愛するが故の決意表明(1)

 五月の大型連休も明け、華音はいつも通り学校の授業を終えて、夕方になってから芹響の本拠地ホールへとやってきた。


 今日は演奏会も入っていない。そのため、来客用の駐車スペースは閑散としている。

 華音は腕時計で時刻を確認した。予定では、合わせの練習が終わる頃だ。




 楽屋出入り口のドアから中へ入ると、華音はその場へ立ち止まり、ステージへ向かうか音楽監督控室へ向かうか迷った。

 耳を澄ます。

 ステージへと続く舞台袖のほうに、多くの人の気配を感じる。階段のほうに耳を向けると、そちらにも人の気配がある。


 華音がどうしたものかと悩んでいると、舞台袖の入り口のほうから、ヴィオラを片手に携えた安西青年がやってきた。

 どうやら、すでに練習が終わってしまったあとらしい。ステージには自主練習をする楽団員がまだ残っているようだ。地道な練習が好きではない安西青年が残っていたのは、いつものように噂話に興じていたために違いない。

 安西青年は華音の姿を捉えると、好奇に満ちた眼差しを向けてきた。


「あらー、これはこれはお久しぶりなことで」


「……安西さん」


「華音サン、監督とやーっと仲直りしたんだ?」


 華音がこの安西青年と顔を合わせるのは、ほぼひと月ぶりのことだった。

 仲直り――鷹山とケンカをしている事実は、平団員には知られていないはずだった。

 確かに、出入り禁止はあまりに不自然な措置ではあったのだが、その理由までは、藤堂あかりなどのごく一部の人間しか知らないはずだった。


 ――それなのに、何故?


 途惑う華音をよそ目に、安西青年は続けた。


「羽賀サンが監督の元彼女だって噂も広まってるし、華音サンの謹慎も、羽賀サンに嫉妬して監督を困らせた挙句の顛末だって、みんな知ってるよ」


 その言葉を聞いて、華音は一気に血の気が引き、そしてその血が逆流していくような感覚を覚えた。


「み、み、みんなって!? もう何? 安西さんがばらしてるんでしょ!」


 そう。

 羽賀真琴が初めて芹響のホールへやってきたときに、この安西青年は華音のそばにいたのである。当然、羽賀真琴の『元彼女』宣言を、その耳でしっかりと聞いていたはずだ。

 となれば、面白可笑しく団員たちに触れ回るのは必定ということになり――。

 華音は深々とため息をついた。


「あ、否定しなくなった。言っておくけど、俺が喋る以前の問題だからね? お二人サンの関係に気づかない人間のほうがどうかしてるよ。美濃部サンとかねぇ」


「べ、別に私は、いつもと変わらずに仕事してるつもりだけど?」


「うん、華音さんはね。そうじゃなくて、むしろ監督のほうが分かり易いし。やっぱり華音サンがいると、監督の機嫌がまるで違うんだよね」


 そう言うと、安西青年は手にしていたヴィオラの弦を、戯れにポロンと弾いてみせた。


「音が違うっていうか――」


「音?」


「うん、音。スポーツだとね、色恋は邪念にしかならないけど。芸術と愛は切っても切れないものだから」


 それは鷹山自身、常日頃から口にしていることである。

 愛も、音楽も、心がすべてだ――と。

 愛し愛されているという心の安定が、自ずとその指揮にも表れているということなのだろう。そして、それは芹響の音楽にとって、プラス要素として働いている、というのが安西青年の言い分らしい。


「だから、監督と華音サンのことは、団員たちは微笑ましく見守っていられるんだ。まあ、これが三角関係とか泥沼になったら、楽団は崩壊しちゃうと思うけど」


「さっ……三角関係?」


 華音の身体が、何故かその言葉に反応した。

 安西青年は、当然それを見逃さない。すぐに喰らいついてくる。


「あれ、ひょっとして心当たりあり?」


「いや、別にそういうわけじゃ……」


「まさか、美濃部サン?」


「違います」


 華音は即答で否定した。それだけはありえない。


「じゃあ、赤城オーナー? 監督とオーナーが仲悪いのは、そういうことだったり?」


「んもう、週刊誌の記者じゃないんだから。私、もう行きますから」


 華音は肩をすくめてみせ、手を小さく振って、早々に安西青年をあしらった。


「ハハハ、今度はご主人様と仲良くね」


 安西青年と別れ、華音は楽屋棟の階段をひたすら上っていった。

 目指すは四階。音楽監督控室だ。




 四階の廊下は静かだった。

 この階に出入りするのは、音楽監督の鷹山に用事がある人間だけだ。

 一歩一歩、進んでいく。


【何故君は、そこまで自分を犠牲にする?】


 オーナーの声がよみがえってくる。

 自分を犠牲に――その言葉の意味するものは、実のところ、華音にはよく分からっていない。

 鷹山にはずっと、彼の天職である音楽監督でいて欲しい。

 ただ、それだけのことなのである。


 鷹山が音楽監督を引責辞任することになったら、赤城は間違いなく富士川に次期ポストを打診するだろう。

 そんなことになるくらいなら、いっそのこと、まったく知らない業界の著名人を引き抜いてくれたほうがまだましだ。


 しかし。

 任期満了前に不審な監督交代劇があると、下世話な憶測が飛び交うのは避けられない。楽団員の多くに音楽監督とそのアシスタントの公私混同さながらの恋愛状態をつかまれていては、たとえ血縁関係にあることが知られていなくても、引責の理由付けは容易いであろう。

