その花の名は(1)

 鷹山と仲違いをしてからというもの、彼が芹沢邸に帰宅してくることが大幅に減ってしまった。

 芹響の本拠地である専用ホールの楽屋棟には、シャワー室や仮眠室などが完備されている。鷹山は、仕事が多忙だということにかこつけて、ホールへ泊り込んでいる。

 華音が学校に出かけてから、着替えをしに芹沢邸へ戻ってきているらしいが、それはあくまで執事の乾から伝え聞いた話で、華音が実際に鷹山と遭遇することはなかった。

 もう、かれこれ二週間になる。


【いいか百本だ。全部揃うまで僕の前に顔を出すな――】


 鷹山から出された指示は「企画書百本」である。

 一日三本ずつ考えたとしても、ひと月以上かかってしまうほどの膨大な量だ。


 しかし、思ったように作業ははかどらなかった。

 一日いっぱい、企画書作りに時間を割くわけにもいかない。日中は学校がある。普段鷹山のそばでバイトをしていた時間を充てても、せいぜい三、四時間といったところだ。

 その結果。

 二週間を過ぎて、作った企画書はいまだ二十五本あまり。予定のペースを完全にオーバーしてしまっている。

 このままでは、二ヶ月はかかってしまうだろう。


 一緒にいることがなければ、ケンカをすることもない。

 だから、とても気楽――ではある。

 しかし、鷹山のいない毎日は、モノクロ写真のようにまるで彩りがなく、とても空虚なものだった。


 彼の声が聞きたい。

 鷹山の感触が、恋しい。


 どうしてこんなにも彼の過去に嫉妬してしまうのか――華音自身、よく分からなかった。

 彼は自分よりも八つも年上で、立派な大人の男性なのだから、過去に一人や二人、そのような相手がいてもおかしくはないのである。

 いや、それは違う。

 話を聞くだけならまだよかったのだ。

 実際にその、過去の恋愛遍歴が目の前に現れたからこそ、華音は動揺してしまったのである。


 二人が言葉を交わす。以前そうしていたように。

 二人が見つめ合う。以前そうしていたように。


 そして。


 ――私にはないものを、あの人は持ってる。


 早くしないと、本当に鷹山を奪われてしまう――そんな妄想が華音を苦しめていく。



 その一方で。

 華音は、体調を崩して入院している富士川のことが、とても気がかりとなっていた。

 鷹山に距離を置かれている今なら、彼の目を盗んでまた富士川の見舞いに出かけることもできる。今度はオーナー赤城の手助けは要らない。

 しかし、これ以上、鷹山に嘘をつき通せる自信はなかった。


 今、自分ができること。自分がしなければならないこと。


 ――負けない。意地でも企画書百本作ってやる。


 華音は自室の机に向かい、紙とペンを目の前にして、気合いを入れ直した。

 とにかく、あの悪魔な音楽監督のよく喋る口を、何としてでも黙らせてやりたい。その一心である。

 鷹山はおそらく、華音ができないと音を上げて謝ってくるのを、ひたすら待っているに違いない。

 だからこそ、こうやって無理難題をわざと押しつけたのだ。


 諦めたくない。彼に認めさせたい。

 自分のことを認めて欲しい――ただそれだけだ。


 百本。気の遠くなるような数だ。二十五本を考えただけで、華音の持っている案はすでに枯渇してしまっていた。

 演奏会の構成は、ある程度パターンが決まっている。

 もちろん、従来にはない新しい演奏スタイルというものも、鷹山は決して否定しないだろうが――それでも、そう簡単に何本も企画が思いつくものではない。


 ――どうしよう……あと七十五本もあるし――あ、そうだ。


 華音は、突如ひらめいた。

 今まで気づかなかったほうがどうかしている。


 ――過去の演奏会の記録を、写しちゃえばいいんだ。


 クラシック音楽というものは、何も新曲ばかりを演奏するわけではないのである。愛好者を唸らせる馴染みのある定番曲というものが、多数存在する。

 つまり。

 同じ曲を何度も採り上げても、問題はないのである。

 今回のチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲にしても、おととし富士川がソロで演奏をしたことを聞いて、鷹山は別に構わないと答えていたのだ。

