その花の名は(2)

 玄関の重厚な扉を開けた先に、長身の青年が一人たたずんでいた。

 何が起こっているのか、華音にはすぐに認識できなかった。


「嘘……祥ちゃん?」


「お誕生日、おめでとう」


 華音は驚きを隠せずに、ひたすら瞬きを繰り返す。


「退院したの? いつ? 具合は大丈夫なの?」


「華音ちゃん。俺のことより、まずは『おめでとう』の返事が聞きたいかな」


「だって……」


「今日で十七歳だね、本当におめでとう」


 華音はいつもそうしてきたように、富士川に抱きついた。

 そして富士川も、慣れたように華音の身体を優しく包み込む。


「さあ富士川様、どうぞ中へ」


 華音の背後に控えていた乾が、懐かしい来客を手馴れたように招き入れた。


「お気遣いありがとうございます。でも――」


「鷹山様は遅くまでお仕事の予定ですから、心配ございませんよ」


 二人の弟子が決して友好的ではないことを、乾はちゃんと心得ている。どちらか一方に肩入れすることもなく、平等に丁寧な対応ができるのは、執事としてのプロフェッショナル意識の表れであろう。

 それに対し、富士川はいまだ困ったような顔を乾に向けている。


「いいえ。家主の留守中に、赤の他人が勝手に上がり込むわけにはいきませんので」


「赤の他人だなんて、旦那様の一番弟子であられる方が、そんな滅相もないことを」


 しかし、富士川は頑なに乾の勧めを受け入れようとはしなかった。

 家主の留守中に――それは富士川が、敬愛する師と不敬不遜な二番弟子との関係を知ってしまったからこそ、発せられる言葉。


「庭先で結構ですよ。晴れていて春風も心地いいですし――華音ちゃんさえ良ければ」




 二人は連れ立って、のんびりと中庭の芝の上を歩き始めた。

 富士川はおもむろに華音に尋ねた。


「仕事って?」


「え?」


「仕事なら一緒に行動するんじゃないのかな、と思って。別に探りを入れようと思ってるわけじゃないよ。企業秘密なら言わなくてもいいから」


 その言葉に嘘偽りがないことは、華音には分かる。

 芹響を退団し別の団体に所属しているとはいえ、現在は企画運営にまで携わるような仕事をしているわけではない。


「鷹山さん、元カノとデートだって」


「元カノ? へえ……」


 華音の答えを、富士川は複雑な表情をしながら聞いている。その言葉の持つ微妙な雰囲気を、読み取っているからに違いない。

 華音は構わず続けた。


「今度その人、うちの演奏会に客演することが決まったから、今日はその打ち合わせ。祥ちゃんの知ってる人だよ」


「俺の知ってる人?」


「羽賀真琴」


「羽賀?」


 富士川が珍しく驚嘆の声を上げてみせた。


「しかも、チャイコフスキーをやるんだって」


「そうなんだ……鷹山と羽賀が、ね」


 富士川にとって、二人の関係はかなり意外な事実だったらしい。


「それって、ヤキモチ?」


「ん? どうして?」


「だって、羽賀さんは祥ちゃんのことが好きだったんじゃないの?」


「鷹山に獲られてヤキモチって? ハハハ、ないよそんなの」


 やはり。

 きっぱりと否定されて、どこか安心している自分がいる。


 いったい自分はどうしたいのだろう。

 何を言いたいのだろう。



 芹沢邸の中庭の真ん中に、大きな樫の木がある。二人が樫の木の辺りへ辿り着くと、華音は立ち止まった。

 どこを目指しているわけでもない。富士川もつられるようにして歩くのを止め、樫の幹にその背を預けて、大きく深呼吸した。

 大きく伸び広がった枝葉が、日除けの代わりにちょうどいい。


「ここへ来るとなんだか落ち着くな。芹沢先生の音楽があふれている」


 ほんの一年前までは、これが当たり前のことだったのだ。

 目を瞑ると、今でも鮮明に情景が浮かび上がってくる。


