愛するが故の決意表明(2)

 すると。


「うちの書斎のファイルに、付箋紙を貼り付けまくって、しかもそれを広げっぱなしで片付けていなかったら、誰だって気づくに決まってるじゃないか」


 愕然。

 鷹山の言うとおり、芹沢邸の書斎は散らかり放題となっていた。あとで整理整頓しようと、執事の乾にそのままにしておくよう頼んでいたのである。


「鷹山さん、もう書斎を使ってないのかと思って……」


 一気に落胆してしまった。

 まさか、そんな単純なところから足がついてしまうとは、思ってもみなかったのである。

 華音はトレイをテーブルの端に置き、面談する要領で、鷹山の向かい側のソファに腰を下ろした。


「そっちじゃない」


「はい?」


「僕の隣においで」


 ああ。

 こんなに幸せなのに――。


【表沙汰にならないうちに、引責辞任してもらうしかない】


 赤城オーナーの威圧的な声が、華音の頭の中を絶えず巡っている。

 引責辞任。

 このままでは――。


【『自由』とは好き勝手にしていいということではない】


【そんな甘い考え、私の前では絶対に通用しないからな】




 華音は観念したように両目を瞑った。

 とうとう――告げなければならない。


「鷹山さん、あの……私、今日で、アルバイトを……辞めたいんです……けど」


「何寝ぼけたこと言ってるんだよ。理由は?」


 鷹山はまるで相手にしようとしない。

 多少不機嫌になったものの、取るに足らない戯言だと切り捨てる体勢は、すでに万全だ。

 華音は消え入りそうな声で、何とか説明を続けた。


「え……っと、勉強をちゃんとしないと、いけないし……」


「学校でちゃんと勉強すればいいだろう。君はいずれ進学したとしても、最終的に楽団に関わる仕事をすることになる。いいか、普通のアルバイトとはわけが違うんだ。そうそう簡単に辞めるなんて許されないよ」


「あの、でも……許してください……お願い」


「芹沢さん?」


 華音はその場に居続けるのが耐えられなくなり、音楽監督室を出ていこうと立ち上がった。

 しかしすぐさま、鷹山にその進路を阻まれ、腕をつかまれてしまう。


「どこへ行く!」


「放して」


「あのお節介な金蔓から何か言われたんだな?」


 見抜かれている。

 鷹山の透き通った大きな瞳が、じっと華音を見下ろしている。

 もう、限界だ。


「鷹山さん……私…………だって」


「この間からオーナーと二人でこそこそと、いったい何なんだよ。何を隠してる?」


「見当ついてるんでしょ。私が鷹山さんに黙って、赤城さんのところへ行った理由」


 鷹山の束縛が緩んだ。

 華音の腕をつかんでいた手が、ゆっくりと放されていき、力なく下ろされた。


「……会ったのか? 富士川さんに」


「……」


 鷹山の勢いに、もはや返答もままならない。

 心臓の鼓動が、どんどん早まっていく。


「会いに行ったのか? どうして? あの男は君に必要のない人間だと、何度言えば分かるんだ!? しかも僕に隠れてこそこそと……信じられない」


「病人のお見舞いにも、行っちゃいけないの?」


 そのひと言で。

 鷹山の中の何かが壊れてしまった。


 鷹山はすぐそばのテーブルの上からコーヒーカップをつかみ、半分ほど中身が入ったまま、それを壁に向かって投げつけた。

 陶器の割れる派手な音が、室内外に響き渡った。白い壁に琥珀色の染みが、床に向かって伝い広がっていく。


 華音は恐怖のあまり声にならない悲鳴を上げ、鷹山から目をそらせずに、ただ身を強ばらせていた。

 鷹山は目の前で、荒い呼吸を繰り返している。先程までの優しい天使のような表情はどこにもない。そこにいるのは、憎しみにかられた悪魔だ。

 しかし。

 彼をそうさせてしまったのは、他でもない、華音自身なのだ。


「……もう、鷹山さんとは一緒に暮らさない」


「何だって?」


「出ていって、なんて言わない。鷹山さんはうちに住む権利があるもん。だから……」


 それが、オーナーの赤城から提示された、もうひとつの条件――。



 華音は残るすべての力を振り絞って、目の前に立つ美貌の悪魔に告げた。


「私があの家を出ていく」


「言ってる意味が分からない」


「私たちはこのまま一緒にいたらダメになる」


「意味分からない。ダメって何だよ、僕たちは一緒にいるべきなんだ!」


「こうするしか、ないの。お願い……このままずっと、鷹山さんのこと好きなままでいさせて」


 すると鷹山は、テーブルの上に残されていたソーサーをつかみ、今度はカップとは反対側の壁に、力任せに投げつけた。

 ドレッサーの鏡に命中し、大きな亀裂が幾筋も入る。皿は当然砕け、床に破片が落ちていく。


 怖い。怖い。怖い――。


 あまりの恐怖に、華音の全身が激しく震え出した。

 華音はたまらず、逃げるようにして音楽監督控室を飛び出した。




 もう涙が止まらなかった。

 鷹山を守るためには、こうするしか道はなかったのだ。

 たとえそれが、自分を犠牲にする行為だとしても。


 ――二人とも犠牲になるより、ずっとマシなんだから。


 物音を聞きつけたのか、美濃部達郎と藤堂あかりが廊下の向こうからやってきた。


「何か壊しちゃいましたか? 随分と賑やかな音がしてましたけど――」


「お怪我はありませんか、華音さ……ん?」


 その目に涙をたたえた少女の姿を真正面にとらえ、美濃部とあかりはほぼ同時に言葉を詰まらせた。


 心配そうに見つめる二人から顔をそむけ、華音は無言のまま、立ちはだかる二人の合間をすり抜けた。

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