風は囁く(1)
オーナーの赤城の命令によって、華音が鷹山と『別居』してから、早一週間という日々が過ぎようとしていた。
広大な芹沢邸から比べたら、富士川が暮らすワンルームマンションはかなり手狭だ。
ただ、ワンルームと言っても、大きな家具はほとんど置かれていないため、居住スペースはかなり広々としている。
その証拠に、華音のために用意したベッドも、センターテーブルをはさんで、もともと置かれていた家主のベッドと反対側の壁際に、きちんと収まった。
ウォークインクローゼットにも充分空きがあったため、富士川は少ない私物を片側に寄せて、華音の身の回りの物はすべてそこへ収納した。
富士川と同じ部屋に寝泊まりすることの緊張感は、全くなかった。あるのは、昔のようにいつも一緒にいられる、という安心感だけだ。
ゆるりと、時間は過ぎていく。
一方の富士川青年は、それとは対照的に、華音との同居にかなり気を遣っているようだった。
特に、お風呂や洗濯などの扱いには、かなり途惑っているらしい。
今も洗濯機を前にして、別々のバスケットに分けた洗濯物をどうするべきか、富士川青年は真剣に悩んでいる。
華音は首を傾げて、洗面所にたたずむ富士川の背中に向かって声をかける。
「お洗濯? 祥ちゃんと一緒でいいよ?」
「いや、一応、年頃の女の子なんだからさ……一緒っていうのは、さすがに、ちょっとアレかなって」
「うちに居候してたときは、家政婦さんのお手伝いしてお洗濯とかもしてたんでしょ? いまさら気にしなくても」
実際、富士川が芹沢家を出て一人暮らしを始めたのは、音大を卒業した七年前のことだ。当時、華音はまだ小学校低学年だった。
「小さな子供の下着を洗うのとはわけが違うよ」
「ふうん? じゃあ、お洗濯は私がやる」
「駄目だよ、そんな。絶対に駄目」
「どうして?」
「華音ちゃんにそんな事させたら、芹沢先生に顔向けできないよ」
眼鏡の奥の切れ長の目が、慈しむように穏やかに緩む。
変わらない。何一つ。
華音はゆっくりと瞳を閉じた。
――鷹山さんなら「そのくらい出来るだろ」って、そう言う、きっと。
――それか、「君がそう言うなら、特別にやってあげてもいい」かな。
何故か、脳裏に浮かんでくるのは、綺麗な顔をした天邪鬼な男だ。
どことなく物憂げで、毒舌でとにかくよく喋る、一筋縄ではいかない優しい悪魔。
【芹沢さん、コーヒー。濃い目で】
【君が早く来ないから、僕はカフェインが切れてしまって落ち着かないじゃないか。さあ、早く。早くしないとお仕置きするから】
取り留めなく次から次へと、彼の声が華音の頭の中に浮かんでは消えていく。
今頃どうしているだろう。準備していたコーヒー豆もそろそろ切れるころだ。
華音がふと、そんなことを考えていた時――。
「そういえば、もうじき芹沢先生の一周忌だな……芹響で何かやったりしないの?」
その声で、華音はようやく我に返った。
富士川は洗濯機の前で、液体洗剤をキャップで計量しながら、華音に問いかけてくる。
「え……っと、分かんない。春先から私、あまり会議にも入れてもらえなくなってたし。でも……新しい団員もいるから、おじいちゃんがらみのイベントは、きっと考えてないと思う」
そもそも、演奏会の企画の草案を考えているのは華音なのである。
祖父がらみの企画を提案したところで、鷹山が採用するとは思えない。そのため、富士川に言われるまで、祖父の一周忌のことは頭の片隅にもなかった。
「あとで、乾さんに確認しておくよ。ひょっとしたら、奥様の七回忌と一緒にやられるのかな。確か、来月の半ばだったはずだから」
「おばあちゃんの七回忌……もうそんなに経つんだっけ。私、自分の家のこと、なんにも分かってないんだね」
華音の口から、自虐的なため息が漏れる。
洗濯機の操作を終えて、富士川はようやく部屋の中へと戻ってきた。
「そんなこと気にしてどうするの。華音ちゃんはまだ高校生なんだから、当たり前だよ。それを考えるのは俺の役目だから、華音ちゃんは心配しなくてもいい」
