第6話
自宅に面した路地を入った瞬間、細い叫びがガラスを通して車内に侵入してきた。
喘鳴のような必死の息遣いが、家に近付くにつれて明瞭になっていく。
「……早く、帰らないと」
目と鼻の先の道程を、戦地の行軍のごとく神経を張り巡らせて進む。
やっとの思いで家に着くと、がむしゃらに庭へ車を突っ込んだ。
外へ出る。うなじに直撃した
さわ、と背後の庭木が揺れた。
子供の身長ほどの塀の内側には、庭木とプランターが
「紐……?」
突如、細い叫びが響く。樹木がごそりと大きく揺れ動いた。
身を縮める。揺れた方に目を凝らすと、上方の梢から紐のような直線がぶら下がっていた。その線は塀の外へと続いている。
結衣子は路地へと駆け出した。闇に塗れた塀に、ほんの僅か色の違う黒い物体がぶら下がっている。
「虎吉!」
ひい、ひいと声にならない喉音をあげていた彼を持ち上げる。虎吉は枝に絡まったリードに宙づりになっていた。
結衣子は僅かに体温を保っている身体を抱きかかえて、家の中へと転がり込んだ。
電気を点ける気も回らず、とにかく虎吉をソファに下ろす。ぐったりと横たえられた彼は、浅い息を繰り返して動けないでいた。
結衣子は震える脚を、震える手で何度も叩いた。
覚束ない足取りで子供部屋へ行く。
開け放ったドアの向こうは、蛍光灯で隅々まで照らされているが、そのどこに視線を行き渡らせても息子の姿はなかった。
廊下にへばりこんだ結衣子は、無意識に暗い居間の方へと身体を這いずらせた。
件の編みぐるみが、出掛けるときのまま散らばっている。
上着のポケットに入れていたスマホが鳴り響いた。抓んで床に落としたその画面には、「K病院」と表示されていた。
――夫のところへ行かなければ。
――虎吉を介抱しないと。
――息子はどこへ。
「落ち着かないと……」
無理やり深呼吸をすればするほど、余計な記憶が走馬灯となって甦る。
――私は半端者だ。
佐和との約束を覚えていた上で、のうのうと結婚をした。妹に実家の厄介事を全て押し付けて、好きな場所に好きな人と逃げてきた。
――佐和も妹も気にしてはいない。
そう、彼女たちは優しい。けれど心ではどう思っているか分からない。両親も結婚式では祝福してくれていたが、今やほとんど連絡を取ることがない。
――結婚なんてしなければ良かった。
そうかもしれない。夫も子供も、自分が母親で本当に幸せなのか分からない。彼らの母親は、皆苦しんでいる今、こうして一歩も動けないで蹲っているような人間なのだから。
手芸教室での言葉が脳裏に再生される。そう、今が頑張りどきで、家を出た自分の選択が正しかったと証明するときなのだ。結婚しない選択肢? 当然そういう形もあるべきだ。そんなこと分かりきっている。あなたたちは正しい。合理的だ。正論には何も言い返せない。
「……でも苦しい」
結衣子は呟いて、おもむろに顔を上げる。居間の隅に、編みかけのマフラーの入ったバスケットが置いてある。
四つん這いでじりじりと近付いていく。
完成間近のマフラーを手に取る。縄編み模様のそれを凝視するうちに、つい先刻の虎吉の光景がよみがえった。
棒針を抜く。柔らかい羊毛のそれを幾度も捩り尽くすと、注連縄のように硬い物体と化す。
立ち上がる。脚の震えはいつしか止まっていた。
部屋中を見渡す。何を探しているか分からないまま、結衣子の目はドアノブを捉えた。
「終わらせないと」
ドアの前で中腰になる。手に持っていたマフラーを輪のように繋ぎ、さらに捩る。
一方をノブにかけた、まさにそのときだった。どん、と木板の向こう側から叩く者があった。
「結衣子!」
蹲る結衣子の身体ごと開け放たれたドアの向こうには、佐和の姿があった。
彼女は結衣子を見るや、手からマフラーひったくり、遠くへ投げ捨てる。
「何があったの……ほら、心配してるよ」
佐和の目線の先――子供部屋への廊下に、息子が立ってこちらを見ていた。「おかあさん」と口だけを動かし、心配そうに眉根を寄せる。
結衣子は二人の顔を何度も往復して見比べた。息子が走って電気を点けに行く。佐和に身体を抱きとめられると、結衣子はようやく我に返りはじめた。
