無償の愛を君に(1)
華音は芹響のホールの楽屋口から、逃げるようにして外へと飛び出した。
耳の中に、ガラスの割れるような派手な音の残響がある。
鏡やカップだけではない。すべてを壊してしまった。
彼の信頼も、彼からの愛情も、すべて――。
「待ちたまえ」
よく聞き覚えのある男の声に、華音は思わずその場で足を止め、とっさに声がしたほうを振り返った。
駐車場の隅に、磨き上げられたBMWが停まっていた。その運転席側のドアにもたれかかるようにして、三つ揃えのスーツに身を包んだ大男が、まるで高みの見物をしているかのように悠然と立っているのが見えた。
オーナーの赤城は華音の前に進み出ると、観察するように華音の全身を眺め回した。
「その様子だと、私の出した条件は、半分は――クリアできたようだな」
制服のシャツには、先程の惨劇の痕跡であるコーヒーの染みがいくつかできている。そして、恐怖のあまり強ばってしまっている華音の表情がすべてを物語り、多くの説明をする必要はなかった。
「辛かっただろう。よく、頑張ったな」
赤城は理解ある大人の男を装い、あくまでさらりと言ってのける。
華音はとっさに身構え、大男を睨みつけるようにして見上げた。
「……赤城さんの、せいなんだから。全部、赤城さんのせい」
「君のためなら、いくらでも憎まれ役を買って出よう」
こんなことが、どうして自分のためになるのか――華音には到底理解できないことだった。
「約束は……約束はちゃんと、守ってください」
震える声を押し殺すようにして、華音はオーナーの赤城に念を押した。
鬱々とした空気が、二人の間を流れていく。
つかの間の沈黙のあと、赤城はゆっくりと口を開いた。
「それは――残りの条件も受け入れたら、の話だ」
華音は渇ききった喉を潤すように、ごくりと唾を飲み込んだ。
もう、逆らえる立場ではないのだ――華音は観念し、静かに頷いた。
「では、しかるべきところまで送っていこう。さあ、乗りたまえ」
赤城は、愛車BMWの助手席に華音を促し、自身も颯爽と運転席に乗り込んだ。
車はゆっくりと動き出す。いつもながらに慎重で丁寧な運転ぶりだ。
「どちらにするか、決めたか?」
運転席の赤城は、ハンドルを握りながら淡々と尋ねてくる。
【行き先は和久か富士川君か、二人のどちらかを選ぶがいい】
赤城が以前出した『もう一つの条件』を、華音はぼんやりと思い出した。
しかし、この大男の思惑は、すでに読めている。
「どちらか、なんて、初めから選択する余地なんてないくせに」
華音が呟くようにそう言うと、赤城は図星を指されて途惑ったのか―― 一瞬、言葉を詰まらせた。
そして、今度は慎重に言葉を選んで、傍らの少女を説得しようと試みてくる。
「……まあ、確かに今の和久では、家族水入らずの生活にそれこそ水を差す話となってしまうだろうがね。どちらかを選べとは言ったが、芹沢君さえ良ければ、私のマンションへ来てくれても構わない――――が、しかし、さすがにそれでは、鷹山君も納得するまい」
「……」
赤城は、自分の問いかけに応じようとしない華音を横目に、軽くため息をついた。そして、その頑ななまでの厳しい態度を、わずかずつ軟化させていく。
「何をそんなに困ることがある? 富士川君では不満か?」
やはり赤城は、華音の思惑通りの言葉を告げた。
一時的に身を寄せる場所として、富士川祥はもっとも自然な人物だと、そう赤城は認識しているようだ。
もちろん、華音にとって、その認識はおそらく正しい。
だが、しかし。
「だって、私が祥ちゃんのお見舞いに行ったって聞いただけで、鷹山さん、あんなになっちゃうのに……」
華音は、つい先程の音楽監督室での惨状を思い出し、再び身を強ばらせた。
「君の『お兄さん』が、どうなるって?」
赤城は特定の単語を強調し、吐き捨てるように冷たく言い放った。そして、さらに続ける。
「彼が君のことを、本当に愛していると思っているのか?」
「思ってます」
「フン、君の過去を受け入れられない鷹山君に、『愛』を語る資格などない」
「……赤城さんは、鷹山さんのことが嫌いなんですか?」
華音がそう尋ねると、赤城はどこか呆れたようにして、これ見よがしにため息をついてみせた。
「君は本当に子供だな。嫌いな人間と仕事を続けるほど、私は暇ではないのだが」
その言葉が本当か嘘か、今の華音には到底判断がつかない。
華音は、赤城の運転するBMWの助手席で、再び口を閉ざした。
赤城も黙ったままハンドルを捌き、目的地に向かって慣れた風景の道をひたすら進んでいく。