本当に、変わらない。
大丈夫。
俺が何とかする。
心配しなくていい。
華音は富士川の言葉に素直にうなずいた。
「そうだ、明日からまた、学校帰りに芹響へ顔を出してくればいいよ」
「えっ?」
富士川はあくまで淡々とした口調で、華音へ尋ねてくる。
「気になってるんだろう? 鷹山のことが」
「……うん。でも」
華音が躊躇するのには理由があった。
「赤城オーナー……許してくれるかな?」
「大丈夫だよ。華音ちゃんがちゃんとここへ帰ってくれば、赤城さんは何も言わないよ」
富士川は穏やかに微笑んで、華音の頭に手を載せ、優しくなでた。
「鷹山は『芹沢』の名前を背負って頑張ってくれてる――だろ? だったら華音ちゃんも、自分にできることを精一杯、頑張ってくればいい」
この男は、華音のすべてを受け入れてくれている。
歪んだ愛も、断ち切れぬ想いも、何もかも――。
「ありがとう、祥ちゃん。あとで、赤城オーナーに電話してみる」
富士川は静かに頷いた。
次の演奏会までは、すでに一週間を切っている。今から音楽監督のアシスタント業務復帰は厳しいだろうが、招待チケットやパンフレットの準備など、事務作業はたくさんある。
オーナーの赤城も、それなら納得するのでは、華音は何となくそう思った。
「そういえば……もうすぐ、羽賀さんがパリから帰ってくるな……」
華音は、『お土産、買ってきてあげるから楽しみにしてて』と言い残し、颯爽とパリへ旅立った、大胆不敵な美女の姿を思い出した。
いよいよ、本番である。
富士川は華音のおしゃべりに付き合うように、慣れたように相槌を打つ。
「ああ、例のチャイコフスキーか。しかし、よく羽賀は受けたな。あの手の叙情的な曲は、彼女には似合わないと思ったけど」
それを聞いて、ふと。
華音は、羽賀真琴が初めて本拠地ホールを訪れた時のことを思い出した。
音楽監督室に通され、演奏会の曲目の話になったときに、鷹山も同じようなことを口にしていた。
【チャイコン? 君が?】
いがみ合ってばかりいるようで、こと音楽性に関しては、富士川と鷹山はこうやって似通った考えを持っていたりもする。
そのことを、真琴を通して知ることになるとは、心中複雑なのであるが――。
華音は、付け加えるようにして富士川に説明をした。
「羽賀さん、自分からその曲指定してきたの。祥ちゃんが前にソロやった曲だから、自分もやりたい、って」
富士川は驚きのあまりしばし瞬くのも忘れ――やがて、呆れ返ったように言った。
「……しょうがないやつだな。いったい何を考えてるんだか、まったく」
「祥ちゃんのことが好きだから、じゃないの?」
華音のストレートな問いに、富士川は迷いなく即答した。
「異様に懐かれていたのは確かだけどさ。あんなに大っぴらに、ところ構わずキャーキャー言われ続けたら、もう諦めの境地というか、怒る気も失せるというか……」
遠い昔のことを思い出したのか、富士川は空を見つめて、嘆息を漏らす。
「俺が大学出て、芹響に正式入団してからも――その頃羽賀はもう、世界コンクールの上位入賞を果たしてたほどの実力者だったんだよ。それなのに、俺を理由にアシスタントプレーヤーやるやる言って聞かないし、それで芹沢先生にもご迷惑をおかけしてしまったりして――もう、めちゃくちゃなんだよ、本当に」
もちろんその言葉に嘘はないのだろうが、目をかけていた後輩であることには変わりないはずである。むしろ、先輩後輩としての確かな絆が存在するからこそ、あえて厳しいことを言っているのだ、そう華音は思った。
「羽賀は、昔っから自由奔放で、自分に正直なヤツだったよ」
富士川青年なりの、真琴への誉め言葉なのだろう。
なんだか分かる気がする――華音は妙に納得してしまった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます