父性の象徴

 いつの間か、眠りに落ちてしまっていたようだ。

 部屋の遮光カーテンが半分だけ開けられている。そこから入ってくる朝日は、すでにかなりの明るさになっていた。


 目が覚めたときには、華音はベッドの上に一人取り残されていた。

 隣に、鷹山の姿はなかった。もう仕事に出かけてしまったのかもしれない。

 まだゴールデンウィーク中で、学校は休みである。華音が早起きする必要は特にない。


 ふと。

 サイドテーブルにメモが残されていることに、華音は気がついた。半分ほど残ったワインのビンが、重り代わりとなっている。

 華音はベッドの中から手だけを伸ばし、その紙切れをつかんだ。



【おはよう。企画書はもらっていく】



 一行だけ書かれたメモを、無造作に枕元に置き、華音は軽く伸びをしたあと、鷹山の匂いが残るシーツに顔を埋めた。


 とてもいい香りがする。

 洗練された男の知性と野性味をかもし出す、セクシャルな香りだ。



 まだ目の覚めきらぬぼうっとした頭で、華音は昨夜の出来事を少しずつ思い出した。


 初めて彼の部屋を訪ね――色々な話をした。

 ウィーン時代の彼の私生活や、彼の実家のこと、育ての父親のこと。

 そして決して訪れることのなかった、並行未来の話。



【僕は、この家が憎い。憎くて、憎くて、たまらない】



【この家が僕のことを拒絶する。僕と、そして僕のお母さんを…………嫌だ、もう】



 考えるのが怖かった。

 自分たちの関係は、いったい何なのだろう。

 それは、華音以上に鷹山が混乱し、途惑っていることなのかもしれない。



【僕の妹が、知らない男を兄のように慕っている。この家で、ずっと楽しく、本当の家族のことを一切知ることもなく…………ああ】


 華音はぎゅっと目を瞑り、掛布を引き寄せて頭の上までかぶった。


 確実に、富士川とは違う。

 富士川とは、幼い頃から何度も同じベッドに寄り添って眠っていたことがあった。

 もちろん富士川は、華音に対して肉親以上の愛情行動に及ぶことはなかった。


 やはり、鷹山は『男』なのだ。

 しかし、どこかに『兄』が残っている。

 芹沢楽人としての記憶が、彼自身を苦しめているのだ。



【吐き気がする。この家の匂いが僕を苦しめる。芹沢の名が、芹沢の血が僕を狂わせる】




 そのときである。

 部屋のドアをノックする音が、華音の耳に二度、聞こえてきた。


 華音は頭から掛布に包まった状態のまま、しばし考え込む。

 鷹山が早起きなのは、執事も家政婦も知っている。書き置きのメモからしても、かなり早く出かけたのだろう。そのため、使用人たちがわざわざここまで起こしに来るとは考えにくい。

 となると、華音がここにいることを知っている人間――。


 ――ひょっとして、鷹山さんが戻ってきた?


 ドアの蝶番が微かに軋む音が、華音の耳に届いた。ノックをした人間が、部屋の中へと入ってくる気配がする。

 華音が掛布からそろりと顔を出すと、グレーに細い白の縦縞の、三つ揃えのスーツに身を包んだ、凄んだ形相の男の顔が真上に見えた。

 それはこの部屋の主ではない――しかし、よく見知った大男。

 慌てて掛布をはぎ飛び起きたものの、着ていたパジャマの襟元が乱れているのに気づいて、華音は再び掛布をかき寄せた。


「やだ……何なんですか赤城さ――」


「最悪だ」



 次の瞬間。

 音と衝撃が華音を襲った。



 何が起こっているのか、華音にはまるで理解できなかった。

 左頬に焼けつくような痛みを感じる。

 身体を起こし赤城を見上げると、今度は右頬に、先程の衝撃以上の平手が飛んできた。

 身構える猶予もなかった華音の身体は、掛布ごと跳ね飛ばされて、床に転げ落ちていく。


「ひどい……ひどい……どうして」


「殴られるのは初めてか」


 華音は床に座り込んだままうつむき、両手で頬を押さえた。

 焼けるように熱い。


「私だって手が痛い。女性に手を上げることも、狂おしいほどに胸も痛む」


「……してないもん」


「なんだって?」


「赤城さんに殴られなくちゃいけないことは、してないって言ってるでしょ!」


「いい加減にしろ。男と抱き合ってひとつのベッドで眠っている時点で完全アウトだ。そもそも、ここは鷹山君の部屋だろう?」


 赤城は蔑むような威圧的な眼差しで、床上にへたり込む華音を見下ろしている。


「どうして私がここまで来たのか、理由を知りたいか? 通いの家政婦に、朝起こしにいって君が部屋にいないことがあったら、すぐに連絡するようにと言ってあったのだ。執事であれば、決して口を割らないだろうからな」


