赤札の棺

伏見七尾

第1話

 行きたくもないのに肝試しに行く。


 昼間でも薄暗いその森には、昔の兵達の霊が出るのだという。

 そんな場所に私は行った。

 夜の闇は墨のようで、月のあかりもおぼろげだった。

 そんな森で、私達は一人の男と出会う。


「おれはこの近くで暮らす人間だ」


 男はひょうきんな口調で言った。

 そうして男は、迷いつつある私達を案内しようと言いだした。

 仲間達は、鷹揚に男を受け入れた。

 どうやら男の言葉や振る舞いが、どこかおかしく感じられたらしい。先を行く男のことを、彼らはずっと陰で笑っていた。


 けれども、私はどうにも男を笑う気になれなかった。

 くたびれた男だった。

 疲れ切った男だった。

 痩せて、白髪が乱れていて、肌は日に焼け焦げていて。

 そうして、眼光だけが妙にぎらぎらと光っていた。

 何を見ているのかわからない。

 しかし、いやに爛々と光る目をしていたことを覚えていた。


 やがて、男は私達を白い洞窟に導いた。

 狭くて、天井が低いそこは、地元でも『出る』と話題なのだと男は語った。

 男に導かれて、仲間達は互いに脅かし合ったりしながら洞窟を進む。

 私は、どうにもその洞窟の構造が気になった。どう見てもそこは、かつて何かに使われた場所だった。朽ちた支え木に、壁にはノミで整えた後、おまけに地面には錆びた線路までもが敷かれている。