一週間が経った。結衣子は夫の退院を手伝うために病院へ行っていた。
「辛い思いをさせてしまったね」
あの後、結衣子は夫に全てを話した。件が不吉に壊れたこと、手芸教室でのこと、夜道での張さんの言動――。断片的でおぼろげな結衣子の拙い話を静かに聞いていた夫は、話が終わると口を開いた。
「それは縊鬼かもしれない」
「いつき……」
「そうだ。首を括って亡くなった人の霊で、生者を同じような目に遭わそうとする。日本では幕末頃の記録があるようだが、おそらく中国が発祥だろうな。中国ではいきと読んで、縊死で亡くなって地獄へ落ちた者が、代わりの人間を探すというんだ。とにかく共通するのは、憑かれた人間が、理由なく縊死を図ろうとすることだね」
「理由なく……」
「うん。話を聞いた限り、君は直接危害を加えられてはいない。けれど精神的なプレッシャーをかけ続けられている。それこそ自らの意思で命を絶たせるよう、誘導するように」
結衣子は張さんに会った日から今までのことを思い出す。
「……最初から――君が編みぐるみを買ってきた日から、おかしいとは思っていたんだ。件、つまり牛と、寅の編みぐるみ。艮は鬼門の方角だ」
「鬼門……鬼が出る方角」
「そう、僕はあの二つの編みぐるみの組み合わせに、嫌なものを感じたんだ。でも牛と寅の編みぐるみがあったからって、そこから鬼が噴き出してくるとは思わないよ。むしろ、彼らはそういうヒントのようなものを故意に与えていた、と僕は考えてるんだ。直接手を下さず、あくまでも本人の意思を誘導して死へ向かわせる。惨い話だが、彼らなりのルールに則っていることは確かだろう」
夫の話を聞きながら、結衣子は自分が「縊鬼」という突拍子もない存在を信じ始めていることに気付いた。そう、確かに結衣子は、彼らに対し一方的に不安や疑問を持ち続けてきた。一つひとつ編みぐるみを陳列していて、顔がない未完成品に気付かないだろうか。室内で生徒全員がマフラーを取らないだろうか。張さんはあの夜、どこから歩いてきたのだろうか。
あの夜、息子は庭の物音が気になって部屋を出たのだと言う。人の足音を感じ取った息子は、虎吉を呼び寄せて身を守ろうとした。しかし、膨らんでいた毛布の中身が空だったことで怖くなり、トイレに籠っていたらしい。
その後、佐和に息子を任せて病院へ行くと、夫は健康そうな顔色でベッドに座っていた。一時体調が急変したのだが、結衣子が病院へ到着する前に、急に回復したという。
また翌日になると息子もけろりと平熱に戻り、念のため動物病院へ連れて行った虎吉も、怪我無く無事だった。
そして手芸教室だ。土曜日に恐る恐る行ってみると、教室は
「彼らは仲間であり仲間じゃない。同じ目的を有しているために共に行動してはいるが、結局は個々の戦いというわけだね」
――仲間であり仲間じゃない。
夫の言葉を聞きながら、結衣子は娘さんにマフラーについて尋ねたとき、生徒たちが笑いを噛み殺していたのを思い出した。
「君は精一杯頑張っている。全ては縊鬼の仕業だ。そして君は彼らに勝ったんだ」
結衣子の両肩に手を添えながら、夫は珍しく強い語気でそう言う。中途半端に慰められるより、縊鬼のせいだと言い切ってくれて良かった、と結衣子は思う。このひと月の出来事を現実として処理することは、あまりに難しい。
当然のごとく、張さんはフリーマーケットに姿を現さなくなった。佐和の話では、隣県のフリーマーケットに見慣れぬ老爺が出没したという情報が流れてきたらしい。また次なる標的を探しているのかもしれないが、もはや結衣子がどうこう出来る問題ではなかった。
穏やかな日常が戻った。編み物にも時折挑戦している。
しかし結衣子は、編みかけの毛糸を手に取るたびに、あの夜感じた死への衝動は、果たして本当に縊鬼の幻惑に過ぎなかったのだろうか、と自問してしまう。
編みぐるみ 小山雪哉 @yuki02
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