禁断の果実(2)

 口元が緩み、くわえていたイチゴが唇から離れ、枕元へと転がり落ちていく。

 瞑ったままの華音の両目から、涙があふれ出した。目隠し代わりのネクタイをもどかしい手つきでずり下げると、すぐ目の前に琥珀色の大きな両瞳があった。


「鷹……山さ……ん」


「止めて? それとも、もっと?」


 答えが出ない。

 涙があふれ続ける。


「さあ。いい子だから、オーナーと何をしていたか、正直に言うんだ」


 艶のある低音が、華音の頬に降り注ぐ。

 感じる。

 確かに感じる。

 感じさせているのは、この男なのである。


【それで華音ちゃんが幸せなら、俺はいい――】


 富士川の優しい声がする。

 分からない。

 幸せかどうかなんて、分からない。


 ただ、この目の前の男を愛している。


 涙でぼやけた視界の中に、鷹山の綺麗な顔が映っている。


「何も……してない」


「――そう。それが君の答えか」


 鷹山は華音をつけ離すようにして身体を起こすと、ネクタイを無造作につかみ取り、そのまま部屋を出ていってしまった。

 名残を惜しむように、枕元のシーツに転がったかじりかけのイチゴから、甘い香りが漂っていた。




 次の日の夕方、鷹山はその態度を一気に豹変させた。

 それが昨夜の出来事に起因しているであろうことは、華音には簡単に予想がついた。

 その証拠に、華音が学校からそのままホールへ姿を見せても、鷹山はひたすら無視を決め込んでいる。

 しかし、機嫌が悪いことなどしょっちゅうあるため、華音は特に気にせず、安西青年や他の団員と和気藹々と過ごしていた。

 そして、練習後。

 本日残された予定は、首席会議である。



 事務室や応接室が連なるホール内の管理棟に、小さな会議室がある。

 首席会議のメンバーは、音楽監督の鷹山、コンサートマスターの美濃部の他各セクション首席五名、ヴァイオリン副首席の藤堂あかりもその名を連ねている。

 そして議事を取るために、華音はいつもこの首席会議に同席していた。



 会議が始まるなり、鷹山は開始の挨拶もそこそこに、部屋の隅にいた華音に淡々と告げた。


「まず、芹沢さん。君はこの演奏会の運営サポートから外す」


 室内が水を打ったように静まり返った。

 上座の鷹山を取り囲む出席者たちは、皆一様に途惑いの表情を見せている。

 もちろん一番驚いたのは、名指しされた華音自身だった。


「え? あ、あの……それってどういう」


「藤堂さん、ちょっと――」


 鷹山は華音の問いをわざとらしく無視し、末席につく藤堂あかりに顔を向けた。


「君、この間真琴さんのこと先輩って言ってたけど、直接面識はあるの?」


「私が一年のときの四年生です。同じ先生に師事していましたので」


「そう。じゃあ君に、この企画のサポートをお願いしよう」


 会議室内は、再び重苦しい沈黙が支配する。

 空気の流れが悪い。淀んでいる。

 あかりはいつまで経っても返事をしようとしない。少なからずの迷いがあるようだ。

 鷹山は繰り返し尋ねた。


「何か不都合でも?」


 あかりは一瞬、華音のほうをちらり見やった。この状況にどう反応していいものか悩んでいるに違いない。

 しかし、鷹山の威圧的な視線に耐えかねたのか、あかりはようやく口を開いた。


「私と羽賀先輩は、特に友好的な関係ではありませんけど」


「だろうね。同じ穴のムジナ、ってやつなんじゃないのか?」


「……どういう意味でしょうか」


「どっちも男の趣味が最悪ってことだよ」


 場の空気が一瞬にして凍りついた。

 今日の会議はいつもと違う――華音はひどく胸騒ぎを覚えた。

 おかしい。

 いつも以上に、鷹山がおかしい。


「失礼ですが、監督は羽賀先輩とお付き合いなさってたんでしょう? ご自分も『最悪の趣味』の中に入っていらっしゃるんでしょうか?」


「真琴さんと君に共通している男の趣味のことを言ってるんだよ。もし君が僕のことを好きだって言うなら、『最悪の趣味』に入ってあげてもいいけどね」


 そんな鷹山の悪態に、あかりは珍しく引き下がろうとはしない。いつになく冷静さを欠いた様子で、鷹山にくってかかる。


「だいたい、公私混同しすぎではないですか? 監督の女性関係をとやかく言いたくはありませんけど」