 それを最小限に食い止めるとすれば、兄弟子の富士川を引っ張るのが最良の道なのである。


 同じ師を持つ二人の弟子の監督交代であれば、『音楽観の相違』という至極もっともらしいとってつけたような理由が、まかり通るのである。


 もし、鷹山が音楽監督を辞めさせられたら――何も、残らなくなってしまう。




 赤城に提示された一週間という期限はあっという間に過ぎ、残すところあと一日となってしまっていた。

 こんな日常も、おそらく今日が最後となる。


「芹沢さん、コーヒー。濃い目で」


 音楽監督控室で、鷹山は一人待っていた。

 華音がやってくるなり、得意の弁舌を振るいだす。


「君が早く来ないから、僕はカフェインが切れてしまって落ち着かないじゃないか。さあ、早く。早くしないとお仕置きするから」


「お仕置き? 早くしてくれたら、ご褒美あげるよ――じゃないんだ」


「ハッ、それでもいいよ。行き着くところは一緒だし」


 華音の切り返しが楽しくてしょうがないらしい。ああ言えばこう言う――そんなじゃれたやり取りが、もっぱら彼のお気に入りだ。


 いつもの幸せなひととき。

 しかし、確実に鷹山は変わった。

 変わったのはあの瞬間。


【鷹山さんじゃなくちゃ、イヤ……】

【芹沢さん、君――】


 華音のひと言が彼の気持ちを変えた。今までの、試し試される攻防がなくなり、そして――。


「どうしたんだよ、そんなに浮かない顔して」


 自分のデスクのところで、革張りの椅子にふんぞり返るようにして座っている。

 芹沢邸の書斎にある椅子よりも堅い質感だ。まだ充分こなれていないためであろう。

 鷹山は書類確認の仕事そっちのけで、華音の一挙一動を遠くから眺めている。


「え? ……いや、別に何でも」


 華音は、先ほど挽き立てでもらってきたばかりの豆と、水をコーヒーメーカにセットし、電源を入れた。コーヒーがサーバーにたまる前に、カップを電気ポットのお湯で温めて、トレイの上にソーサーを準備していく。

 いつの間にか慣れてしまった。


 初めて鷹山にコーヒーを所望されたときはひどかった、と華音は自分でそう思う。

 コーヒーの味はもちろん、差し出すカップの向きやスプーンの位置もでたらめだったし、飲む人の気持ちもまったく考えていなかった。


 そして何といっても、鷹山と二人きりでいる空間が息が詰まるほど重苦しく、緊張し通しだった。

 しかし、今は違う。


「悩みがあるなら聞いてあげるよ、特別に」


 華音がふと視線をやると、音楽監督は左腕だけを肘掛けにかけて、頬杖をつき、大きな瞳を物憂げに瞬かせていた。


「何ですか、『特別』って。恩着せがましくないですか?」


「『特別』に格安でってことだよ」


「お金取るんですか?」


「タダなわけないだろう。多忙を極める音楽監督の貴重な時間を割くんだから。まあ、君なら『特別』にお金じゃなくてもいいけどね」


 またこれだ。

 華音はため息をつきつつ、音楽監督を冷ややかに見据えた。


「……鷹山さんって、ホントそればっかり。エロオヤジ!」


「まだ何も言ってないじゃないか。逆に聞くけど、君の言う『それ』って何だよ?」


「……」


 返答に困った。

 口でこの男に敵うわけがないのだ。


「監督命令だ。早く答えて」


「……」


「答えられないなら、お仕置き」


「結局、話が巡ってるじゃない!」


 華音の訴えもさらりとかわし、鷹山は楽しそうに笑っている。

 どこまでも幸せそうにして、華音との時間を過ごしている。


【それだけでは駄目だ。もうひとつ――】


【いいか、期限は一週間だ】


 まただ。

 赤城の声がどこまでも追いかけてくる。

 頬に受けた痛みが、いつまでも残っている。

 華音は話を切り出すのに躊躇した。




 やがて、コーヒーの香りが部屋中に立ち込めた。

 華音がカップに液体を注ぐのを確認し、鷹山はデスクから離れると、部屋の中央にある応接セットへと移動した。三人がけのソファの真ん中にゆっくりと腰を下ろす。


「遊びはそのくらいにして、さあ芹沢さん、君の作った企画書の添削だ」


「あれ、全部目を通したんですか?」


 華音は鷹山の前にコーヒーカップを差し出した。

 湯気とともに香気が立ち上る。


「もちろん。始めの二十五本まではね。残りは君の悪知恵によるものだろうから、却下」


「…………気づいたんですか」


「当たり前だろう。そんな陳腐な手で僕を欺こうなんて百年早い」


「百年って……じゃあ、一生敵わないじゃないですか」


 そもそも百本もの企画書を作らせるほうが無謀なのである。それはもちろん鷹山も分かっていたはずだ。

 しかし、見破った鷹山はやはり凄い――華音は尊敬の眼差しで、淡々とコーヒーに口をつける音楽監督を見つめていた。

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