人生の半分は死にたい気持ち

@beruko0119

死ねない

私は、生まれてきたことに幾度となく後悔してきた。タオルで自分の首を絞め、線路の上に立ち、高所から身を投げ出す。そして包丁で自分の胸を刺す。

どれも失敗に終わってきた。

私は幾度と死にたいと願うのに今も尚死ねずにいるのです。


私が初めて死にたいと思ったことはとても些細なことでした。

小学4年生の頃。3つ歳の離れた妹と喧嘩をし死にたいと思ったのです。

当時を思い返してもなぜ死にたいと思ったのかは鮮明ではありませんでしたが、私は確かに死にたいと思ったのです。


初めて私は男の子に手紙を書きました。実際はクラスのみんなに手紙を書いていたのですが、その子にだけは特別な内容でした。

足が早くてサッカーが上手な男の子。運動会で足の遅い私に、どうやったら早く走れるか、どうやったらうまくバトンをもらえるかと教えてくれた子でした。

その子は男2人女1人の三つ子で、3人ともサッカークラブに所属し、スポーツは卒なくこなしていましたから小学生の中では憧れられる3人でした。3人に同じ内容を書いたのを覚えています。必死になって本を見ながら絵を描き、その裏にメッセージを書いて渡していたのですがその内容をクラスのみんなに言いふらされてしまったのです。そこで私は、人生で初めて屈辱的だと思ったのです。

足が早くてサッカーが上手。たったそれだけの理由でしたが、小学生が誰かに対して恋を寄せることはそれほど難しくはなかったはずです。

クラスで、一番頭のいい子が百点をとっただけで頭が良くてカッコいいと思えていた当時ですから、深く考えることなどありませんでした。

自分の好意をクラスのみんなに言いふらされてしまった時、私は机しか見れずただ恥ずかしくて死にたいと思いました。


そして、それから暫く、私は学校生活において一番問題視されるいじめの標的に合いました。

私の学校は当時生徒数が少なく、当時4年生の私たちのクラスは5年生と合同でミーティングを行ったり行事をこなしたりしていました。一つ学年が違うだけでしたがそこには確かに上下関係がありました。大人の方々は、子供たちを見てその中に上下関係がすでにあるということを忘れていらっしゃるかもしれませんが、歳をとり、幼い時の出来事が薄れてしまっているだけであり確実に誰もが経験していることです。

ある日です。5年生のKちゃんが昼休に教室から男子生徒を追い出し、机を片付け教室内に広い空間を作りミュージカルの練習を始めたことがありました。

その子は、父親がカメラマンで芸能界に流通していたようで、朝のドラマでも子役として少し出ていた事がありました。テレビに出たことがある。というだけで確実に彼女は私よりも立場は上にありました。

私は、その女の子に男子が入ってこないように見張っててと言われドアの前に立たされたことがありました。私にとってはそれが初めての先輩からの指示でした。そして私はそれに少し嬉しいと思っていたのです。宝塚が好きだったこともあり、彼女が持ってきたCDの音楽が流れるだけでその世界観に浸れていたので特になにも思っていなかったのです。

ですが、ある時クラスを見渡してふと思ったのです。同学年の他の子は一度もドアの前に立っていないこと。むしろ、離れた窓側にもたれかかりただジッと外を眺めていたり、興味なさげにクラスを出て行っては戻ってきてを繰り返す子たちを見て、私のできないことをやってのけていた時に格差を感じたのです。

正確には私がそれらをしなかっただけなのですが、私はしては行けないのだと自己暗示し勝手にそれらを気にせずにいた彼女たちを羨ましがっていただけでしたが、なんで私だけ。と死にたくなったのです。

事実、ミュージカルをしていた女の子は私にばかり命令していたのでそれも致し方ないと思いますが、少しでも反抗できたらよかったのにと今でも後悔します。


次に死にたいと思ったのは、私自身の誕生日の日。

これも幼い時でしたが、私は皮肉にも誕生日の日に死にたいと思いました。

私の誕生日と妹の誕生日はほんの数日しか変わらないのですが、妹の誕生日には母が休みで私の誕生日は母が仕事だったから。そんな理由です。母は医療関係の仕事をしていて簡単に休むことができなかったのです。希望休を出していても休めないことも多々ありますから、それは私自身よく理解していました。

