さんのために、こうするしか」


 華音はそこまで口にして、続く言葉を飲み込んだ。

 ただでさえ噂好きで、口の軽い安西青年に話しては、尾ひれがついてすぐに広まってしまう――そう、警戒したのもつかの間。


 安西青年は、いつものように茶化したりすることも、好奇心に任せて追及してくることもせず、言い淀んだ華音の表情をじっと観察するように見つめている。

 二人の目と目が、しっかりと合い、そして。


「監督のため、なんだ」


「……うん」


 華音は素直に答える。


「そっか」


「うん」


「それ聞いて安心した」


 意外な言葉だった。

 驚きの表情を見せる華音をよそに、安西青年はまたいつものような飄々とした口調に戻って、さらりと言う。


「俺、兄弟子サンのこと、知らないから。最近さ、その『富士川派』? っていう団員の人たちが、鷹山監督のことを腫れものを触るかのようにしてるの、正直、面白くないんだよね」


「安西さん……」


「監督には、華音サンが必要だと思うな」


 そう言って安西青年は、ベンチから立ち上がっると、ヴィオラを再び携え、自主練習のためリハーサル室のほうへ歩き去っていく。


 華音は立ちすくんだまま、若き楽団員の後姿を見送っていた。

 そしてようやく心を決めると、鷹山がいるであろう楽屋棟四階の音楽監督室へと向かって、ゆっくりと歩き出した。






【3幕 奈落の章】 12.風は囁く 後



 華音は、楽屋棟四階にある音楽監督室へと続く階段を、一段一段ゆっくりと上っていった。

 静かだ。

 華音の重苦しい足音だけが、吹き抜けの階段に反響している。


 すんなりと仕事を再開できるとは、もちろん思っていない。

 これまでも二人は何度となくケンカをしてきたが、今回ばかりは赤城オーナーや富士川青年など第三者を巻き込んでしまっているため、もはや修復不可能な気がしてならなかった。


 しかし。

 今回の演奏会のサポート業務を外されてしまっているとはいえ、音楽監督の鷹山に挨拶しないわけにはいかない。




 華音は声を出さず、音楽監督室のドアを数度ノックした。

 意図せず、鼓動が早まっていく。

 数秒後、部屋の中から「どうぞ」と物憂げな返事があった。


 ―― 中に、いる。

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