無償の愛を君に(2)

「君が引き寄せられないのであれば、彼らがお互いの存在を受け入れて歩み寄るしかない。しかし、鷹山君にはそれができないんだよ。君が苦しむことになると分かっていても!」


 恐らく、赤城の言うことは正しいのだろう。


「はたして、富士川君はどうだろうね。少なくとも、自分の思いを優先させて君を犠牲にしたりはしないだろう。それが――富士川君と鷹山君の決定的な違いだと、私は思うがね」


 赤城は淡々と持論を展開していく。そこに迷いはない。


 そのときである。

 BMWの車内に、携帯の着信音が響きわたった。


 運転中の赤城は、ホルダーに固定されていたそのディスプレイに表示された名前を確認すると、路肩に車を寄せてゆるやかに停車させた。そして、スピーカーをオンにして、華音にもその通話内容がわざと聞こえるようにした。

 よく知った男の、感情を押し殺したような声が聞こえてくる。



『あなたの仕業ですね?』


 華音の心臓が縮み上がった。彼だ。


「仕業? 人聞きの悪いことを言うのは止めたまえ。すべて、彼女とは合意の上だ」


『意味が分かりません。あなたはいったい彼女に何を?』


 赤城は唇の前に人差し指を立てる仕草をして、華音に目配せをしてくる。声を出すな、と言うことらしい。

 赤城はそのまま会話を続けていく。


「君が音楽監督として居続ける条件として、君たち二人の同居を解消してもらうことを提示した――ただそれだけだが?」


『何を馬鹿な……あなたにそこまで口出しされる筋合いはないと、前にも申し上げたはずでしたが?』


「節操なく女性と関係を持ったりするようなスキャンダラスな人間は必要ないと、そう言っている。ましてや未成年相手など言語道断だ!」


『ハッ、そんな証拠がどこにあると言うんです? あなたが勝手に妄想を膨らませているだけでしょう? とにかく! 芹沢さんは僕のアシスタントですよ。許可なく勝手に連れ出すのは止めていただけますか。早急にホールまで戻ってください』


「君の指図は受けない。しばらくの間、芹沢君を然るべきところに預けることにした」


『ふざけるのもいい加減にしてください。彼女に手を出したら、けっしてタダではすまされませんよ?』


「ハッ、見損なわないでくれたまえ。私は君とは違う。力ずくで奪い返しに来るか? この私のところまで。そのときは、音楽監督の辞任を覚悟してから来るがいい。君の後釜は兄弟子で決まりだ」