母は誕生日は休もうとしてくれていたことも知ってたので、誕生日が仕事でも私は平気だったのですが、その年は私は我慢ができなかったのです。どうしても家族みんなに祝って欲しかったのです。死にたいと思いました。

その時の感情は今でもよく覚えています。

勉強机の下にマジックペンでなんで私の誕生日は祝われないのか、どうして妹の誕生日は休みで私の時は休んでくれないのか。生まれてこなければよかったのに。

文にしてみると、どうしようもない事で死にたがっていたんだなと思うのですが私は幾度となくこの日のことを思い返しては虚しくなり胸が痛むのです。

それはこの文を書いている今もです。

その日は私にとって何か大切な日だったのかもしれない。

泣いても母は夜勤で帰ってこず、行き場のない感情をただただ勉強机に書いていたのです。私はそれを母に知って欲しくてわざと、マジックで書いたのだと思います。

夏の間にその勉強机を処分したのですが、母は笑って闇が詰まってたなーと。私も笑いながらほんとだねーと言っていました。

死にたかった記憶は笑い話になっていました。


私は小学5年生になり、一つ下の4年生と合同になりました。

総合の時間に私は4年生の男の子に消しゴムを投げられ、死にたいと思いました。

この当時から、私は少しずつ死というものを理解し始めます。

家に帰り、テレビを見ると刑事物のドラマが放送されていました。

そのシーンを今でもはっきりと覚えています。

女性が灰色のつなぎを着て、髪を一つに括り狭い牢屋でタオルを使い自分の首を絞めている場面んです。

私はそれを真似て見ました。

タオルで首を精一杯締めてみましたが、タオルの隙間に首の皮が挟まりヒリヒリとする痛みが走り、次第に息がしにくくなり口が開きベロが空気を求めるように突き出てきます。結局力が足りず死ぬことはできませんでしたが、私は死に対して少しだけ恐怖を感じました。


小学校生活で一番記憶に残っている出来事があります。

同い年のHちゃんは、仲が良く、一緒にソフトボールのクラブにも入っていましたしお互いの家に遊びに行くこともしばしば。

昼休みの時間、私は彼女にちょっときてと呼ばれ、校庭で遊んでいたのですがクラスに行ってみました。

当時はたまごっちがとても流行っており、みんなこっそりとランドセルに入れて持ってきていました。Hちゃんは私に「これあげる」と差し出した本がありました。それは本というにはあまりにも不恰好な、手作りのたまごっち図鑑のようなものでした。嬉しくて、いいの?と受取りました。「これも」そういってくれたのはたまごっちの下敷きでした。やっぱり嬉しくて、ありがとうと受け取ったのですがこれが間違いだったのです。

帰りの時間になり、

ランドセルに荷物を入れ、先生とのお別れの挨拶をした時です。

「Aちゃんの所持品がなくなりました。知っている人がいたらてをあげてください」という担任に、心なしか胸騒ぎがしたように思います。

誰もとっていないようで、荷物検査をすることになりました。

1人ずつ荷物検査をしていたので、1人がしている間はみんながその光景を凝視しており私もその1人でした。

Hちゃんの番になった時、Hちゃんは泣き初めてしまい彼女の筆箱からチャームがついたシャーペンが出て来ました。どうやら、Aちゃんのシャーペンを取ってしまったようでした。私はそれで終わりだと思ったのですが、他にも無くなったものがあるようで荷物検査は続きました。私の番になった時、もちろん、

取ったものなどありませんから堂々と荷物を机に並べました。

「わたしの!」Aちゃんが席まで見にきていたようで下敷きと手描きの図鑑を見て言ったのです。

私とHちゃんはお別れの挨拶が終わった後、2人で先生に話すことになったのですが、Hちゃんはただ泣きじゃくるばかりで「なんで取ったのか」という担任の質問になにも答えてはくれませんでした。

