禁断の果実(1)

 傾きかけた夕陽の差す中庭を、華音は自室の窓辺からゆるりと眺めていた。


 もう何度目だろう。自分の口からは、もはやため息しか出てこない。

 ただでさえギクシャクしている鷹山との関係のことを思うと、今日はとてもバイトをする気分にはなれなかった。

 しかし、気のきいた言い訳も思いつかない。華音はコンサートマスターの美濃部の携帯に電話をかけ、体調が優れないと伝えた。

 美濃部からは、いつものように理路整然とした答えが返ってくる。

 鷹山のスケジュールについての申し送りを簡単にすませ電話を切ると、華音はそのまま力なくベッドの上に寝転がった。



 ちょうどそこへ、執事の乾が華音の部屋へとやってきた。

 いつもながらに、品の良いたたずまいで華音を気遣ってくる。


「華音様、何かお召し上がりになりませんか?」


「……食欲ないから」


「でしたら、サッパリとしたデザートか果物をご用意いたしましょうか」


 決して無理に勧めてこないのが老執事の心得だ。

 華音は掛け布団に包まりながら、乾に告げた。


「イチゴ……がいい」


「承知いたしました。では後ほどお持ちします」


 華音の要望に、乾は嫌な顔一つせず笑顔で承知し、部屋を去っていった。



 枕に顔をうずめると、先程までいた病院での出来事が次々とよみがえってくる。

 富士川の声、そして赤城の声――。


【これからも鷹山と仲良くやっていってくれれば、それで華音ちゃんが幸せなら、俺はいいですから】


【血縁的には、彼が芹沢英輔氏の正統な跡取りということになる】


【芹沢先生が特別扱いするわけだ。俺は初めから、あいつに敵うはずが……なかったんだな】


【その憎しみのために、人としての判断力が狂ってしまっているのだからな】


 華音は掛け布団を頭からかぶり、ぎゅっと両目を瞑った。

 完全に、ばれてしまった。

 鷹山が、芹沢英輔の正統な血縁者であること。

 そして、兄妹が図らずも恋愛関係にある――ということ。

 確かに、いつまでも隠し通せることではない。

 しかし。

 ここまで落ち込んでいるのには、別な要因もあった。


 ――カノンね、大きくなったらショウちゃんとけっこんするの!


【そうなってくれたらいいとは……思っていましたけど】


 それは――鷹山が、華音の世界に存在していなかった日々である。

 祖父の一番弟子が、自分の結婚相手となる。それは、決して政略的な匂いのするものではなく、自分が望みうる最上の未来のはずだった。

 富士川は、華音のすべてを知り、すべてを理解する唯一の人間なのだ。

 たとえどんなことがあっても、切り捨ててしまうことなどできないのである。

 その繋がりの深さを再確認してしまった、今――。




 しばらくして、再びドアをノックをする音が聞こえてきた。

 なかなか入ってこようとはしない。

 華音は首を傾げた。執事の乾であれば、反応がなければ様子を確かめに、中へ入ってくるはずだからである。


「乾さん?」


 華音が問いかけるとようやく、ドアがゆっくりと開いた。


「……随分と、元気そうじゃないか?」


 華音はベッドの中で驚き、わずかに飛び上がった。

 嘘。これは嘘。


「君の部屋に入るのは、これが初めてだな」


 そう言う鷹山の手には、大粒のイチゴを盛りつけたガラスボウルが載せられている。それは先程、華音が乾に所望したものに違いなかった。


「それにしても、本当にわがままお嬢さんだな、芹沢さんは」


 鷹山は悠然と辺りを見回しながら、徐々に華音に近づいてくる。

 華音は状況が飲み込めないまま、慌ててベッドの上で上半身を起こした。


 壁掛け時計に目をやり素早く時刻を確認すると、まだ午後七時前だった。これまで鷹山は、毎日合わせの練習が終わったあとも、音楽監督控室にこもって楽譜の解釈の研究に励んだり、来客の対応をしたりしていて、午後九時前に帰宅することはほとんどなかったのである。

 華音は、完全に油断してしまっていた。


 鷹山は威圧的なほどの至近距離で、華音のすぐそばに腰かけた。そして、身体を斜めに構え、その怜悧なまでに美しい西洋人形のような顔を、華音の顔のすぐそばまで近づけてくる。