「ここはトンネルではないのか?」


 私の問いに、男は「むかし使われていたトンネルだ」と言った。


「何を運んだのだろう」

「なかなか見れるものじゃない」


 仲間達は騒ぎながら進む。

 こうなると、肝試しではなく観光ツアーのようだ。

 私達が客で、男がコンダクター。

 少しだけ拍子抜けした。恐怖が薄らぐ気がした。

 けれどもどうしても落ち着けないのは闇のせいか、男のせいか。

 曲がりくねった洞窟をいくらか進んだときだった。

 不意に、先を歩いていた仲間達が騒ぎ出した。


「あの人がいない」


 確かに、懐中電灯の明かりのなかのどこにも男の姿がなかった。


「どこではぐれたのかな」

「ずっとそこにいたのに」


 仲間達はやや落ち着きをなくして、あたりを探し始めた。

 ここで恐怖の蘇った私は線路のそばで、なるたけ明るそうな場所を探した。

 洞窟の壁には、一部だけ隙間があった。

 そこからはほんのりと白い月の光が差し込み、明るい。私はできるだけその方に寄りながら、月の光の中に男の姿を探した。

 その時、私は嫌な震動と悲鳴を感じた。

 トンネルの向こうから、強烈な光が迫ってくるのが見えた。

 巨大な鉄の塊が、高速で現われた。

 そうして狭い線路を駆けて、それは仲間達のうちの何人かをはね飛ばした。

 人間が赤い煙になった。

 そうして巨大な鉄の塊は、通り過ぎていった。

 なんだったのかはわからない。

 多分、古い電車の車両のような気がした。

 正体もわからないそれは、私達を狂気に陥らせるのに十分だった。

 仲間達は蜘蛛の子が散るように方々に駆け出して、私一人が暗い洞窟に残された。


 泣いた。動けなくなった。


 月の光と血の臭いの中で、私はひたすら何かに謝り続けた。

 けれども、私はそんな死の気配の中にいることが耐えられなくなった。

 助けを求めに行こう。

 仲間を探そう。

 こんなところから早く逃げよう。

 もう男のことなどどうでもよくなっていた。

 ぐちゃぐちゃの思考の中で、私は泣きながら洞窟を歩き出す。

 一刻も早く、こんな恐ろしい場所から逃げ出したかった。けれども洞窟は奇妙に入り組んでいて、まるで迷宮のようだった。

 さっきは、男が先導してくれた。

 けれども今は男がいない。

 私は一人きりで、巨大な蛇の巣のような洞窟をさまよった。

 線路には近づきたくもなかった。

 でも、線路を辿るほかない。

 またあの殺人機械が現われるかもしれないが、道標はそれしかなかった。


「ああいやだ」と嘆いた。

「ごめんなさい」と謝った。

「なんでこんなことになったのか」と呪い続けた。


 そうしているうちに、私は洞窟を出た。

 森の中だった。

 見知らぬ場所だった。

 人の気配はない。

 入った場所とは違うところから出てしまったのだ。

 私は泣きじゃくりながら、枯葉を踏んで進み出す。

 そのうちに、建物を見つけた。

 トタン屋根に、ブロック塀を合わせたような、古くて粗末な建物だ。

 どう見ても、資材置き場にしか見えなかった。

 私は、森の中で急に現われた人工物の存在におおいに喜んだ。

 人工のものがあるということは、この近くに人の住処があるかもしれない。

 私は建物に近づき、そうして中を覗き込んだ。


「なんだよこれ。ふざけんなよ」


 臆病な私は泣きながら怒り出す。

 それは、資材置き場ではなかった。

 ――確かに、なにかを置く場所ではあったけれど。

 入り口に近い方だ。

 枯葉に埋もれるようにして、奇妙な形の容器が無数に積んである。

 くすんだ青銅色のそれは、成人男性一人分くらいの大きさがあった。

 そうして、まさしく人の形を象っている。

 それはこの地域で用いられる棺桶だと私は知っていた。

 それも、ただの棺桶ではない。

 これはある特殊な職業の、それも特殊な境遇のものたちが納められる棺桶だ。


 兵隊の棺桶だ。

 それも、戦う事のできなかった者を納める棺桶だ。

 

 この地域では何かの理由で戦えなかった者を、こういう棺桶に収める。

 そうして、やはり人型をした白い札を着けて埋めるのだ。

 白い札の意味は知らない。ただ、この札がなにか重要な意味を持つらしい。兵隊に限らず、どんな死者もこの白い札を着けて弔う。


 さらに建物の奥には、焼却炉のようなものが見えた。


 土葬なのか火葬なのか。

 ともかくここは、臆病な人間が夜にいるべき場所ではないことは確かだった。

 私は恐怖にまた泣きながら、建物を離れた。

 

 夜の闇は深くて、冷たかった。

 森には人どころか、獣の気配さえない。

 私はともかく安全な場所を探し、泣きじゃくりながら森を歩いた。

 森には、嫌なものがたくさんあった。

 朽ちた棺桶が転がっているのを見た。

 苔むした地蔵が無数に並んでいるのを見た。

 その地蔵の首に、赤い札がたくさん鈴なりにぶら下がっているのを見た。

 やがて私は、物音を聞く。


 ザクッ、ザクッ、と単調な音。枯葉と土とが鳴る音。


 はじめは足音かと思った。

 鹿か、熊か、人間か。けれども、どうも違うような気がした。

 嫌な予感がした。

 それでも、歩けば歩くほどに私は異音に近づいていく。

 やがて、私は少し開けた場所に出た。


 雲に乱されながら、白い月光が一面に注いでいる。

 墓場だった。

 打ち捨てられた墓場だった。

 墓碑銘もわからない墓石がごろごろと転がっている。

 あの、兵隊の形をした棺桶が中途半端に地面から顔を出している。

 正確な数も、広さも、わからない。

 ただ、おびただしいほどの墓がそこにあるのは確かだった。

 そうしてそこに、あの男がいた。

 男が機械的に、錆びたシャベルを地面に振るっている。


 ザクッ、ザクッ。


 そうしてしばらくするとしゃがみ込むと、露出した棺桶になにかをする。

 恐ろしかった。

 恐ろしくてたまらなかった。

 けれどもそれ以上に、私は急に男のことが気になりだした。

 棺桶を見る男の目は、先ほどよりもいっそう爛々と光っている。

 そして、無表情だった。

 けれども、私には何故かそれが泣きそうな顔をしているように見えた。


「なにをしているのか」


 私は聞いた。

 男はさして驚いた様子も見せず、そうして振り返りもせず、答えた。


「徴兵だ」


 意味がわからなかった。

 男が狂っているのは確かだった。

 それでも私は逃げ出しそうになる足を押さえ、震えながら聞いた。


「徴兵とはどういうことか」

「見てのとおりだ。兵を徴集しているのだ」


 言いながら男はシャベルを地面について、あたりを示した。


「ここの下にいるのは、皆おれの同胞だ。まだまだおれ達は戦えた。戦いたかった。なのに国は勝手に降伏した。おれ達は傷つくだけ傷ついて、戦えなくなった。これほど情けないことがあるだろうか。だから徴兵するのだ」

