修羅(1)

 その日の夕方、華音は朝に宣言したとおり企画書の束を携えて、芹響の本拠地であるホールへと出向いた。


 この場所を訪れるのも、久しぶりのことだった。そのせいで、華音はいつにない緊張を覚えていた。

 ゴールデンウィーク後半は、楽団員たちは基本的に休暇となっている。

 辺りを一望すると、駐車場は閑散としていた。自主練習をしに来ている楽団員が数名いる程度だ。



 華音は、警備員のいる楽屋口へと回った。

 果たして、鷹山は今どこにいるのだろうか。スケジュールを把握していないため、まったく見当がつかない。

 音楽監督室はステージ横の楽屋棟の四階だが、打ち合わせに使うであろう応接室や会議室は、それとは反対側の事務管理棟にある。


 いまだ仲直りができていない状態のため、勝手に音楽監督室に出入りするのはためらわれる。

 かといって、打ち合わせの様子をうかがいに行くのは、企画から外されてしまった今の立場ではどうにも都合が悪い。


 ――鷹山さんの出待ちするしかないのかな……。


 気が重い。

 鷹山が一人ならそれでもいいが、もしホールのスタッフや楽団員たちと一緒になってしまったら、確実にタイミングを逸してしまう。


 華音は思案した挙句、楽屋棟からホールへと繋がるドアへと向かった。

 とりあえず、応接室と会議室の使用状況を、事務管理室にいるスタッフに問い合わせようと考えたからである。



 しかし、華音の思惑は、早くも崩れてしまった。


「あ、華音ちゃんだ。お久しぶりー」


 エントランスの片隅に設置されたロビー椅子に、羽賀真琴がひとり腰かけていた。

 真琴は黒のカットソーに白のパンツスーツ姿だ。長身細身でショートヘアの真琴だからこそ、決まる服装である。唇の艶やかな深紅がモノトーンに映える。

 真琴は華音の姿をとらえると、屈託のない笑顔で無邪気に片手を振ってくる。

 そのあまりに人懐っこい反応に、華音はどう反応してよいものか途惑ってしまった。

 演奏会の客演が決まった以上、個人的な好き嫌いの感情だけで相手をするわけにはいかない。

 華音は気を取り直し、ゆっくりと羽賀真琴のもとへと近づいた。


「え……っと、あの、打ち合わせは終わったんですか?」


「さっきね。今、付き人の車を待ってるところ。ここからこのままパリへ向かうから」


 真琴のその言葉を聞いて、華音は先日の首席会議で、確かにコンサートマスターの美濃部が、羽賀真琴がパリでレコーディングの予定があると言っていたのを、ふと思い出した。

 国内でもアルバムを何枚も出しているほど、録音には精力的だ。ヴァイオリンの実力だけでなくその容姿の美しさが、彼女の人気を後押ししているのは間違いない。

 華音はそんな真琴と自分を比べ、無意識に何度もため息をついてしまう。


 自信に満ち溢れた、大人の女。

 どんなに頑張っても、華音は到底敵わない――。


 ため息をつく華音を見て、真琴は不思議そうに首を傾げた。


「ねえ、楽人君とケンカでもしたの?」


「……え?」


「華音ちゃんのこと、今回の企画から外したって、さっきの打ち合わせで言ってたから」


 やはり、鷹山の気持ちは変わっていないらしい。

 華音はまたひとつ、真琴の前で大きなため息をついてみせた。

 しかし、元彼女は――。


「アハハ、ひょっとして私のせい?」


 真琴のそのあっけらかんとした態度に、華音は思わず絶句した。

 関係がないといえば、それは嘘になる。

 しかし、鷹山と羽賀真琴の関係がすでに過去のものであると、二人が口を揃えている以上、ひとり冷静になれない華音の未熟さのほうに問題があるのだろうが――。

 華音はたまらず目の前の美女に聞き返した。


「羽賀さんは……いったいどうしたいんですか?」


「怒ってる? そんな悪く思わないでよ。楽人君のこと試したかっただけだから」


「試す?」


「華音ちゃんも知ってるかもしれないけどね、楽人君、祥先輩のことをとにかく憎んでるの。弟子同士の嫉妬とかそんなレベルとっくに超えてるし」


 知っている。知り過ぎているといったほうが正しい。


「追い出したんでしょ? 祥先輩のこと」


 華音は言葉を失った。

 鷹山が、兄弟子を追い出した――しかし、あれは。


「祥ちゃんは自分で出ていっちゃったんです。追い出したなんて……」


 この人は、どこまで知っているのだろう。

