連理の木

あきのななぐさ

夜中の電話

 それは真夜中の一本の電話。鳴り響く妻の携帯が、おのずとその緊急性を告げていた。


「もしもし? どうしたん?」


 時間が時間なだけに、色々と考えてしまうのだろう。電話する妻の声は、不安を無理やり押し込めたようなものだった。


「なんてぇ!? 落ち着いてや、ばあちゃん。何ゆうてるかわからん」


 しかし、その声は一変する。ただ、立ち上がった時に見えた妻の表情は、不安と混乱がひどく混じりあったものだった。


「――車、出す?」


 その問いに、妻は頭を縦に振りながら、電話の話を理解しようと懸命になっていた。話しぶりから、電話の相手はいつもかけてくる義父ではない。義母が義父の携帯を使ってかけている。それだけに、よけいに今の状況がわからない。


「それ、誰かわからんの? じいちゃんは? お父さんはそこにおるやんな?」


 簡単に着替えながら電話する妻をしり目に、まだ起きていた息子に声をかけて家をでた。


――とりあえず義母は無事。義父に何かあった感じでもない。それなら一体何が起きた?


 夜中だけに、近所迷惑にならないように急いで車に乗り込んできた妻。切迫感は多少消えているものの、相変わらず状況は把握できていないようだった。


「とりあえず、行くから。そこにおんねんで? わかった? どこも行ったらあかんで? わかった!?」


 そう念押しする妻の声に、脅迫感が少し含まれている。電話では埒が明かないにしても、行ったら居ないとかは勘弁してもらいたい。


 以前、同じようにかかってきた義父からの電話で、いなくなった義母を探しに行った事もある。ただ、さすがに今とは状況が違うのは明らか。義母も自分が家にいる事はわかっているようで、その心配はないはずだ……。


「このまま話しとき――」


 そう告げながら車を急がす。ちらりと見た妻の顔は、元々そのつもりだと告げていた。


「それ、じいちゃんやん! わかる? ちがう! 佐世保ちゃう! それはホンマの爺さんやろ? もうおらんよ、その人! 違うって! だから、それはお母さんのお父さんやん! 喜一爺さん!」


 会話では何の事かさっぱりだが、隣から噴き出す猛烈な怒りを感じてしまう。


「誰っ!? 目の前におんの! えっ⁉ 知らん人!? ちゃうわ! それはお母さんの旦那さん! 幸次さんやで? わかる? 結婚したやろ? 幸次さんと」


 話しぶりから、どうやら義母は義父の事がわからなくなってしまったようだった。


――それにしても、面と向かって『知らん人』とは気の毒に……。


 ただ、それだけに妻の安堵からの反動の方が気になった。


「そう、そうやで? え? 幸次さんはこんな人やない? こんな爺さん、知らん? 当り前や! 年とってんねんから! あんたも婆さんやんか! なに!? もう一回言ってみ! 今話してんの! 誰かわかる!?」


 口調だけでなく、その顔つきまで変わる妻。あと数分で着く距離の信号待ちで、今にもとびかかりそうな勢いをその顔に感じてしまう。


「違うわ! 千恵子やない! それ、アンタの妹や! 江美! 娘! わかる!?」


 慣れ親しんだ、ボケとツッコミ。


 そう、義母は献身的な娘の姿を、あろうことか『自分の妹』として認識している。会う人、会う人それぞれに、義母は妻の事を『末の妹』と紹介していた。当然、紹介を受けたその人達は面食らう。ニコニコと微笑む義母に対して、何といっていいかわからないのだろう。その人たちが浮かべる『冗談? 本気?』という顔に、妻は『娘です』と助け船を出す羽目になる。そこで生まれる義母の『え⁉』という表情をみて、相手から何とも言えない顔が送られるのが常だった。


 そして、それは繰り返される。

 確かに似ているのだが、常にそう紹介される妻の気分はいかばかりだろう。

 ただ、傍から見ると、漫才になっているのも事実。


――もっとも、それは妻には言えないのだけど……。


「大丈夫みたいやな……」

「もう着くから! いったん切るで! わかった!?」


 運転中の私への返事の代わりに、鼻息荒く携帯を閉じる妻。心配した後だけに、今の状態の彼女も気にかかる。


「まあ……。とりあえず、よかったな。二人とも無事なんやろ?」

「ごめんな……」


 案の定、落ち込む妻がそこにいた。でも、目的地は目と鼻の先。妻には悪いが、もうひと働きしてもらう必要がある。


「昔は夜泣きでよく走ったよな。これもまぁ、ドライブみたいなもんちゃう?」

「…………うん」


 妻には色々と思うところがあるのだろう。でも、それを話す気は多分ない。


「――先、行き。車止めとくから」

「ホンマ、ごめんな……」


 到着し、急いで家に入る妻。それは何度も目にしてきた後ろ姿。


――その小さな体で、押しつぶされないように、よく頑張っている。


 そんな感傷を抱きつつ、私が玄関で見た光景。

 それは寂しげに佇む義父の姿。


 その瞬間、あの話の内容が頭をよぎる。


「やあ、すまんね……」

「いえ……、まあ……」


 同じ布団で寝起きし、どこに行くにも何をするにも常に仲の良い夫婦であり続けた義父母。人がうらやむほどの仲良しぶりは、確かにそうだと思っていた。


 そんな姿を見ていただけに、この姿はいたたまれない。


「お邪魔します……」


――本当に、何と言っていいのやら……。


 かけるべき言葉が見つからず、さりとて無視して通り過ぎることもできない。無意識に妻を探していると、離れた所にいた義母と目があった。


「いやっ⁉ 尾花君やん。いつも、ありがとうね」

「いえ……」


 再び不機嫌な様子を見せる妻を視界の端に押し込めて、改めて義母の様子を観察する。その穏やかな顔には、混乱した様子は微塵もなかった。


――ただ、間違いなく今の状況はわかっていない。


「もう! お茶もださんと! お父さん! そんなとこで何してんの! はよ、尾花君にお茶いれて! ごめんな、私がこんなやなかったら……。ほら、お父さん! 何してんの!」


「あっ……、ああ……。すまんね、尾花君」

「いえ、お構いなく……」


 疲れた様子を残しているものの、一瞬で生気を取り戻した義父の顔。

 そして、義父に命令しながらやきもきする義母の顔。


 それはよく見る二人の日常。


――ああ、この夫婦はずっとこんな感じだ。


 何かあったとしても、ちゃんと最後に手を取りあえる。

 ただ、そうは思いつつも、私は義父に頭が下がる思いも抱いていた。


〈了〉

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