「意味がわからない。皆、死んでいるだろう。徴兵などできるはずもない。だいたいできたとして、何と戦うのか」

「地獄だ。地獄で、敵と戦うのだ」


 男は、足元を示した。

 黒い土の上に、あの青銅色の人型をした棺桶が横たわっている。

 そしてその胸元に、赤い札がついているのが見えた。

 私は困惑した。この地域で棺桶につけるのは、白い札だったはずだ。

 何故、赤いのか。


「赤い札を着けたら、地獄で戦えるのだ」


 そう言って、男は笑った。

 黄ばんだ歯を剥き出し、心底おかしそうに、嬉しそうに。


「地獄で、敵を殺すのだ。殺して、殺して、殺すのだ。殺された分だけ、殺すのだ。おれ達は戦えなくなったから……」


 笑いながら、男は手をぐるりと振ってみせた。

 私に、周囲の墓を示したのだ。

 見渡す限り、男の周囲の墓からは棺桶が露出している。

 そうしてどれも、赤い札がついている。

 たぶん、男が白から赤に付け替えたのだ。

 戦争を続けるために、この狂った男は死人を徴集しているのだ。


 赤、赤、赤、赤。

 あか、あか、あか、あか。


 おびただしい数の、血のような色をした札が、風に揺れている。

 それを見ているうちに、私は泣きそうになってきた。

 恐怖ではなかった。

 何故だか私は、急に悲しくてたまらなくなった。


「もう十分だろう」と泣いた。


「戦争は終わった。誰も戦争を望んでいない。戦う理由もないのに、地獄で一体なんのために戦うのか」

「おれ達は望んでいる」

「それは貴方の望みだ。死人の感情などわかるはずもない」

「皆、望んでいるはずだ。戦いを望んだまま、悔しく情けなく死んでいったはずだ」

「貴方の考えだ。それは生きている貴方の考えだ」


 男は、何も言わなかった。

 私は首を振った。


「死者に、これ以上の苦しみを与えるつもりなのか。現世で苦しんだ人々に、彼の世でも苦しみを与えるつもりなのか」


 男は、何も言わなかった。

 ただもう黙って、再びシャベルを振るいだした。

 男の表情は見えなかった。

 もう私には、何を言っても無駄だと思ったのか。

 それとも、何も言えなかったのか。

 私は、どうにも悲しくてならなかった。

 死者の感情などわかりようもない。

 けれども地獄で無意味に戦い続けることは、私にとってどうしようもなく悲惨なことに思えてならなかった。

  本当の、本当の、本当に。

 この冷たい土の下で眠る人々は、戦いたいのだろうか。

 男の言うとおり、殺された分だけ殺したいと思っているのだろうか。

 

 なんのために?

 理由もないのに?

 人は死んだ後も、誰かを殺したいと願うのか?