 その淀んだ雰囲気を打ち破るように、鷹山に一番近い席に着いていた美濃部が、ようやく仲裁に入った。


「あかりさん、今は会議中だよ。少し冷静になって」


 穏やかだが力がある。

 あかりは我に返ったように、すぐに口をつぐんだ。



 会議室内は異様な雰囲気に包まれていた。

 進行役の美濃部は、淡々と演奏会の企画の流れを説明していく。委嘱作の初演や難曲でもない限り、会議に参加している首席陣たちが口を挟むことはほとんどない。

 今回もすんなりと進み、羽賀真琴を迎えての演奏会は完全に決定して、首席会議は終了となった。

 もちろん、ここまでくれば華音が異論を唱える余地はない。

 最後につけ加えるようにして、美濃部は鷹山に尋ねた。


「打ち合わせの日程なんですけど、羽賀さんの希望は五月四日とのことでした。パリへレコーディングしに行くそうで、その日を逃すと六月まで無理だそうです」


「あ、そう。いいよ、四日で」


 ――嘘? だってその日は……。


 華音は、その鷹山の一言に愕然となった。

 信じられない。どうして。


【今度、二人で旅行に出かけようか――】


【芹沢さん、来月誕生日だったよね。五月四日、連休のど真ん中だ】


【じゃあ、その日にしようか。予定、空けておいてね】




 会議がすべて終わると、出席者が次々と会議室を出ていった。

 華音は部屋の隅の椅子に一人座ったまま、それを見送っていた。

 そして、偶然か必然か。鷹山と華音の二人が部屋に残される。

 そこに言葉はない。二人の無言の攻防が続く。

 鷹山が最後に上座から立ち上がると、口を真一文字に結んだまま資料をまとめて、華音に一瞥もくれようとはせず、そのまま部屋を出ていこうとした。

 華音は我慢できずに、思わず鷹山の背に向かって言葉をぶつけた。


「自分から言い出したのに」


 鷹山はその場に立ち止まった。

 そして、わざとらしく大きなため息をつき、ゆっくりと華音を振り返る。


「何のこと?」


「約束してたはずなのに。鷹山さんの嘘つき」


「嘘つき? 隠し事ばかりして僕を欺いている君が、そんなことを言うんだ?」


 今まで無視を決め込んでいた鷹山が、一転して流暢な嫌味をたたみかけてくる。

 どうやら完全に火をつけてしまったらしい。

 しかし。

 自分から仕掛けた手前、華音も後には退けない。


「私がこの演奏会の企画から外されたのは、そういう理由なんですか?」


「ハッ、ちゃんと分かってるじゃないか」


「……羽賀さんといちゃつくのに、私がそばにいたらマズいから――なんじゃないですか?」


 不機嫌をあらわにした眉間のしわが、いっそう深く寄せられる。

 その表情の変化で。

 鷹山の血管がぶち切れる音が、華音の耳に聞こえてきた気がした。


「僕は仕事に私情を持ち込まないよ、君と違ってね。彼女のヴァイオリンを君は聴いたことがあるのか? あるわけないか。じゃあ美濃部君にでも彼女の腕を聞いてみたらいい。彼女との共演は芹響にとっても大きなプラスとなると僕は考えた。だから彼女の申し出を受けた。それだけの話じゃないか。昔付き合ってたよしみで、なんて馬鹿なことを僕が本当にしてると君は思っているのか? どうなんだよ。三秒以内に答えないと肯定したと見なすから」


 鷹山は得意の弁舌をふるい、一気にまくし立てた。

 もちろん、たった三秒というなけなしの猶予は、茫然としている間に過ぎ去っていく。


「ああ、そう。君の気持ちはよーく分かったよ。君はさっさと帰って、部屋にこもって新しい企画書を百本作ればいい。いいか百本だ。全部揃うまで僕の前に顔を出すな」


 鷹山はそう怒鳴りつけて踵を返すと、会議室から出ていってしまった。

 一人取り残された華音は、もはや追いかける気力などあるはずもなく、呆然と瞬きを繰り返すので精一杯だった。


 ――悪魔だ……ホントに、もう。


 しかし、そこにあるのは悲しみという感情ではない。

 売り言葉に買い言葉。

 華音は決して負けてなるものか、と半ばやけになりながら、無謀な数の企画書作りをする決意を固めた。

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