私はHちゃんから2つをもらったこと、Aちゃんのものだと知らなかったことを言いました。1時間ほど、そんな話を繰り返し親に連絡することになり、後日Hちゃんのお母さんが家まで来て「すみませんでした」と謝ったのですが、私は許せませんでした。仲のいい、Hちゃんから謝ってもらいたかったので当たり前でした。暫く彼女は学校を休んだ後、何事もなかったかのように話しかけてきた時に私は、友達に裏ぎられた感情と誰かを信じることが怖いということを学び、Hちゃんを信じないと決めました。それからHちゃんとは中学校まで一緒だったのですが、会えば軽く話それ以上を自分からは求めませんでしたが、彼女は家が近かったこともあり、帰りに雨が降ると迎えを呼んでいた私にあやかって一緒に連れて帰ってと言ってくることがありました。特になんとも思っておらず、親がいいよと言ってくれればそうしたのですがそうでなければ断っていました。

親が迎えに来れず、困っていた時にHちゃんは迎えが来るようで乗せて行ってくれないかと頼んだことがあるのですが「無理だ」と断られることがほとんどで、彼女の親御さんが私に気がつくと途中まで乗っていくか聞いてくれていました。

私はそこで利用されていたのだと気がつき、彼女を送ることはそれ以降なくなりました。今では、親同士にも何かあったようで家族そろってHちゃん家が嫌いでいます。

人は簡単に信じてはならない。いつか裏切られるのだから。そんなことを学びました。


母と大喧嘩をした日。当時私は中学生でした。

母はお酒を飲むと感情の起伏が激しくなる人ではありましたが大概はニコニコと笑いながら酔っ払っていることが殆どです。

ですがその日は酔っ払っている母に、些細なことで喧嘩をしたのです。

内容はきっとテレビ番組の感想で意見が合わなかったとか、記憶のすれ違いとか。大した内容ではないのです。

その時、私は初めて母から平手打ちを喰らいました。

お互い泣きながら言い合いをしました。

「お母さんなんか出ていけばいい」「あんたが出て行け」そんな言い合いをし、取っ組み合いになり、母は家を出て行きました。

1時間もしないうちに母は帰ってきて、お互い何も言わずにただ布団に潜り込みました。ただただ悲しくて死にたいと思いました。私は優しい言葉と共感が欲しかったのです。

そうだね。そうかもね。そういう考えもあったね。何でもいいから理解して欲しかったのです。

ただ悲しくて、胸がギュッと押しつぶされ息もままならない状態で、枕に顔を埋めこのまま窒息したらいいのにと考えましたが、私は眠りにつき、朝になればおはようっと言っているのです。

そうして私は学びました。酔っている人と正面からやり合ってはならないと。




そんな喧嘩を中学生の間はほぼ毎日繰り返していたのを思いだすと母に申し訳ない気持でいっぱいです。この後、もっと母に申し訳ないと思うのですが一度ここで謝らせてください。

ごめんなさい。



私にとって初めての彼氏ができます。

中学1年生です。一つ席を挟んんだ奥の男の子と給食中に目があって、口いっぱいに入っていたご飯が恥ずかしくて笑ってしまったのですが、彼はそれを可愛いと思ってくれたようで保育園の時に一緒だった女の子を伝って私に告白をしてくれたのです。

人生で初めての告白でしたから、それはもう嬉しかったです。

保育園の時に一緒だった女の子とダブルデートをすることになり、地元にある湖を4人でまわりました。私はそれがとても楽しかったのですが、その翌日に男の子とは別れることになりました。2週間ほどの短い彼氏でした。

ダブルデートが別れる原因になってしまったのです。女の子の彼氏が、私と同じ小学校でとても仲が良かったのです。お互いに恋心を持っていたこともありましたからそれはとても。ですから、お互いの話しやすい人が彼氏ではなくその男の子で、その男の子もまた彼女ではなく私だったのです。そこに恋心はありませんでした、お互いが話しやすい人を選んでしまったがために起きてしまった別れでした。