 華音は愕然となった。


「私がそう簡単に、君たち兄妹の同居を容認するとでも思っていたか?」



 赤城という男は用意周到で、狡猾な一面も持ち合わせている。

 確かに赤城には何度も忠告を受けてきた。しかし、それも初めのうちだけで、最近は口煩く言われることもなかった。

 それは鷹山と華音が、三週間近くケンカをしていたためでもあるのだが――。

 つまり、華音はすっかり油断してしまっていたのである。


「しかしまさかこうも簡単にやらかしてしまうとは……私としたことが、甘かったな」


 赤城は呆れ返ったように、深々とため息をついてみせた。

 その物言いが、ひどく華音の癇に障った。


「本当に好きなんだもん……鷹山さんのことが。赤城さんには関係ないことでしょ! 誰を好きになろうと私の自由だもん! ……ホントに、最後までしてないんだから」


 赤城は黙ったまま、華音を睨み据える。

 言い訳が通用する相手ではないことは、すでに分かっている。

 華音は蛇に睨まれた蛙のごとく、すくんだまま赤城の顔から目をそらすことができずにいた。


「してるかしてないかの問題じゃない。たとえそれが嘘じゃないにしても、あいにく私には、それを確かめる術はないからな」


 気が遠くなるような長い沈黙が、二人の間に流れた。

 重苦しい雰囲気に、呼吸が苦しくなる。

 この空間にはもはや、『怒り』と『憐れみ』の二つの感情しかない。



 長い沈黙を破るようにして、赤城は淡々と告げた。


「ここに鷹山君がいたなら、君の倍は殴っていた」


 自分が受けた制裁以上のものを、彼が受けることになったときのことを想像し、その恐怖で身体が激しく震えてしまう。


「もう一度言う。これは罪だ。同意の上ならお互いに科せられる罪だ。そのことを成人をとっくに過ぎた鷹山君は充分に知っているはずだ。知っていて君にその罪を負わせようとする。そんなことは私が決して許さないぞ。分かったか」


 赤城の迫力のある叱咤に、華音は唇が震えてしまい、上手く返事の言葉も出せない。


「分かったのなら、早く部屋に戻って着替えたまえ」


 赤城は踵を返し、華音に背を向けた。そして、そのまま部屋を出ていこうとする。


「どこ……行くんです……か? ま……さか」


 嫌な予感がする。

 オーナーが次に取るであろう行動が、華音の予想通りであるならば――。


「制裁は公平であるべきだ。君たち兄妹がこんな体たらくでは、彼に音楽監督は任せておけない。表沙汰にならないうちに、引責辞任してもらうしかない」


 ――引責、辞任。


 その衝撃の言葉に、華音は目の前が真っ暗になった。

 それは、もっとも怖れていた最悪のシナリオである。

 華音は完全に取り乱してしまった。半狂乱になって、オーナーの赤城に向かって必死に訴えかける。


「嫌! そんなの嫌! お願い、鷹山さんを傷つけるのは止めて。私にできることなら何でもするから」


 彼から『音楽監督』という立場を、取り上げるわけにはいかない。


 しかし、赤城の表情は硬く強ばったままだった。



「何故君は、そこまで自分を犠牲にする?」


 鷹山の温もりが残る肌を、華音は両手でなでさする。

 これは、犠牲?

 彼を愛している。だから、彼を救いたい。


 そう、ただそれだけのこと――。


「君には再三に渡って忠告をしてきたはずだ。彼をずっと音楽監督でいさせたいなら、一線を引いて暮らせ、と。好きだったら何をしてもいいのか? 『自由』とは好き勝手にしていいということではない。そんな甘い考え、私の前では絶対に通用しないからな」


「だったら! 私が……私がアルバイト、辞めますから!」


 華音の必死の懇願にも、赤城は耳を貸そうとはしない。怜悧な顔のまま、静かに首を横に振る。


「それだけでは駄目だ。音楽監督としてあり続けさせたいというなら、鷹山君との同居は解消してもらおう」


 目の前の大男から発せられた言葉の意味が、すぐに理解できなかった。

 頭の中が真っ白になり、ただ呆然と、続く言葉をひたすら待つ。


「選択肢は二つだ。彼がこの家を出ていくか、あるいは――君がこの家を出るか、だ」


 赤城が出した条件は、華音の予想をはるかに上回るものだった。


「……そんなこと、言われたって……鷹山さんに出ていってなんて、言えない」


 華音の答えは、赤城にはすでに予想済みだったらしい。厳しい表情のまま、粛々と言葉をつむいでいく。


「では、君がこの家を出るんだ。行き先は和久か富士川君か、二人のどちらかを選ぶがいい」


 言いたいことを言い切ると、赤城は再び踵を返し、そのまま部屋を出て行こうとドアノブに手をかける。

 その大きな背中を呆然と見送っていると、赤城はもう一度、念を押すように振り返った。


「いいか、猶予は一週間だ。分かったな?」


 赤城はどこまでも冷たく無慈悲な声で、打ちひしがれる華音に止めを刺した。



 一人残された部屋の中で――。

 華音は彼の香りが残るベッドをおぼろげに見つめながら、赤城に殴られた両頬をいつまでもさすり続けた。

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