夏の桜と、たんぽぽ

柳なつき

桜の精と過ごした日々

 ふわり、と頬をかすめて、香った。ひらひらと舞うピンク色のそれは、桜の花びらだった。

 びっくりして、見上げる。そこにあったのは、確かに桜の木だった。周りの鮮やかな緑のなかで、淡い色あいの桜の木は目立っていた。

 何だ、これは。

 いつの間にか、違う世界に来てしまったのかと思った。頭に手をやる。かりかりとした感触がする。確かに私は、麦わら帽子をかぶっている。身体を見下ろす。白色のワンピースがそよ風に吹かれている。どこも変わったところはない。

 けれど。

 私はもう一度、その木を見上げた。

 太陽がかっと照りつけて、痛い。みいん、みいん、と蝉の鳴き声を背景に、桜が満開に咲いていた。


 翌日、私は夏の桜のところへ行った。

 夢じゃなかった。幻じゃなかった。焼けつくような暑さのなか、桜はわあっと咲き誇っている。蝉の鳴き声、入道雲、垂れてくる汗、そういうものたちと桜はぜんぜん似あわなくて、何だかおかしかった。

 木の根元にシートをひいて、かごからお弁当を取り出した。布をほどいて、箱のふたを開ける。たこさんウィンナー。うめぼし。ご飯。小さなコロッケ。そして何より、たまご焼き。

「たまご焼き!」

 そう言ったのは、私ではなかった。

 そちらを向くと、そこには桜色の着物を着た女の子がいた。前髪をぱっつんに切りそろえ、黒い髪をおかっぱにしている。背丈は小さく、顔だちも幼い。

「たまご焼きだ。それ、くれる?」

 腕を後ろにまわし、こちらに歩いてきながら女の子は言う。ころころした、可愛らしい声だった。

「……誰」

 私は箸を置き、警戒しながら訊く。

「お腹空いたなぁって思っていたら、君があらわれたんだよ。ちょうどいいところにね。それ、くれる?」

 答えになっていない。女の子はいよいよシートに来て、座り込む。

「そんなに不安げな顔しなくても。ちょうだいよ」

 女の子はねだるように私を見る。え、いや、と戸惑っていると、女の子は這うようにして私のそばに来て、たまご焼きを細く白い手で掴んでぱくっと食べてしまった。

 唖然としてそちらを見ると、女の子は口をもぐもぐと動かしながら、にこっと笑った。顔じゅうに広がる笑顔だった。

 これが、私と桜の精との出会いだった。


 桜の精は、自分が桜の精だとは言わなかった。名前を訊いても年齢を訊いてもはぐらかされた。

 でも、私には彼女が桜の精だとわかった。

「間違えちゃったかなぁ」

 たまご焼きを頬張ったあと、風に吹かれて散ってゆく桜を浴びながら、その幼い外見に不釣あいの静かな瞳で木を見上げていたからだ。咲く時期を間違えたってことなのかな、と私は思った。

 それに、彼女の髪の毛はあまりにもさらさらと柔らかいし、肌は陶器のようにあまりにも澄んでいる。これは人間ではないと、私はわかった。


 それからの毎日を、私は桜の精と過ごした。

 桜の精は無邪気だった。些細なことできゃあきゃあとはしゃいだ。お弁当にたまご焼きが多くは言っていただとかあの雲はコロッケに似ているだとか。私のことを色々と知りたがった。名前は? 歳は? 何がすき? 私はそのたび、曖昧な返事をした。

 桜の精は、そうしているとただの子供みたいに見えた。でも時おり、瞳にしいんとした光を見せた。それは風のない湖のように、穏やかで、冷ややかだった。

 そういったときの桜の精に、私は話しかけることが出来なかった。もっと色んな話をしたかった。でも、桜の精のその大きさ、心の深さがちらりと覗いてしまうと、何だか拗ねたような気もちになってしまうのだった。


 私たちは遊んで暮らした。笛を吹き、書道をし、時には草のうえをふざけて駆けまわった。色々なものがきらきらして見えた。ずっと今がつづけばいいと思った。


 桜は次第に散っていった。叫ぶように狂い咲いていたそれはちらちらと減ってゆき、やがて地面のうえで茶色くなった。それにあわせるかのように、蝉の鳴き声はうるさくなっていった。