この時はまだ、死にたいなんて思わなかったのですが少しして元彼氏と女の子が付き合い始めて私は死にたいと思いました。

周りの話によれば、彼女たちは小学生の時から付き合って別れてを繰り返しているとか。それが何とも、嫌だったのです。

私は彼女に魅力を感じていなかったからでしょう。敗北感とただ一人取り残された感情がひどく傷んだのです。

初めての彼氏でしたが、今思えば好きではなかったと思います。

初めての告白と、初めての彼氏、初めてのデート、たくさんのことで胸がいっぱいだったのがポッカリと穴が開いてしまったのですから致し方ない感情でした。

死ぬ必要はありませんでした。



次に死にたいと思ったのは、中学校の宿泊研修です。

クラスごとにバスに乗り、登山をしたり班に分かれてご飯を作ったりしました。

その間に勉強の時間があり、2時間ほど班に分かれて座っていました。

トントンと背中を叩かれて振り向くとそこにいたのは保育園で一緒だった男の子でした。「なに」と聞くとその子は「お前C君が好きなんだろ」と聞かれたのです。私はその名前を初めて聞き「知らないよ」と答えたのですが「Kちゃん伝でラブレター送ってただろ」そう言われ慌てて「名前も顔も知らないのに手紙なんか送れない。それにKちゃんの住所知らないのに遅れるわけがない」そうきつく言いました。小学生のころ職場見学は他の学校と行くことが多かったのですが、その時に何回も他の学校の男の子から「〇〇ってだれ?」と声をかけられることがあったのです。自分の名前を勝手に使ってラブレターを書かれたことがとても嫌だったのです。利用されたことにムカつきました。

私は初めて誰かに対して憎い、怖い、そういった憎悪が沸々と湧き上がりました。ですが私はどうすることもできませんでした。

完全に彼女よりも私は劣っていましたから。なんで私だけがこんな目に合うのだろうかと、

悲劇のヒロインになり、死にたいと思いました。

登山の途中で彼女が前にいると背中を押したり、足を引っ掛けて転ばせたり、如何にかして痛い目にあって欲しいと思っていましたがそんな勇気はなく私は彼女が笑うと、死にたいと思うのと同時に殺してやりたいとも思いました。

それは中学を卒業するまで続きましたが、気にしないという力を得ました。

生きていくためのスキルを手に入れ死なずに殺さずに済みました。


22歳。私は人生で最大の親子喧嘩をします。

家族全員が泣いたのですから、我が家でいちばんの大喧嘩です。

これは母がお酒を嗜んでいた時です。少し前にお話ししましたが、母は酔うと気分の起伏が激しくなりますから、もちろん言い合いも盛大なものでした。

テレビを見ていて、悲しい場面がながれ「なんて不幸なんだ」とかお互いに感想を言い合っていました。この時も前回のようにお互いのいけんが合わずに喧嘩に発展しました。

「お酒をそんなに飲むから自分の言っていることも理解できないんだ」と言い合いをしている最中に私は確かにそう言いました。

母は「あんたたちのストレスで飲んでるんだ。行き場のない感情を酒で流してなにが悪いのか」とくしゃくしゃの顔で言われました。

「不満があるなら言えばいい」「酔っ払って言われるよりましだ」そんなふうに母を責め立てていた時に母が泣きながら「あなたたちが満足に学校に通えなかったのは全部私が悪いんだ」と話始めたのです。母は私が小学生に上がって離婚し、私と妹を必死に育ててきてくれましたが、私たち姉妹は周りの環境や友達との釣り合いにうまく馴染めず拗らせてきてしまったばかりに不登校になってしいました。私自身、周りの子とトラブルになり高校生活の記憶のほとんどを覚えておらず病院にも通ったほどですから、短にいる母は一番大変だったはずです。