「赤城さん、止めて!」


 堪えきれずに、華音は声を出してしまった。しかし、赤城はまったく耳を貸さず、あくまでビジネスライクに淡々と告げる。


「君は音楽監督の責務を果たすことにだけ、専念してくれればいい。私からは以上だ」


 赤城は言いたいことを言ってしまうと、そのまま通話を切ってしまった。




 程なくして、BMWはよく見知った白亜のマンションの前へとやってきた。


「さあ、到着だ」


 赤城に促されるも、華音は黙ったまま助手席のシートで身を強ばらせていた。


「どうした? ここまで来て、気が変わったか?」


 華音は力なく首を横に振った。

 ある程度、話はついているのだろう。しかし、富士川が歓迎して受け入れるとは限らない。

 しかし、ここまで来たら後戻りはできない。

 華音は車を降りて赤城と別れると、一人でマンション内へと入った。



 部屋の前で数分迷った挙げ句、華音はようやく意を決してインターホンを押した。

 部屋の主は、すぐに目の前に現れた。

 開いたドアの間から、すらりとした長身の男が立っているのが見えた。


「祥ちゃん……あの……私」


「それ以上、何も言わなくていいから。さあ、どうぞ」


 赤城がすでに手を回してくれていたのだろう。富士川にはすべての事情がすでに飲み込めているようだった。


 華音は促されるがままに部屋の中へと入り、ベッドの上に腰掛けた。

 相変わらずきれいに整頓されていて、どことなく殺風景だ。しかしその変わらぬ無機感が、逆に心地よかった。


「でも、あの……私がここにきたら、祥ちゃんに迷惑がかかっちゃうし」


「迷惑なもんか。俺さ、華音ちゃんの面倒みるのは、ヴァイオリンよりも得意だから。炊事洗濯掃除のことは気にしなくても、全部俺がやるし」


「そんなこと言ったって……鷹山さんが許してくれるはずないもん」


「鷹山の許しは必要ないから。別に俺が芹響に戻るわけじゃない。その身ひとつで、俺のところにおいで」


 富士川はつかず離れずの距離を保って、華音と向かい合うようにして両膝をついた。

 目線の高さが合う。

 富士川青年がまっすぐと向き合おうとしてくれているのが、華音には分かった。

 その思いに、どう応えればいいのだろう――華音はある種の途惑いを覚えていた。

 どこまで話せばよいのか、それが分からない。


「あのね、私がここに来たのは、あの――」


「聞いてるよ。だから華音ちゃんはここで暮らして、芹響での鷹山のサポートは今までどおり続けたらいい」


「だってそんな……それじゃ駄目なの。私がそばにいたら、鷹山さんが……辞めさせられちゃう――」


「華音ちゃんが毎日ちゃんと俺の元に帰ってくれば、鷹山のサポートを続けたって大丈夫だよ。仕事は仕事だから。赤城という人もそれで納得するよ」


「納得なんかしないもん。赤城さんはそんな甘い人じゃない」


 華音は両頬を殴られた日のことを思い出した。

 闇雲に暴力を受けたわけではなかったが、華音はこれまで、あれほどまでの叱咤をされたことがなかった。

 鷹山と同居を続けることは、赤城がオーナーであるうちは不可能なのである。

 もう、普通の兄妹として、振る舞うことができない以上――物理的な距離を置くことでしか、赤城を納得させることはできない。


「大丈夫だよ。俺のそばにいれば、もう大丈夫だから」


 華音には、何故富士川がそのようなことを言っているのか、まったく理解できなかった。


「どうしてなの祥ちゃん? 赤城さんから私のことを預かれって、そう頼まれたからって、どうしてそんな」


「俺が無条件に華音ちゃんを受け入れることが、そんなにおかしい?」


「だって……祥ちゃんと私は」


 この男が肉親以上の存在であることは、華音も承知している。

 しかし、その微妙な歳の差ゆえに親子にも兄弟にもなりえず、また華音の祖父との厳格な師弟関係ゆえに容易く恋愛関係にも踏み込めず――祖父亡きあと、華音とこの一番弟子とは、繋がりと呼べる確かなものが何もない状況なのである。


 それなのに――何故。

 そんな華音の心の中を読み取ったかのように、富士川は優しく微笑んだ。


「俺たちはいったい、何をそんなにこだわっていたんだろうな」


「こ……だわる?」


「芹沢先生がお亡くなりになったからといって、俺と華音ちゃんの関係が崩れるなんてこと、絶対にあるはずがなかったのに」


 時計の針がゆっくりと逆回転し始める。

 二人が紡いできた優しい優しい時間が、どんどん巻き戻っていく。


「俺は、芹沢先生に命じられて華音ちゃんの面倒を見てきたわけじゃないから。もちろんきっかけはそうだったかもしれないけど、決して強制ではなかった――学費と生活費を出してもらっているせめてものお礼に、俺がすすんでやっていたことだし。それに――」


 富士川はそこでいったん言葉を止めた。どこか気恥ずかしそうな表情をして、眼鏡を持ち上げ直す。

 そして懸命に言葉を選び、目の前の少女にその想いをまっすぐに伝えた。


「それに、芹沢先生がお亡くなりになられた今となっては、俺にとって華音ちゃんは、たった一人の――かけがえのない『家族』だ。そうだろう? 華音ちゃん」


【はたして、富士川君はどうだろうね――】


【それが富士川君と鷹山君の決定的な違いだと、私は思うがね】


 崩れていく。

 魂が、震えていく。

 もう、自分自身の感情に抗うことができない。


「祥ちゃん」


「なに?」


「祥、ちゃん……」


 好きだとか嫌いだとか、血が繋がっているとかいないとか、そんなことはまるで関係のないことだったのである。

 目の前にいるこの青年こそが、自分のすべてを預けられる唯一無二の人間であることを、華音は改めて確認した。

 堪えきれなくなった想いが言葉となって、どんどんとあふれ出す。


「私、鷹山さんのことが好き」


「うん」


「本当に血の繋がったお兄ちゃんだと分かってても――好き」


「うん」


 そんな華音の歪んだ想いを、富士川はすべて淡々と受け止めていく。


「分かってるよ、私が鷹山さんのことそう思っちゃいけないんだって。赤城さんが怒るのは、私が人として間違ったことをしてるから――だからこんな」


 富士川は慣れたように華音の頬を撫でさすった。

 幼い頃から何度も何度も、そうされてきた。


「私、どうなっちゃうんだろう。本当に――――怖い」


 彼の親指が、華音の眼の下を優しくなぞっていく。

 その行動で、自分がいつの間にか涙を流していたことに、華音は気づいた。


「俺は、華音ちゃんが幸せならいいって、言った。でも、それは間違ってた」


「祥ちゃん……」


「華音ちゃんの幸せは、俺が守るよ。最後まで――」


 富士川のどこか憂いを含んだ眼差しは、まっすぐ華音の瞳をとらえていく。

 今まで感じたことのない複雑な感情が、二人の間を交錯しているのが、華音にはハッキリと分かった。

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