 方法は、それしか残されていない。

 華音は思い立ってすぐに、祖父の書斎へと向かった。




 日は流れ、世間はゴールデンウィーク真っ只中という時節となった。


 華音は出かける予定もなく、ただひたすら企画書作りに没頭していた。

 そして、誕生日当日の朝を迎えた。


 華音はいつものように朝食を摂るため、自室のある二階から一階の食堂へと向かった。

 その途中、なんと――。

 階段の降り口のところで、華音は反対側からやってきた鷹山と遭遇したのである。

 彼と顔を合わせるのは、実に三週間ぶりのことだった。


 鷹山はきっちりとスーツに身を包み、身なりを完璧に整えている。これからすぐに出かけるらしい。

 鷹山は、華音に一瞥をくれただけで、声もかけずに先に階段を降りていこうとした。


「鷹山さん――」


 華音の呼び止める声に、鷹山は階段を降りる足を一度止めた。しかし、そこから振り返ろうとはしない。

 華音は勇気を振り絞って、鷹山の背中に向かって言った。


「企画書ができたので、あとでホールへ持っていきます。打ち合わせの邪魔、したりしませんから」


 しかし。

 鷹山は肯定も否定もせず、ひたすら無視を決め込んで、再び階段を降りていってしまった。


 ――まだ駄目? これでも許してくれないの?




 誕生日の朝から、華音は深いため息をついていた。

 ひと月前には、あんなに嬉しそうに抱き締め、当然のようにキスをして、一緒に旅行へ行こうなどと少年のようにはしゃいでいたのに――そのときのことを思い出すと、現状があまりに惨めで、いくらため息をついても足りない。

 食堂で一人遅い朝食を食べていると、給仕をしていた執事の乾が、華音に奇妙なことを問いかけてきた。


「何か、お気づきになりませんか?」


 目の前に、特に変わったところは見受けられない。華音が首を傾げると、乾は穏やかな笑顔を見せ、オムレツの皿の奥に置かれたデザート用の小皿を指し示した。

 小皿の上には、バニラの風味豊かなケーキが一切れ載っている。


 確かに、朝食のテーブルにケーキが載るのは滅多にないことだが――毎年家族の誕生日には、家政婦が気をきかせて、このような特別メニューを出してくれていた。そのため、目の前の風景は『いつもの誕生日の食卓』としか、華音の目には映らなかったのである。


「こちらは、楽人坊ちゃまからですよ」


 執事の言葉に、華音は思わず目を瞠った。

 本人のいる前では『鷹山様』という呼称を使用する乾が、どこまでも嬉しそうにして華音に説明を始める。


「家政婦に言いつけると申し上げたのですが、ご自分でどうしても切り分けて差し上げたいと。多少端が崩れているのはご愛嬌ということで」


 言われてよくよく見ると、乾の言うとおり、断面はお世辞にも美しいと言える状態ではなかった。ホールのケーキの上に載っていたであろうイチゴやオレンジやキウイフルーツが、クリームやムースにまみれて無理矢理添えられている状態である。遠目に彩りは美しいが――。

 華音は可笑しくてしょうがなかった。

 自分で大きなバースデーケーキを買ってきて、華音に食べさせようと慣れない手つきでナイフを振るう――そんな鷹山の姿を想像しただけで、例えようもない嬉しさがどんどん込み上げてくる。

 先ほど階段で出くわしたときには、すでにこのケーキを切り分けたあとだったのだろう。

 そうでなければ、いくらケンカして気まずい状態が長く続いているとはいえ、もともと饒舌で雄弁な彼が久々に顔を合わせて、何も言わずにすませられるはずがないのである。

 あれは天邪鬼な彼の、精一杯の虚勢だったのだ、おそらく。


 ――可笑しい。可笑しすぎる。


「こういうところは、本当に卓人様とそっくりでいらっしゃるんですよね」


 ため息ばかりついていた華音が途端に顔をほころばせたのを見て、乾は満足げに頷き、慈しむような眼差しで華音を見つめた。

 昔と今を重ねて、執事は懐かしい記憶に思いを馳せている。


「たった二人きりのご兄妹ですから――華音様のことは何よりも大切なんですよ」


 執事の穏やかなその言葉が、鋭い刃となって華音の胸の真ん中を突き刺した。


 兄――あの男は自分の、兄。

 同じ父と母を持つ、たった一人の兄。だから、何よりも大切。

 嘘。

 そんな記憶は、どこにもない。

 自分には、父も母もいない。

 祖父と祖母と、一人の青年と――。



「もうじき、華音様にお客様がお見えになられますよ」


 何も知らずに淡々と給仕を続けている乾の声に、華音はようやく我に返った。


「お客? 私に?」


「ええ。華音様がお出迎えになられたほうが、よろしいかと思います」


 乾は楽しそうに笑っている。そして、壁掛け時計を目をやり時刻を確認すると、再び華音を促した。


「さあ、ともに玄関へ参りましょう。時間には正確な方ですから――」

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