 富士川は遠い日の記憶を呼び起こすように、ゆっくりと空を見上げた。


「初めっから芹沢先生に反抗的だったんだ、鷹山は」


 退院して間もない幾分やつれた頬に、柔らかな日の光が差している。

 華音は黙って、富士川の話に耳を傾けていた。


「当時中学生だったとはいえ、あまりにも口の聞き方がなっていなくて、見るに見かねて俺が注意をしたら、『何も知らないくせにいい気になるな』と返された」


 富士川が鷹山との過去を口にするのは、華音の記憶ではこれが初めてだった。

 淡々とした言葉が、風にのって華音の耳へと届く。


「『俺は兄弟子だから、君よりは音楽を知ってる』って、俺はそう答えた。でも、そういうことじゃなかったんだな。あのときの言葉の意味が、十年経って、ようやく分かった」


 ――『何も知らないくせにいい気になるな』……か。


「華音ちゃん、俺はこれでも芹沢の家に長く世話になっていたから、いろいろなことが分かるんだよ。華音ちゃんに兄弟がいて、どうして一緒に育てられなかったのか――理由を聞かなくても、想像はつく」


 芹沢夫人は生前、華音の母親である女性の悪口を言い続けていた。当然そのことは、富士川もよく知っている。

 華音が父親の卓人によく似ているということも、夫人や高野和久から聞かされ、知っている。


 そして、まったく似ていない『兄』と『妹』。


 いろいろな事実を一つ一つパズルのように繋ぎ合わせていくと、やがて大きな真実へと辿り着く。


「だから鷹山は、芹沢先生や俺が憎いんだろうな。ようやく納得がいったよ。真実を教えてくれた赤城さんには感謝してる」


「祥ちゃん……」


 そこには、怒りも憎しみもない。

 もう、二番弟子に対する複雑な思いは、富士川の中で色褪せてしまっている。

 同時に、彼の一番弟子としての威信とプライドも、すでに失われてしまったようだった。

 それは、華音がもっとも怖れていたこと――。


「今年も綺麗に咲いたね」


「え?」


「芹沢先生の奥様が、とても気に入ってた花――」


 富士川の横顔――その視線の先を辿ると、手入れの行き届いた花壇に、白とピンクの花が咲き乱れているのが見えた。


「華音ちゃんのお父さんも好きだったんだって、奥様はよく俺に言ってたよ」


「そう……みたいだね」


「華音ちゃんも奥様から聞いてた?」


 違う。

 鷹山がそう言っていたのだ。

 自分の死んだ父親が好きだった花は、その『アルストロメリア』であると――。


 怖い。

 繋がっていく。

 どんどん鷹山が、近しくなっていく。



「鷹山はちゃんと優しくしてくれてる?」


 富士川は真っ直ぐに華音を見下ろしてくる。

 すべてを知って、なお。


「軽蔑……しないの? だって、鷹山さんは私の――」


 突然、華音の言葉は遮られた。

 気づくと、華音は富士川の胸の中にしっかりと抱き止められていた。

 懐かしい感触に、崩れ落ちそうになる。


「祥ちゃん、私」


「三分いや、一分でいい――」


 もう、自分たちの関係は変わってしまった。

 抱きすくめる富士川の腕の感触が、以前のそれとはまったく異なっていることに、華音は気づいていた。


「俺は本当に、華音ちゃんが幸せならそれでいいんだ」


 ほのかに甘い花の香りが、辺りに漂っている。

 花の名は、アルストロメリア。


「どんなときでも、どんなことがあっても、俺は華音ちゃんの味方だよ」


 どうしても振り解けない、この腕を。

 この人はいったい自分の何なのだろう。

 この人は何故、自分のすべてを許してくれるのだろう。

 彼の声が聞こえる。こんなにも近くで。


 そうなってくれたらいいのに、と――。

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