 艶のある大きな瞳に長い睫毛。

 華音はごくりと唾を飲み込んだ。


「なんで美濃部君なの? 美濃部君は君の何?」


「べ、別に何でもないですけど……鷹山さんのスケジュール調整とか、代わりに頼めるのは美濃部さんだけだから――」


「そんな分かりきったことを聞いてるんじゃないよ」


 いつものように、上手く対処ができない。

 華音はどんどん焦燥感に駆られていく。


「芹沢さんは僕のアシスタントでありマネージャーであり、演奏会のプランナー見習でもある。いいか、君の上司は僕だ。違うか?」


「……違わないです」


「だったらどうして、僕に直接言わないの?」


 怖い。

 怖い、とても。


「何を隠してる?」


「何も……隠してない」


「君は嘘をつくのが下手だ」


 鷹山の心の内が、まったく読めない。


「君がバイトを休むって聞いて、乾さんに電話をしたんだよ。そしたら、オーナーが君を午後の早い時間にここまで送ってきて、それから君の様子がおかしいって、そう言ってたからね」


 鷹山は手にしていたイチゴのガラスボウルを、ベッドのサイドテーブルの上に静かに置いた。

 そして再び、訝しげな眼差しで華音を見据え、ゆっくりと問う。


「僕に内緒で、いったいオーナーと何をしてたんだ?」


 華音は黙った。

 すぐそばで、鷹山は大きな目を何度も瞬かせている。

 待っている。

 しかし、言葉が出てこない。


「黙ってちゃ分からない」


 絶対に言うことはできない。

 オーナーの赤城と何をしていたかなんて、目の前の美貌の悪魔には、絶対に口が裂けても言えない。


「……何も、してない」


「じゃあ、どうしてオーナーがここまで君を送ってきたんだ?」


「なんで……なんでそうやって私のこと責めるの? 羽賀さんにはあんなに愛想振りまくくせに、私にはそうやって疑うようなことばかり言って……もう、意味分かんない」


 華音が感情に任せて訴えると、鷹山のまとう空気が変わった。

 黄昏の薄闇が、二人を別世界へと誘う。


「目を閉じて、芹沢さん」


「ど……うして?」


「いいから――」


 鷹山はネクタイの結び目に指を差し入れ、手馴れたようにそれを緩めて解き始めた。そして、シャツの襟から抜き取ったそれを、鷹山は真っ直ぐに整えて、両端を持った。

 何をするのだろう。

 いったい何を――されるのだろう。


「怖がらなくてもいいよ。ほら、言うとおりにして」


 華音の心の中を読み取るように、鷹山は優しくなだめてくる。

 完全に、鷹山のペースにはまり込んでしまっている。こうなってしまっては、華音には抗う術などない。

 華音は言われたとおり、そっとまぶたを閉じて、目の前の男を視界から消し去った。すると、すぐさま目隠しの要領で、閉じた目の上からネクタイを巻かれる感触がした。

 一瞬にして、漆黒の闇の世界に包まれる。


「さあ芹沢さん、人間の五感をすべて答えて」


「ご……かん?」


「そう」


 鷹山の問いかけに、華音は視界を遮られたまま怖々と答える。


「視覚、聴覚……嗅覚、味覚? あとは……」


「触覚ね。愛し合うとは、そこが感じること」


 鷹山の声が、いっそう近づいてくる。距離感を上手くつかむことができない。


「その五感のひとつを遮られると、その他の四つの感覚がいっそう研ぎ澄まされるんだ。遮られるものが多くなればなるほど、残りの感覚は驚くほど敏感になる」


 耳のすぐそばまで、鷹山の声が近づいている。

 華音はいつになく緊張していた。心臓の鼓動がどんどん早まっていくのを感じる。


「いま君は視覚を遮られている。だから、いつもよりイチゴの香りに芳しく包まれる――はい、口を開けて」


 目を瞑ったまま、怖々と口を開くと、そこに甘酸っぱい果実が押し込まれた。


「半分だけくわえて、そのまま静止」


 声が出せない。

 次の瞬間、首筋に唇を押し当てられる感触がした。視界が遮られていても、何度か経験しているためそれはすぐに分かった。

 いつも以上に、全身に痺れが走り、目が眩むような感覚に陥る。

 華音はたまらず、イチゴをくわえる口のさらにその奥から、唸るような声を漏らした。

 鼻腔をくすぐるイチゴの甘酸っぱい香りが快感にまとわりつき、脳髄を突き抜けていく。


「愛するということは、感じるということ――」


 鷹山は耳元でそう囁くと、華音の耳たぶに優しく噛みついた。そのまま唇を滑らせるようにして外耳をなでさすっていく。

 感じる。気が遠くなるほどの強烈な触感に、華音はとうとう根負けし、圧し掛かられるような格好で再びベッドに上半身を横たわらせた。

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