第5話

 夫から息子を迎えに来てほしいと連絡が入り、結衣子は病院に駆けつけた。

「咳が出るんで念のために画像を撮ったら、入院しなくちゃならないらしい」

 まるで他人事のように笑う夫に、結衣子はため息をついた。

 担当医から病状を聞き、入院の手続きを済ませる。夫を看護師に任せ、取り敢えず息子と二人で家に帰った。


 まだ微熱の続く息子を寝かせると、手早く入院の準備に取り掛かった。

 ――嫌なことって続くものね。

 思えばフリーマーケットで編みぐるみを買って以来、運気が悪い方へと向いている気がする。件は予言をして死ぬ――夫からそう聞いたせいか、虎吉によって無残な姿になった件、作ったばかりで糸の切れた件が、何かの宣告を終えて力尽きたのでは、と突飛な想像をしてしまう。

 スポーツバッグに最低限の荷物を詰め終わると、結衣子は子供部屋を覗いた。息子は疲れたのかぐっすりと眠っている。今のうちに病院へ荷物を届け、数日分の買い出しをしておきたいが、あまり長時間家を空けておくわけにはいかない。

 さんざん考えた末、佐和に電話をすることにした。彼女に頼っては申し訳ないと思っていたが、もう結衣子には頼る人がいないのだ。

 何度も心の内で謝罪しながら掛けた電話は、しかし留守電に切り替わった。

 見放された、という言葉が過った。そしてすぐ、何かを振り払うように首を左右に振る。

「何が見放された、よ。佐和はちょうど忙しかっただけ」

 言葉に出して確認する。夫も子供も寝込んでいる今、焦燥をなんとか鎮めたかった。

 結衣子はタブレットを子供部屋に持っていく。息子は目が覚めたようで、枕元に置いてあったスポーツドリンクを飲んでいた。

「今からお父さんのところへ行って、買い物をして帰ろうと思うんだけれど……。しばらく留守になっても大丈夫?」

「うん。もう熱くないからだいじょうぶ」

 そう言って体温計を差し出す。依然として微熱は続いているが、朝と比べると僅かではあるが熱が下がっていた。

「出来るだけ早く帰ってくるからね」結衣子はタブレットを棚に立てかける。「ビデオ通話を繋ぎっぱなしにしておくから、何かあったらすぐに言ってね」

 子供を再び寝かせる。虎吉の寝床のブランケットが膨らんでいるのを確認すると、戸締りをして素早く車を出した。


 たった半日で、夫の体調は素人目にも分かるほど悪化していた。点滴で熱だけはある程度引いているようだが、顔は蒼ざめ、時折苦しそうに咳きこんでいる。胸の画像は注意が必要だが、血液検査の数値は正常らしい。原因がはっきりしないが、症状は軽い肺炎との診断だった。これ以上悪化することはない、と担当医に宥められたが、無理に笑顔を作る夫の顔を見ると痛ましかった。

「大丈夫だよ。もし本当に駄目なときは、すぐに連絡してもらうから」

 息子の元へ帰るよう優しく諭され、結衣子は病院を後にした。

 普段は頼りなげな夫だが、隣にいないだけで胸が締め付けられた。彼の柔らかく大らかな人柄が、真面目で堅苦しい自分を精神的に安定させてくれていたのだと、結衣子は思った。


 手早く買い物を済ませて、完全に日の落ちた帰路を走る。

 住宅街まで戻って来た頃には、みぞれがちらついていた。

 ぽつぽつと闇に浮かぶ街灯、その朧な明るみの中を垂直に降下する霙の欠片は、乾いたコンクリートに着地すると、冷たく黒い染みをつくる。

 獣の唸るようなエンジン音、無機質な指示器の音、肺に取り込んだ冷気は、白く生温かい吐息となり、フロントガラスを微かに曇らせていく。

 結衣子は刹那微睡まどろんで、目前の影にブレーキを踏み込んだ。

 真っ暗な視界に突如映り込んだのは白い人影、しゃがみ込んだように見えたその影に、結衣子は車から飛び出した。

「大丈夫ですか‼」

 衝撃はなかったが、あの至近距離ではぶつかったかもしれない。動転する頭の中で、人命救助の手順が目まぐるしく浮かんできた。

「なに、驚いただけです……」

 いつぞや聞いたその穏やかな声音に、はたと歩みを止めた。

「張さん……?」

 近くの街灯の灯りを微かに受けて浮かび上がった顔は、間違いなく張さんだった。

「おお、あなたでしたか。不思議な縁ですね」

「張さんは、なぜ――」

 こんなところに、と言いかけた口が痺れたように硬直する。

 膝をついた彼の周囲に、無数の編みぐるみが散じていた。

 同時に、凍てつくような眼光が、闇の中に蒼白く瞬いた。

「青坊主、案山子、泥田坊、笑般若、件」

 一つひとつ拾い上げながら、懐に入れていく。

「日本は面白いですな」

 張さんの声はどこまでも甘く、蕩けるように鼓膜を響かせる。

「あらゆる事物を畏怖し、身に危険の降りかからぬよう鎮める。病魔、災い、恐ろしいもの、――死に繋がる物事を忌避する。それは逆に考えれば生きようとしていることに他なりませんね」

「何を……」結衣子は一歩後ずさる。

「昔の人間は、皆知っていたのです。生と死は表裏一体であることを。生のすぐそばに死が潜んでいることを。なればこそ万事の警戒を怠らなかった。……ところが現代の人間は表立って怖がることを止めてしまった。恥ずかしいとさえ思うようになった。――その代わり、自分自身の内に恐怖を押し込めるようになった。死は自分とは縁遠いものだ、自分は光ある幸せな人生を全うしているのだ、と言い聞かせながら」

 張さんは低く嗤う。口元からほの白い煙が漏れ出している。

「ほら、今もすぐそばに」

 彼は耳に手を当て、道の先に目線を遣る。結衣子はそのとき、彼の首に真っ黒なマフラーが巻かれていることに気付いた。

「この苦悶の叫びが、あなたには聞こえますかな」

 結衣子は震える身体を無理やり動かし、車に飛び込んだ。

 張さんは、その後を附いてくる。まるで結衣子が発進できないことを確信しているかのように、緩慢に運転席へ歩み寄ってくる。

 不意に鞄の中からノイズが聞こえた。その意味を推し量って数秒、結衣子はスマホを取り出した。子供部屋と繋いだままの画面、横になっている息子が映っているはずの映像は、今や闇が噴き出したごとく暗黒に染まっている。

 結衣子はアクセルを踏み込む。

 彼の右を通り過ぎた一瞬、蒼白く生気のない目が結衣子を捉えていた。

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