修羅(2)
華音が一人エントランスで羽賀真琴を見送っているところへ、事務管理棟のほうから鷹山と美濃部が揃ってやってきた。
鷹山は華音の姿をとらえると、これ見よがしにため息をついた。
「美濃部君、先に上に行っててくれ」
「分かりました、では」
音楽監督の機嫌を損ねて、華音が半ば謹慎状態にあることを、美濃部はもちろん知っている。美濃部は気を利かせるようにして、すぐに楽屋棟へ通じるドアの向こうへと消えていった。
鷹山は、エントランスに二人以外、誰もいなくなったのを確認し、華音と向き合った。
「見れば分かるだろう。忙しいんだよ僕は」
その鷹山の瞳には冷酷さと――そして、安堵感が浮かんでいる。
「じゃあ、せめて今夜はうちに帰ってきてください。鷹山さんの部屋までこれを持っていきますから」
「何時になるか分からない。約束なんかできない」
「どんなに遅くなっても、ちゃんと起きて待ってるから。だから、帰ってきて?」
「……」
「お願い」
鷹山は当てつけるようにわざと大きなため息をつくと、返事をせずに華音に背中を向けた。そして、そのまま美濃部のあとを追うようにして、楽屋棟へと向かって歩き去っていく。
華音は企画書の束を胸に抱えたまま、鷹山の背中を見送っていた。
日付もそろそろ変わろうかという深夜に、華音は企画書の束を抱え、自室を抜け出した。
パジャマにカーディガンを羽織っただけの格好で、暗い長い廊下をゆっくりと歩き進む。
鷹山が寝室として使用している部屋は、祖父が生前使用していた場所だ。華音の部屋とは、中庭を挟んだ反対側に位置している。
富士川祥が学生時代に居候していたときには何度か入ったことがあるが、鷹山の部屋となってからは、出入りをするのはこれが初めてだった。
――いるのかな? もしかして……今日も、帰ってきてない?
扉の前に立ち、深呼吸をする。勇気を出してノックをするも、中から返事はない。
念のため、ドアノブに手をかけて数センチ開くと、薄暗い光が廊下に漏れ出した。
部屋の主は、中にいた。
――やっぱり、帰ってきてくれてる。
華音は安堵し、部屋の中に入り込んだ。
鷹山はベッドの端に腰をかけていた。ルームランプのほのかな灯りが、鷹山の横顔を照らし出す。
ベッドサイドテーブルには、ワインのボトルとグラスが置かれている。
「……お酒、飲んでるの?」
「ここへ越してからは毎日だよ。睡眠薬代わりにね」
もともと祖父の寝室として使われていた鷹山の部屋には、小ぶりなワインセラーの他に、ソファやテーブルなども設えてある。
だが、鷹山はそれらを使わずに、いつもこうしてベッドに腰かけて飲んでいるのだろう。
「それで、いったいどうしたの? お兄様におやすみの挨拶でもしにきた? それとも僕の添い寝をしにきたの?」
口も聞かないケンカ状態が続いていたため、部屋を訪ねると言ってもそういう雰囲気にはならないと華音は思っていた。ただ、万が一のことを考えて、それなりの覚悟を決めてきたつもりだったが――いざ鷹山に誘い文句を口にされると、華音は緊張のあまり、顔と身体を強張らせてしまう。
「冗談に決まってるじゃないか。企画書を持ってきたんだろう?」
いつになく、声の調子が優しい。低音が艶めいている。
鷹山は無言で、右手をゆっくりと華音のほうへと差し延べた。
華音も黙ったまま、抱えていた紙の束を差し出すと、鷹山は素直にそれ受け取った。そして企画書の中身をざっと確認すると、すぐにテーブルの端に置いた。すでに仕事モードから抜けきってしまったようだ。
鷹山は空いている右側のスペースを数度、誘うように叩いた。
華音はゆっくりと近づき、つかず離れずの微妙な距離を保って、鷹山の隣に静かに腰かけた。
鷹山は、左手をサイドテーブルに伸ばし、ワイングラスを手に取った。