 悲しいと思った。そんなに惨いことがあるのだろうかと思った。

 赤札を着ける男も、この墓場の人々も、全てが悲しくてならなかった。

 私は一体どうすれば良いのか。

 どれだけ考えても、ろくな答えがでなかった。

 私にできるのは、ただ祈ることだけだった。


 宗派も違うかもしれない。

 そもそもここにいる誰もが、神仏など信じていないかもしれない。

 実際、私だって神仏など信じていない。

 けれども今ここで私にできる事は、もはやほか祈る他になかった。


 空を仰ぐ。

 真上の月が、静かに見下ろしてくる。

 白い月明かりを浴び、私は涙をこぼしながら口を開いた。

 たいそうな祈りの言葉を知らない。

 私が知っている言葉など限られている。

 悔しいとおもった。中途半端に本を読んでいるだけで、私はこんな時に何をするべきか、どの言葉を口にするべきもろくに知らないのだ。

 それでも全身の哀しみを込めるようにして、私は念仏を一つ口にした。


「南無阿弥陀仏」


 弾かれたように、男が振り返った。

 光る瞳を現界まで見開いて、男は雷に打たれたようにぶるぶると震えていた。

 シャベルを握りしめた手の関節が、白くなっていた。


「やめてくれ」


 震えながら、男はかすれた声で言う。

 恐ろしげな様相だった。それでも不思議と恐れはなく、私は再度念仏を口にする。


「南無阿弥陀仏」

「やめろ」


 男が言う。


「終わってしまう。終わってしまうぞ。終わってしまうんだ」


 男がうわごとのように言った。

 なにが終わるのかも、知らない。

 けれども男が言うなにかは、終わらせた方が良いだろうと私はぼんやりと思った。

 私は口を開く。

 男がシャベルを握りしめ、大股で歩み寄ってくる。

 男は、確かに凶器となりえるものを握りしめている。

 なのに、今では男の方が怯えているように見えた。


「やめろ! やめろ!」


 男が怒鳴って、錆びたシャベルを振り上げる。

 赤茶けた刃から、湿った土塊がばらばらと地面に落ちる

 唸りを上げるそれを見て、あれで殴られたらさぞかし痛いだろうと思う。

 でも不思議と、恐れはなかった。

 怯えていた。

 恐ろしかった。

 いまでも心のどこかに恐怖がある。

 けれどもそれ以上に、悲しかった。

 男も、ここに眠る死者達も、悲しくてならなかった。

 彼らのためにできることが、これしか想像できなかった。


「やめてくれ」


 シャベルの唸りの中に、男の声が微かに聞こえた。

 かすれた声だった。

 そして私は、男の目を見た。

 痛さに泣きそうになりながら、私は三度目の念仏を口にする。


「南無阿弥陀仏」


 静寂。

 気付けば、寂しい墓場には私だけが立っていた。

 冷えた月明かりの下に、男の姿はどこにもなかった。

 目の前には、錆びたシャベルが落ちている。

 男は、どこに行ったのか。

 泣きはらした目であたりを見回した私は、露出した棺桶に違和感を感じる。

 札が、ない。

 白い札も、赤い札も――ない。

 青銅色の、無機質な人型だけが、身の内に死人を抱いて横たわっている。

 あれは、恐怖のもたらした夢だったのか。

 それとも、幻だったのか。

 夢か現かもわからない。

 ただ、なにかが終わったことだけはわかった。

 なにか無意味で、惨くて、そうして物悲しいなにかがここに終わった。

 でも、それが正しいことか私にはわからない。


 ――「やめてくれ」


 懇願するような男の声を思い出す。

 そうして、最後に見た男のまなざしを思い出す。

 ぎらぎらとしていた。燃えるような色をしていた。

 悲惨だった。

 彼の眼そのものが、地獄を映しているようだった。

 けれども刹那、それが奇妙な色に変わったのを私は見た。

 恐怖、諦観、疲労、安堵――全てが、そこにあったような気がした。

 それ自体が、私の幻だったのかもしれない。


 ――「やめてくれ」


 正しかったのか。

 間違っているのか。


 男は死人は戦いたがっていると考えた。

 私はそれが悲惨だと考えた。


 男は続けようとした。

 私は終わらせた。


 正しかったのか。

 間違っているのか。


「わからない」


 あの時の私は死人を救いたいと思ったのではなく、ただただ悲しかった。

 ただ自分が悲しかったから、念仏を口にした。――それだけだった。

 死人が何を思っているのかなど、生者にはわかりようもない。


 これが正しかったのかどうか、きっと私には永遠にわからないのだ。


 月の下で、私は息をする。

 そうして自分が墓場にいることを思いだした。

 途端、急激に恐怖を思いだした。仲間が血煙と化したことを思い出した。


 私は、踵を返した。


「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏……」


 一心に念仏を繰り返しながら、私は墓場を後にした。

 それからはすんなりと。

 私は、元来た道に戻った。

 憔悴した仲間達と、出会った。

 誰も死んでいなかった。

 あの場の全員が、誰かが轢かれたと思っていた。

 そうして、あの洞窟は一本道だった。

 迷うはずもない場所で、私達は迷っていた。

 そのうえ、線路はなかった。

 地元の人間曰く、確かにあそこには昔線路があったという。

 それは戦中、秘密裏に資材を運ぶために用いたものらしい。そして、もう何十年も前に剥がされたという話だった。


 そうして私が見つけた棺桶置き場も、赤札を着けた地蔵も。

 ――あの寂しい墓場も、どこにもなかった。

 昼間、何度あの道を辿ってみても、私はあの場所に行き着けなかった。


 夢だったのか。

 幻だったのか。


 墓を掘る音。朽ちた墓石。人の形をした棺桶。

 地獄みたいな目をした男の目。

 錆びたシャベルの唸る音。

 白い月光、黒い墓土、そうしておびただしい数の赤い札。


 ――「やめてくれ」


 男の囁きは今でもはっきりと、私の脳裏でこだましている。

 あの狂った悲しい男は何処に消えたのか。


 夢か、現か。

 極楽か、地獄か。


 私には、知る術もない。

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