修羅(3)

「僕は芹沢楽人だ。芹沢華音の兄だ」


「……鷹山さん」


「そう、もうその名を名乗っている年月のほうがずっと長いのに、いつまで経っても僕は、『芹沢』の名に縛りつけられている」


 酒の酔いが程よくまわり、鷹山はいつも以上に饒舌に喋り捲る。


「ハハハ、兄だってさ。兄貴らしいことなんか、何一つしたことないけど」


「鷹山さん」


「だって君の兄貴は、いつの間にか別の男にすりかわってたんだもんな」


 ときおり覗く兄の記憶が、華音を不安にさせる。


「僕は、この家が憎い。憎くて、憎くて、たまらない」


 壊れる。

 彼の中の記憶が崩壊していく――。


「この家が僕のことを拒絶する。僕と、そして僕のお母さんを…………嫌だ、もう」


 鷹山の変化についていけず、華音は唖然と目の前の光景を見つめるばかり。

 どう対処してよいのか、まったく分からない。


「僕の妹が、知らない男を兄のように慕っている。この家で、ずっと楽しく、本当の家族のことを一切知ることもなく…………ああ」


「落ち着いて、鷹山さん! お願いだから」


 華音は押さえつけるようにして、鷹山に腕ごと抱きついた。


「吐き気がする。この家の匂いが僕を苦しめる。芹沢の名が、芹沢の血が僕を狂わせる」


 とっさに。

 華音はそっと、鷹山の頬に口づけた。


「……君」


「もう何も言わないで」


 華音はそう言うと、鷹山の右の肩に半分身体を預けるようにして左手を載せ、もう片方の手で彼の膝をつかんだ。

 そして今度は、そのよく喋る唇を塞ぐようにして、半ば押しつけるようにして重ね合わせていく。


 鷹山は驚いた様子を見せながらも、慣れたように華音の唇を受け入れた。


 そっと唇を離すと。


「ヘタクソ」


 唇が離れるや否や、鷹山はぽつりと呟くように言った。


「なっ……そりゃあ鷹山さんが今までに付き合ってきた人なんかよりも、ちょっと下手かも知れないけど、でも――」


「ちょっとどころの話なんかじゃない。全然ヘタクソだよ」


 華音は恥ずかしさで一杯だった。

 経験豊富な彼から見れば、自分は物足りない相手だと、そんな烙印を押されてしまったかのような気持ちになり、愕然となる。

 それは仕方のないことである。華音の経験のすべてはこの男だけなのだから――。


「でも……もの凄く感じた。今まで生きてきた中で、一番」


 華音のすぐ目の前で、鷹山の艶のある大きな瞳がゆっくりと瞬いた。

 喉の奥から振り絞るような彼の低い声が、華音の耳をくすぐっていく。


「上手下手じゃないんだよ。愛も、音楽も、心がすべてだ」


 華音は、鷹山に抱えられるようにして、徐々に引き寄せられていく。腕の力を決して緩めようとはしない。


「もっと、感じさせて」


 これは、試されているのではない。

 鷹山に『女』を求められているのだと華音は悟った。



 愛する男の求めには当然、応じなければならない。

 これまで彼の周りにいた女たちがそうしてきたように――。


 鷹山の強引な抱擁に思わず身体をのけぞらせると、鷹山はそれを待っていたかのように腕の力を加減して、半ば圧し掛かるような格好でベッドへなだれ込んだ。


 華音の意識はどこか遠くへ飛んでしまっていた。

 初めて経験する空気に、華音の強ばった身体の内側が小刻みに揺れ動く。

 何度深呼吸をしても、それは収まらない。


「震えてる」


「こ……怖いんだもん」


「そんなに緊張しないで」


 美貌の悪魔に圧し掛かられ、そして抱きすくめられている。

 鷹山の髪の毛が、華音の頬をくすぐっている。

 もう、歯止めが利かない。

 慣れたように首筋を這い回る鷹山の唇の動きに、華音の意識はどんどん遠退いていく。

 華音が思わず愉悦の声を漏らしてしまうと、鷹山はそれを待っていたかのように、華音の声を塞ぐような激しいキスを始めた。

 落ちていく、どこまでも。底は見えない、闇の中。


「怖……い」


「怖くない。僕はここだ」


 今自分は、初めて男に身体を許そうとしている。

 実の兄に――抱かれようとしている。


 何故か華音の頭の中に、富士川の顔が浮かんでくる。

 芹沢家で、この建物の中で楽しく過ごしていた思い出が、次から次へとあふれてくる。

 しかしそれは、この男が否定する過去。


【俺は本当に、華音ちゃんが幸せならそれでいいんだ――】


 ――嘘つき。


 求められるということは、どういうことなのか――いま華音はそれを、身をもって感じさせられていた。


 苦しい。でも、より感じる。

 もう、時間の問題だ。


【華音ちゃんが幸せなら――】


 ――どうしてそれを、あなたが言うの?



 脳裏に富士川の声がよぎり、華音は反射的に激しく身をよじらせて、鷹山の口づけを避けてしまった。


 すると。

 鷹山は一転して、その表情を冷たく硬化させた。


「……嫌なら嫌と、最初からそう言えばいい」


 彼が上半身をゆっくり起こしていくにつれ、華音の身体から重みと温もりが急速に失われていく。


「違うの」


 華音はとっさに離れかけていた鷹山の身体に抱きついて、引き戻した。

 彼の綺麗な顔が、目の前に再び現れる。大きな二重の瞳が、驚いたように緩やかに瞬いている。


「鷹山さんじゃなくちゃ、イヤ……」


「芹沢さん、君――」


「ちゃんと、頑張るから。だから、続けて」


 しかし。

 鷹山は組み敷いていた華音の上から、自分の身体を除けてしまった。そしてそのまま寄り添うようにして、隣に横たわる。


「鷹……山、さん?」


 鷹山は天井を仰ぎながら、呟くように言った。


「君は、僕の快楽を満たすための道具なんかじゃ、ない」


 魂のない人形のように、その表情には一切の感情が見られない。

 華音は何度も深呼吸を繰り返し、続く鷹山の言葉を待った。


「君だけは違う、絶対に。だから、頑張る必要なんてない」


「でも……」


 鷹山は横たわったままで、華音と向き合うように体勢を変えた。彼の片腕がもどかしげに伸ばされ、華音の外側の肩にかけられる。

 そして、今度は優しく肩が引き寄せられていき、やがて華音は慈しみ包み込まれるようにして、鷹山の胸へ抱き止められた。


「僕のことを愛して欲しいんだ」


「うん」


「僕は君に、愛されたいだけなんだ」


 先程までとはまるで人が変わってしまったかのように、鷹山の声は深くそして優しかった。


「おやすみ、芹沢さん」


 幼い子供が母親に甘えるように、鷹山はやんわりと身体にまとわりつく。

 華音は、足のところで乱れていた掛布を、腕を伸ばし上手く引っ張り上げ、二人はそれに包まった。



 その後、鷹山は枕元に設置されているルームランプのスイッチをオフにした。

 一気に、暗闇が襲いくる。


「君がまたこうやって、僕の手の届くところで眠るなんて、ホント夢のようだ」


 鷹山の声が華音の耳元で響いた。


 また、こうやって――――また。

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