「私はね、彼を狂わせた原因は――君にあると思っている」
意味が分からない。
すべてが狂ったのは、十五年前の出来事のはずだ。
その原因が、自分にある――そんなことを言われても。
華音は動揺を隠せずに、助手席で身を強ばらせたまま、視線だけを運転する大男に向けた。
「私たちが、二度目に出会ったときのことを、君は覚えているか?」
華音は赤城に言われるがままに、記憶の糸をたぐり寄せる。
初めて出会ったのは、祖父の告別式。
雨の降りしきる中、セレモニーホールの受付へ突然姿を現した。
そして二度目は、富士川が退団した直後だった。
高野に連れられて、鷹山と一緒にスポンサーの契約交渉をしに、赤城エンタープライズまで出向いたときだ。
このときはまだ、鷹山のことは祖父の二番弟子というだけで、とにかく横柄で辛辣な物言いをする男、という印象しかなかった。
「君はあのとき、鷹山君のことを『要らない』と言った。血の繋がっているだけの他人なんかいまさら要らない――と、彼のいる前でね」
「だって、あのときは……知らなかったから」
「狂いたくもなるだろう。たった一人の妹に、その存在を否定されたのだからな」
富士川を失った悲しみがあまりにも大きくて。
だから華音はその夜、彼の腕を果物ナイフで傷つけ、そして――。
歯車が狂ってしまった。
「しかし、彼は君の兄である記憶を捨てられない。あの家にいたらなおのこと」
知らなかったのだ。
何も、知らされていなかったのだ。
だから自分は――。
「彼は君の実の兄であることはずっと隠しておきたかったんだろう。十五年前の出来事を、君にまで背負わせたくはなかっただろうし。富士川君が去ったあとの芹響を支えようと、ウィーンでの生活を捨てて日本へ戻ったのは、他でもない、君のためだ」
赤城はいつになく穏やかな口調で、華音に語りかけてくる。
真っ直ぐな言葉が、砂漠に降り注ぐ雨のように、どんどんと胸に染み込んでいく。
「鷹山君は最初、随分君に辛く当たっていた。でもそれは、君のことを嫌ってそうしていたわけではない。祖父の英輔氏が亡くなって、富士川君がいなくなったら、当然芹響には君の居場所はどこにもなかった。それを鷹山君があらゆる雑用をさせ、演奏会の企画を考えさせて、ステージマネジメントをこなす音楽監督の片腕としてここまで育ててきた」
赤城の言うとおりだ。
自分は本当に弱く、そして甘かった。一人では何もできず、守られているのが当たり前だと思っていた。
「その部分については、私は彼の采配手腕を評価している。確実に君は変わった。何一つできないお嬢さんだった君が、今では私のところへ単身で乗り込んでくることもあるくらいだからね」
それは富士川にも言われたことがある。
鷹山に怒鳴られるのが嫌だから――最初はそれが理由だった。一方的に怒鳴られるのが悔しくて、必死に雑用をこなしていき、やがて彼に必要とされていると実感できる頃には、楽団のメンバーたちとも一通り対等に話ができるようになっていた。
確かに自分は変わった。
そう、それはすべて鷹山のお陰なのである。
もし富士川が、あのとき楽団を辞めずに祖父の跡を引き継いでいたなら、どうなっていただろうか。少なくとも、現在のように楽団と繋がりを持つことはなかったはずだ。
あのとき、鷹山が目の前に現れなかったら――。
華音は首を横に振った。
過去に『もしも』などという問いかけは無意味である。
いま目の前に置かれている状況がすべてなのだから。
「鷹山君が妹としての君に執着する気持ちは分からなくもない。私にだって兄弟はいる。仲はすこぶる悪いがね。しかし、心配は心配だ。それが兄弟というものだろう」
華音はもう何も言うことができずに、ただ赤城の説明に耳を傾けていた。
「君は知らなさ過ぎるんだ。だからこうなる。君はご両親のことをもっと知るべきだ。十五年前のことだけではなく、その前のことからね。ずっと君の祖父母が教えたがらなかったことを、もっともっと知っていくべきだ。それが、鷹山君を救う手助けとなるかもしれない」
「鷹山さんを……救う?」
「私は以前、君が、君自身の手で、二人の弟子を引き寄せろ、と言った。まだ、覚えているか?」
「……言われたことは、覚えてますけど」
「どちらかを選ぶことはできない。君自身が引き裂かれて壊れることになる。富士川君と鷹山君、二人の距離が広がるほど、君は苦しむ。そうだろう?」
「赤城さん……」
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