 桜の精は、だんだんと生気がなくなってゆくように思えた。着物は茶色に汚れていった。それでも桜の精は健気だった。つとめて明るく振舞った。

「どう、なの」

 意味の不明瞭なその言葉は、私の精一杯の心配だった。

 うーん、えっとね、と前置きをして桜の精は言う。楽し気に、元気よく。

「わりと、大丈夫。それに」

 そこで言葉を切った。黒い瞳はまっすぐと私を見据えていた。

「花は、散るものだよ」

 その言葉は私のなかに深く突き刺さり、音もたてずに沈んでいった。風がそよと吹いた。かあっとする暑さのなかで、それはすこしだけひんやりと感じられた。


 ある日私は、いつものように桜の精のもとを訪れた。太陽の光は弱まり、風は涼やかになっていた。

 ここは桜の木が支配する楽園だった。蝉の鳴き声がわんわんと響き、暑さで喉がからからになり、でもそれでも楽園だった。

 私は呆然と立ち尽くした。

 桜は、散りきっていた。

 今や桜のピンクはどこにも見当たらず、葉ばかりとなったその木は、ただ周りの緑色に埋もれていた。

「どこ?」

 叫んだつもりの私の声は、ざあっと吹く風にかき消された。

 私は不安に駆られ、もう一回、どこ、と叫ぶ。返ってくるのは、風の音と蝉の最期の鳴き声だけだった。

 泣きそうになって、桜の木を見あげる。桜の木は、ただ緑を繁らせていた。ただ、それだけだった。

 胸がぎゅっと苦しくなり、目にじんわりとしたものがのぼってきた。顔をくしゃりと歪めてしまう。

「そんなに泣いちゃ、だめだよ」

 呑気なそれは、桜の精の声だった。私はぱっとそちらを向いた。

 一瞬、緑に紛れてわからなかった。そこにはしかし、確かに桜の精がいた。桜色の着物ではなく、鮮やかな緑色の着物を着ていた。

「泣き虫だなあ、たんぽぽは」

 にこにこと笑いながら、こちらに来る。私は信じられない気もちで、桜の精を眺めていた。

「だって、だって、いなくなっちゃったと思ったから……」

「まだまだ、いなくはなれないよ」

 目を細めて、どこか切なそうに桜の精は笑う。

「咲き誇って、散って、葉をつけて、それも散って……もっともっと、繰り返さなきゃ。このままじゃ、終われないよ。もっともっと……」

 言葉を聞き、喜びに満ちていたはずの瞳はひんやりとしていった。桜の精は、静かな瞳をしていた。私の苦手な、あの瞳。私はそれを見て、しゅんとなってしまった。

 知らなかった。桜は何回も生まれ変わることができるんだ。一回限りの花じゃない。何回でも、何回でも。

 でも、私は違う。そのことが無性に腹立たしくて、悲しくて、悔しかった。

「君もそろそろ行くときじゃない?」

 桜の精は優しく、しかし毅然と言った。

「もうすぐ、秋になるよ。秋のあとは寒いよ。きっとそれは、つらいよ」

「だって私は違うもの」

 私は小さな声で言った。

「私はあなたみたいに、つよくないもの。もっと弱くて、どうしようもなくて」

「君は弱くなんかないよ」

 桜の精は、きっぱりと言い切った。

「君はどこまでだって、飛べるじゃないか。私はどこにも行けないよ。でも君は行けるじゃないか」

 そう言うと、桜の精は俯いてしまった。風がひゅうひゅう通り抜け、涼しかった。

「……私は君が、羨ましいよ」

 桜の精は、ぽつりと呟いた。

 信じられない気もちだった。桜が私を、一年限りの蒲公英たんぽぽを羨むなんて。

「きっと飛んでね、どこまでも。私は時期を間違えてしまったけれど、もうだめだけれど、君は違う」

 桜の精の声は、あの無邪気なものでも穏やかなものでもなく、ただただ、か弱かった。

 桜の精は顔をあげた。

「だから行かなきゃだめだよ」

 私は悲しいようなせつないような、ぐっちゃぐちゃの思いを胸に詰めて、それでもどうにか、頷いた。


 ひゅうひゅうと、風が鳴る。

 ひとつの蒲公英の種が、ふわりふわりと宙に舞っていった。その出発を、活気ある緑をつけた桜が見送っていた。

 たんぽぽは迷うように揺れたあと、ふうっと空にあがっていった。空は高く遠く、透き通っていた。






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夏の桜と、たんぽぽ 柳なつき @natsuki0710

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