第4話
翌週の平日、午後、家事が一段落ついた結衣子は、ソファに座ってマフラーの続きを編んでいた。棒針編みの単色マフラーで比較的易しい作品だが、縄模様が二本アクセントになっており、棒針と縄編み針を何度も入れ替える作業が、やや面倒ではあった。
三十分ほど集中して編み進め、少し休憩を取ろうと立ち上がったところに電話が鳴り響いた。珍しい時間の電話に胸騒ぎを覚えながら、受話器を取る。
それは小学校からの電話だった。
「息子がどうかしましたか」
「それが午前中は元気だったんですが、昼過ぎから急に体調が悪くなったようで保健室で寝ていたんです。五時間目終わりに様子を見ると顔が赤く、熱を測ると三十八度ありまして……。早退ということになりますので、出来るだけ早く来ていただきたいのですが」
すぐ来られますでしょうか、と訊かれ、結衣子は行く旨を即答した。
小学校への道を運転しながら、結衣子の脳裏には編みぐるみの悲惨な光景がちらついていた。
――十二月だから。
風邪が流行っていて当然の時期だ。息子のクラスで流行り始めたとは聞いていないが、常に誰かが最初の一人になるのだ。それが息子だとしてもおかしくはない。
学校に到着すると、保健室のベッドに息子が腰掛けていた。顔は火照って赤いが、はっきりした意識で養護教諭と話す様子に、結衣子は一安心した。
ランドセルに教科書類を詰めて持ってきてくれたクラスメイトにお礼を言うと、そのまま病院へ直行する。
結果はウイルス性のものではない、ということだった。処方した抗生剤を飲み、安静にしていればすぐに熱は下がるだろうと医者は言ったが、結衣子が問い詰めると、正直なところはっきりとは分からない、唸った。
結衣子には出来ることは、医者に従うことだけだった。
帰宅すると、息子に薬を飲ませて寝かせた。
「ただいま」
鼻歌交じりで帰宅した夫に、結衣子は「スマホ見てないでしょ」と口を尖らせる。
「うん? 何かあったのか」
言いながら鞄の底からスマホを探し当て、不器用そうに両手でボタンを押す。
「……熱……病院……」
はっと廊下の奥を見遣る。
「ちょうど寝たところ」
「悪い、すぐに必要な物を買ってくるよ」
「あなたが見てないと思って、病院の帰りに買ってきておいたわ」
いや本当に悪かった、とへこへこ頭を下げる様子はなんとも軽佻に見えるが、夫が真に子供のことを気遣っていることは、忍び足で子供部屋へ行く後ろ姿が示している。
「よく寝てたよ」リビングに荷物を下ろしながら夫が息をつく。「せっかく買ってきたんだけど、今年のクリスマスは中止かなぁ」
声を落としながら、大きな紙袋を床に下ろす。明後日はクリスマスだった。
「そうね、病気ばっかりは仕方ない」
自然なことだもの、と言う結衣子の目に、テレビ台の上の件が映った。
医者の予想に反して、クリスマスの翌日になっても息子の熱は下がらなかった。解熱剤を服用するほどではないが、一向に微熱が引かないのだ。
もう一度病院に行こうかと思った矢先に、夫が熱を出したと言ってきた。
「油断してたら風邪を貰ったみたいだ。二人で行ってくるよ」
夫は苦笑しながら息子を連れて病院へ行った。
結衣子はひとりソファに座って、手を組んだ。結婚以来病気を患うどころか、体調すら崩したことのない夫が、子供の風邪を貰うなんて――。
「珍しいこともあるものね……」
顔を上げると、テレビ横の編みぐるみが目に入る。件と虎――。
「そうだ、教室を休むと連絡しなきゃ」
今日は土曜日だった。夫と子供の体調が良くなるまでは手芸教室には行けないだろう、と思いながら電話を掛ける。しかし、初めて掛けたときとは打って変わって、いくらコールしても繋がらず、また留守電に変わる気配もなかった。
訝し気に受話器を置いたとき、ぱし、と乾いた音を耳が拾った。
テレビの方に顔を向けた瞬間、背筋に怖気が走る。
フローリングに、黒い点が飛び散っていた。
テレビ横に四足で立っていた編みぐるみが、床に倒れている。飛び散った黒い点は、目や鼻であり、首と胴体を繋げている毛糸は、一部が切れて中綿が出ている。
ぐったりと身体を横たえているそれは、まさしく死体と呼ぶにふさわしい格好だった。
「あら、顔色が悪いわ。どうなさったの」
教室に入ると、娘さんが大仰に手を上げて驚いた。
「済みません、電話が繋がらなかったもので」
結衣子は、夫と子供の体調が優れないため、今日と、おそらく来週も休むことを伝えた。
「それは大変ねえ」
哀しげな表情を作る娘さんの目は、どこか輝いて見えた。
「お子さんだけならまだしも、旦那さんまで体調が悪くなると気が気じゃないでしょう。実家のお母様には来ていただかないの?」
結衣子は痛いところを突かれて、僅かに顔を歪ませる。
「ええ……離れた場所に住んでいるので」
「本当に?」娘さんは口紅をぎらつかせて下品に口角を上げる。「こんなこと言っちゃあ悪いけれど、もしかして結衣子さん、ご実家から結婚を良く思われなかったんじゃないかしら。お歳の割に大きなお子さんがいらっしゃるから」
「……まあ、そんなところです」
無遠慮な物言いに、むっとする気持ちを隠して返答する。突然下の名前で呼ばれたことも、個人の事情に余計な詮索をされることも気に食わなかった。
「今が一番頑張りどきよ」
生徒の女性が口を挟むと、娘さんが大きく頷く。
「ここで音を上げて実家に助けを求めたら、嫌あな借りを作ってしまうもの」
「そうそう」さらにもう一人加わる。「それに結衣子さん、真面目で頑張り屋さんだから、溜め込みすぎてしまうでしょ。適度にストレス発散しなきゃ」
本当にねぇと、三人で頷き合っている。結衣子は助けを求めるように、若い男性生徒に視線を遣った。彼はにこりと素朴な笑みを作ると、次の瞬間には気怠そうに頬杖をついた。
「やっぱり結婚って大変だなぁ。だから僕は結婚したくないんですよ。家庭を持つことだけが幸せじゃないし、今は色んな考え方が認められてきてますからね」
多様性ですよ多様性、と彼は女性陣に力説する。
結衣子は無言で一礼し、部屋を出た。
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