 富士川の音大時代の後輩であり、鷹山のウィーン時代に彼女でもあったのだから、時期を異にして二人と繋がりがあったということになる。


「びっくりするよそりゃ。あの祥先輩の愛情を独り占めにしておきながら、楽人君と付き合うって言うんだから、余程のことなのかな……なんて邪推してしまうわけよ」


「祥ちゃんは別にそんな、お兄ちゃんというか、家族みたいなものだし……。鷹山さんは――」


 ――血が繋がっているけど、恋人みたいなもの……なんて、言えるわけない。


「ああ、別に華音ちゃんのこと責めてるわけじゃないよ? 祥先輩も楽人君も違った意味でカッコいいし、人を好きになるのは本能なんだから、惚れちゃったらしょうがないもんね」


 明るくさらりと言い切るその物言いに、華音は返す言葉を失ってしまった。

 そして何となく、彼女と付き合っていた鷹山の気持ちがほんの少しだけ、分かった気がしたのである。


「勘違いしないで欲しいんだけど、私はどっちも好きで、でも、どっちにも執着なんかしてないの。ただね、ひとつだけ――」


 真琴は一呼吸置くようにして、華音に向き直った。


「祥先輩は、芹沢の名が似合うよ。誰よりも」


 華音はその言葉に思わず目を瞠った。

 真琴はその反応に満足したのか、それに付け加えるようにして、さらりと続けた。


「そうそう私ね、婚約者がいるの」


「え? あ……そうなんですか?」


「付き人してくれてる人なんだけどねー、楽人君にもさっき紹介しておいた」


 その言葉を聞いて、華音は、胸につかえていた大きな塊が、一気に氷解していくような感覚を覚えた。


 ――なんだ。そう、だったんだ。


 今は『あくまで音楽の同志として』の付き合い――その鷹山の説明には、嘘はなかったのだろう。

 華音の様子の変化を眺めるようにして見ていた真琴は、意味ありげな笑顔を見せた。


「安心した?」


 完全に、見抜かれている。


「私なんかよりね、むしろ彼女のほうが厄介なんじゃないの?」


「彼女?」


「藤堂さん」


 華音はふと首を傾げた。その言葉の意味するものが、よく分からなかったためである。


「藤堂さんが祥ちゃんのこと好きなのは……知ってます。厄介だなんて、そんな」


 あかりは富士川を崇拝信望しており、そのため華音が富士川のそばにいるときには何かと冷たくあしらわれることが多かったが、現在はそれほど敵意をむき出しにしてくることはない。

 むしろ鷹山の暴走を止めるべく楽団に残り、孤軍奮闘していることは、華音も認めている。

 しかし、真琴の思惑は別のところにあるようだった。


「そうじゃなくて。あの子、楽人君のことかなり意識してるんじゃない?」


 目の前の溌剌とした美女の言わんとすることが、華音には分からなかった。

 意識する、とは――。


「藤堂さんと鷹山さんは、性格が合わないみたいでよく言い争いとかしてますけど、でもそれは仕事上の意見のぶつかり合いですから――」


「本当にそう見えてるの? まあ、近くにいすぎてよく分からないのかな、やっぱり。何とも思わない人にね、あんなむきになったりできないよ」


「う……嘘。そんなこと、絶対にあるわけないです」


「案外、藤堂さん自身も気づいてないのかもねー。それに楽人君だって、まんざら嫌そうでもないしね。基本的に、ああいう高嶺の花っぽい清楚な美人はね、彼の好みだから」


 真琴は、自分自身以外の鷹山の過去の恋愛遍歴を、いろいろと知っているのだろう。今の発言は、真琴なりの統計に基づいているに違いない。

 しかし、鷹山のこれまでの態度を見るかぎり、藤堂あかりに対する好意などは感じられない。


「ああ、やっと車が来た。それじゃ、私はこれで。また今度ね、華音ちゃん。お土産、買ってきてあげるから楽しみにしてて」


 真琴はソファの上に置いてあった自分の荷物を携えると、正面玄関脇の通用扉から出ていってしまった。



 何面もあるガラス張りの大きな正面玄関の扉は、イベントのないときには堅く施錠されている。その扉の向こう側に、黒い乗用車が停まっているのが見えた。


 運転席から降りてきたのは、背の高い若い男だった。真琴と合流し、荷物を預かると、男は嬉しそうな笑顔を見せた。それは付き人の顔ではなく、婚約者のものだった。華音が中から見ていることに気づいていないのだろう。

 鷹山とは似ても似つかぬその容貌と雰囲気に、華音は急速に脱力感を覚えた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る