目の前で泣きじゃくる母は産んでごめんね。お母さんのところに産んでごめんねと謝りはじめ、私はそれを見て胸が締め付けられてしまいました。

「なんでそんなことをいうの」そんなことを言われては、私が生まれたことが間違いみたいじゃないか。どうしてそんなふうにいうのか分からず、私はただそれを何回も母に問いただし、そんなことを言わないでと言うばかり。

「だけど、こんな風に育ててしまったのは私が悪いんだ」そう言った母に、働いている私を今でも心配してくれていると言う事実とともに虚しさで心臓が弾け飛びそうでした。

どうしようもなく涙が溢れ、同じことを繰り返して言う母にどうすることもできずにソファでくつろいでいたおばあちゃんと妹に抱きつきに行きました。

母が産まなければよかったと言ってきた。そんなこと言われたら、今ここにいる私と妹はどうなるのか。そんな話をしているうちに妹が泣き出し、お互いの服で涙を拭合いました。

しばらくして落ち着いた私は、もう一度母の元に行ったのですが母は未だに産まなければと話していました。ですから、無理やり母をお婆ちゃんのいるところまで連れていきました。そうすれば、少しは落ち着くだろうと思ったのです。

「私がちゃんとできていればこんなことにはならなかったのに」顔を赤らめて言うもんですから私自身も落ち着いた感情がまた湧き出して永遠と涙が溢れてくるのです。

終いには、私が生まれなければなんてことまで言うのです。腹の虫が煮えたぎって泣きながら母を説教しました。

そんなことを言ってしまったらお婆ちゃんがどう思うか。今こうして一緒に住んで幸せに暮らしていることが間違いみたいに言うな。お母さんが生まれてこなければ、私たちは生まれてきてない。私たちの存在を否定するな。

この日の少し前に私たちはお爺ちゃんを亡くしました。

その時に、母のお姉ちゃんたちと話すことがありました。お爺ちゃんが若い時にヤンチャしていて集落の人と浮気をしていた、だとか全く遊んでくれなかったとか、母の前にもう1人子供がいたけれどお爺ちゃんに言われ子を流産するしかなかったとか。そんな話を聞いていたものですから、母は自分じゃなくてもう1人の子が生まれてくるべきだったと言い出すのです。なにを言っているのかよくわかりませんでした。

その子が生まれてこなかった分の愛情を今お母さんはもらっているんだよ。その子の分まで生きるのがお母さんの役目でしょ。そうは言いましたが、母はとてもショックだったのです。

初めてこの話を聞いた時にも泣いていましたから。

お願いだから、私たちの存在を間違っていたみたいに言わないで。何度も泣きながらお願いをしていました。

しばらくして、お婆ちゃんが泣き始め、私たちを見ながら笑っていました。

きっと母はあまり覚えていないと思いますが、私たち家族の絆がこの喧嘩で深まったのです。

最後には、お腹が減り、なにが発端で喧嘩したのかさえ思い出せず笑って終わりました。狭い今でみんなで泣きながらいたあの空間がおかしくもあり悲しくもあり私はその日のことを思いだすと「いや〜いいこと言ったな」と自画自賛しながらも、切なくなるのです。


私は確かにこの日、死にたいと思ったのです

産まなければよかったと言われた時にじゃあ今から死ねばいいと思っていました。ですが、それは出来ませんでした。

今まで苦労をかけてきてしまったことに対して申し訳なく死ぬことすらも出来ないと思ったのと、母に生きていていいんだと言ってしまった以上死んではならなくなったからでした。


私は今とても死にたいと思っています。

ですがそれだけなのです。

死にたいと思うと同時に、行きたいとも思うのです。

私はこうして今までを生きて、これからもそうして生きていくつもりです。

生と死はいつも隣り合わせだと、誰かの言葉があるように。私は死にたいのです。

ですがそれが今でないことは分かっています。


私は今日も死にたいと思って生きています。




皆さんが、生きたいという心を死で終わらせることがないように祈っております。

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