第3話
二階建てのショッピングモールだった。一階は食品売り場で常に人混みが絶えないが、二階は主に衣料品店が並び、静かなジャズ風のBGMが流れている。
結衣子が二階角の手芸屋の前まで来ると、満面の笑みを浮かべた中年の女性が、早足で近付いてきた。
「お電話くださった西川さんですよね」
「はい、そうです。張さんの娘さんでいらっしゃいますか?」
はい、と決して歯を見せず上品に口角を上げる様子に、結衣子はどことなく裏の見えない嫌なものを感じた。
こちらへどうぞ、と案内された場所は、手芸屋と紳士服売り場間の通路を進んだ先にある、多目的ルームだった。彼女はここで毎週土曜日に手芸教室を開いているという。
八畳ほどのこぢんまりした部屋は白で統一されている。中央には長机が二つ合わせてあり、机を囲むように五人ほどの生徒が座っていた。
「こちらは見学の西川さんです」言いながら端の椅子に座るよう示す。「彼女は別のものを制作しますが、皆さんは前回の続きを作っていきましょう。分からない所があったらすぐに訊いてくださいね」
少し待っていてくださいね、と言われ、結衣子はコートを脱いで大人しく座っていた。
生徒は皆それぞれの作品に取り掛かっている。生徒間で経験差が大きいらしく、セーターやカーディガンを編んでいる人もいれば、かぎ針で簡単なモチーフを編んでいる人もいた。
そうやって彼らに注目していると、結衣子はあることに気付いた。
――マフラーを外さないのかしら。
彼らは皆一様に、マフラーを首に巻いている。色は違えど同じ模様編みで、お揃いのものらしい。部屋には暖房がかかっており、十二月とはいえマフラーをつける必要はなさそうに思えたが、揃いも揃って全員がしっかりと首に巻いている。
結衣子が首を傾げていると、娘さんが戻ってきた。
「良かったわ、まだ残っていて」
手渡されたのは編み図だった。誰かが使った後なのか、所々に鉛筆で印がついている。
「
結衣子は編み図を一瞥する。そもそも編みぐるみは単純な編み方の繰り返しだ。細かい作業で集中力は必要だが、これならば一人で完成させられそうだった。
「大丈夫です。……あの、一つ訊いてもいいでしょうか」
「どうぞ」
「生徒さんは皆さん、マフラーをされていますよね。この手芸教室のトレードマークのようなものなんでしょうか」
訊いた瞬間、彼女の動きが止まった。静寂に包まれた小さな教室内、視線のやり場に困った結衣子は周囲を見渡して硬直した。
生徒の目が、結衣子の方に集まっている。手は動いていても、腕の隙間、髪の隙間からこちらを凝視している。そして彼らは皆、目を細めて笑いを堪えるような表情をしていた。
「……先月だったかしら、皆でマフラーを制作したんです。全員で同じものを作ることは初めてだったから、みんなで教え合ったりして。最後の一人が完成したときは喜び合いました」
どこかぎこちない声で彼女は言う。
「だからしばらくは皆でマフラーをつけることにしたんです」ほら、と自分の首を指す。「私も一緒に編んだんですよ。連帯感があっていいでしょう」
「触っても良いですか」
どうぞ、とフリンジのひらひら揺れる先端を結衣子に向ける。
「柔らかいですね。羊毛ではないのかな……」
「これはベビーアルパカです」
「暖かそうですね。一度巻かせていただいても――」
「それは駄目です!」
唐突に人が変わったように怒鳴られ、結衣子は後ろに仰け反った。教室にくすりと忍び笑いが響く。
「……ほら、自分で完成させたものを一番に身に纏っていただかないと、編み物の良さが半減しちゃうわ。そうでしょ?」
結衣子は「そうですね」と軽く頷いた。
生徒たちの視線が自分から外れているのを確認し、大きく息をつく。
「私も同じマフラーを作ってみたいです」
結衣子は抑揚なくそう言うと、目前の女に離れてほしい一心で、毛糸を手に取った。
翌週から結衣子は、正式に手芸教室へ入ることになった。無料で編みぐるみを作らせてもらったということもあるが、単純に手芸が面白かった。娘さんも最初に怒鳴ったきり、穏やかな優しい先生に変貌していた。張さんを彷彿させる声音で、丁寧に指導をしていた。
早々に件を編み終えてしまった結衣子は、例の、生徒お揃いのマフラーを作ることになった。
前回は視線を浴びて恐ろしい思いをしたのだが、二回目となると多少慣れはあるもので、近くの生徒と簡単な世間話くらいはできるようになった。
「この手芸教室は先月から始まったんですよ」
そう教えてくれたのは結衣子と同年代の女性だ。
「元々他の場所でされてたそうですけど、良い場所が見つかったと、ここに決められたらしいですよ。最初は編み物中心ですが、生徒の要望があれば刺繍やパッチワークなんかもされるそうです」
「へえ、皆さんは初回から参加されてるんですか?」
「そうですよ」
明るく通る声で返すのは、二十代くらいの男性だった。
「僕らは皆最初から参加しています。僕はSNSでチラシを見て参加しました」
私はモール内の張り紙で、と言葉を割り込ませたのは五十代くらいの女性だ。また会話こそしていないが、高齢の男女も結衣子が来ると必ず会釈をしてくれる。老若男女それぞれの生徒が気さくに話しかける教室の雰囲気に、結衣子は安堵した。
――やっぱり集団に入るときは、周囲が怖くて当然よね。
結衣子は中学のときに転校したことを思い出す。拍手で迎えてくれたクラスの全員が、自分を陥れようとする敵のように見え、また彼らの目配せや仕草の全てが、自分に向けられた悪意のように感じられた。それが初日だけの思い過ごしであったことは言うまでもない。
「私、壊れた編みぐるみを直すだけのつもりだったんですけど、もうしばらく続けてみようかな」
結衣子の言葉に、それがいい、と生徒たちは声を揃えた。
その晩、結衣子は佐和に電話をした。手芸教室に入ったことを伝えるためだった。別段伝える必要はなかったが、どうしても黙ったまま手芸を再開することは出来なかった。勝手にやめて勝手に再開する――それだけは結衣子の良心が許さなかった。
佐和は驚いていたが、喜びの言葉をかけてくれた。しかし普段の元気な調子ではなく、「また一緒に手芸をしようね」と言う声に、どことなく翳りがあった。
――それでいい。
佐和には自分を憎む資格がある。彼女に心底疎ましく思われながら、再び手芸をすることが贖罪になるだろうか――佐和の声を聞きながらそう考えていた。
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