グラスの中身はよく冷えた白だ。その証に、グラスが細かな水滴で曇っている。鷹山は半分ほど入ったそれを、あおるようにして一気に飲み干した。
華音はすぐそばで、鷹山の喉の動きをじっと見つめていた。
「向こうじゃこれが当たり前だった。飲むか、抱くか。『何を』なんて、野暮な質問はしないでくれ」
「……」
「もっとも、飲むより抱くほうが圧倒的に多かったけど」
酔いに任せて、聞きもしないことまで饒舌に語り出す。
「快楽を追い求めるとね、その間だけは忌まわしき過去を忘れていられるんだ」
華音の心臓はどんどん鼓動を早めていく。
それは緊張なのか興奮なのか、華音自身にもよく分からない。
「僕はずっと、一人孤独だった」
そう言って、空いたグラスを静かにサイドテーブルの上に戻した。鷹山の大きな焦げ茶色の瞳が、ゆっくりと瞬きを繰り返す。
「鷹山さん……は、富良野に実家があるんでしょ?」
実家のことにあまり触れたがらないため、華音は鷹山家のことをほとんど知らなかった。
しかし今夜は、アルコールの力も手伝ってか、鷹山は珍しく自分のことを語り始めた。
「最近帰ってないけどね。今は父が一人暮らしをしてる。父って言っても、あの人まだ、独身なんだ。だから、母親はずっといなかった」
「へえ……?」
「だって、僕を引き取ったとき、あの人まだ大学出たばかりの、二十五歳の若造だったんだよ。今の僕の歳とほとんど変わらない。まあ、父親というより、年の離れた兄貴に近いかな」
「何だか、不思議な話のような気がするんだけど……?」
「僕たちの母さんの、弟なんだ。つまり、叔父さんってこと。母さんの家もいろいろ複雑でね、両親が離婚してから僕たちのように離れて暮らしていたらしいよ。僕たちの母さんのことはよく知らないって言ってるから」
初めて知る事実だった。
華音にしてみれば会ったことも話したこともない人間だが、――祖父が他界したときに天涯孤独となってしまったと思ったのは、どうやら違っていたようだ。
鷹山にとっての『叔父』であれば、当然華音にとっても『叔父』となる。
「よく知らないのに、そんな若くして子供を引き取ったの?」
「変わってるんだ、あの人」
きっと、大切にされていたのだろう。
富良野時代の話をするときの鷹山には、養父に対する絆が感じられる。
すると突然、穏やかだった表情が、一転して陰りを見せた。
「君はこの家で、あの男と一緒にいて、さぞかし楽しかったんだろうな」
返事ができなかった。
楽しかったとも、楽しくなかったとも、彼には言えない。
華音は黙っていた。
しかし。
鷹山は華音に返事を求めているわけではないようだった。独り言のように、一方的に喋り続ける。
「あのとき――僕もこの家に引き取られることになっていたら、今頃どうなっていただろう」
それは、適うことのなかった並行世界の話である。
「そしたら僕は、もっと兄貴らしくなってたかな」
祖父である芹沢英輔への反抗心もなく、厳格な家風に育ち女性関係も乱れなく、温室育ちの御曹司のようなどこか浮世離れした人間になっていたかもしれない。
そして、当たり前のように『華音』と呼び、同じものを見て、同じものを聞いて、同じ物を食べ、ときには勉強をみて、本やCDの貸し借りをし、両親の命日には揃って悲しみ、誕生日にはともに祝い――。
「約束なんて、守らなければよかった」
鷹山の呟くような声が、淡々と響く。
「君のことを愛さなければよかった――」
鷹山は、そばに座る実の妹のほうへとゆっくり顔を向けた。
目と目が合う。
今にも泣き出しそうな鷹山の潤んだ焦げ茶色の大きな両瞳が、切なげに揺れるのを華音は見た。
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