けがれなき脈動は

木本雅彦

第1話

世の中にはネクタイをしている男性が好きな女性と、していない方が好きな女性がいるらしい。今日の私はネクタイを外すことにした。どうせそれぞれを好む女性がいるのなら、当たる確率が半々であることに変わりはない。このバーのカウンターで座っていれば、いずれその半分に当たるだろう。


ほら、二席置いた隣りの女性は、明かに私を気にしている。グラスを置いてバーテンに視線を投げたら、かすかな首肯が返って来た。大丈夫な相手だというサインだ。私はグラスを持って二席移動し、座りざまにグラスをカツンと鳴らす。女性もグラスを掲げた。その後は、特に会話もない。薄暗いカウンターに点々と並んだケシのアロマキャンドルの光を下から受けて、黙って酒を飲み続ける。お互い言いたいことは分かっている。この店はそういう店なのだ。


私は内ポケットからそっと、小さな試験管を取りだした。三センチ程の試薬用のもので、口はゴムで密封され、雄性を示す小さな針が付いている。女性もハンドバッグから試験管を出した。雌性を示す丸いマーカーが付いている。第一関門はクリアだ。


私と女性は、試験管の口を合わせた。中に入った赤い粘性の液体——血液だ——が、針を通じて互いの試験管に流れ込み、わずかに濃さの異なる赤色が、大理石模様を描いて混じり合う。凝固の黒い粒は現れない。試験管の内壁に貼られた試験紙も、綺麗なピンク色を示している。良い相性だ。


私はバーテンに合図をし、女性の背中に手を添えて外に促した。会計を済ませると、交換で部屋の鍵を受け取る。私と女性は、バーを後にした。


部屋は十三階のダブルで、当然のように一通りの設備が整っている。二人はシャワーを浴びた後、ベッドの両端に何となく控えめに腰を降ろした。二人ともほとんど言葉を交わしていない。名前も教え合っていなければ、年齢も、職業も、家庭があるのかさえも知らないままだ。それで構わないことは、私も彼女も無言の前提として受け入れている。


私は立ち上がり、彼女の正面へと立った。バスローブの肩口に手を差し入れて、するりと落とす。そのまま両肩を支えるように押し倒し、上半身をゆっくりと愛撫した。女性は目を閉じて、されるがままになっている。私はベッド脇の小型の冷蔵ボックスから、殺菌済みのポンプ付きチューブを引っ張り出した。


自らもバスローブを脱ぎ、鎖骨の内側に作られた小さな穴にチューブの片端を挿入する。冷えたチューブの感触が、胸から心臓に届くようだ。鎖骨下からの挿管が感染症の原因になると言われていたのは、いつの時代だろう。


彼女はベッドに横たわり、予想外に豊かな胸を上下させて、私を待ちわびて小さく震えている。私は彼女の鎖骨辺りを数度撫でてから、チューブのもう片方を穴に挿入した。彼女もまた同じように冷えたチューブに違和感を覚えるらしく、一瞬身を固くしたが、徐々に体温に馴染んできたようだ。


ポンプのスイッチをいれるとチューブ内の空気が除かれて、二人の血液が流れ出した。


私の血液は、彼女の身体に。


彼女の血液は、私の身体に。


血液交換は、交歓であり、交感である。


彼女の血液は私の身体に入り、血小板なら一カ月、赤血球なら四カ月の間、私の身体を流れ続けるのだ。


彼女が小さく悲鳴をあげた。呼吸の乱れが血流の乱れになって、私の身体に伝わってくる。私は彼女の耳元に口を寄せて、わざと聞こえるように息を吐いた。それに合わせるような彼女の吐息が聞こえてくる。


私は、彼女と呼吸を合わせようとした。心臓の脈動がシンクロし、送り出す血液と受け取る血液のリズムが見事なまでの一体感を生み出す。


重なった鼓動に突き上げられるようにして、私と彼女は高みへと上りつめた。




翌朝私が自宅に戻ると、学校に出掛ける娘と丁度入れ替わりになった。娘は、いってきますとおかえりを同時に言って、勢い良く家を飛び出していく。その背中を妻が見送っていた。


「着替えたら仕事に戻るよ」


「大変ね。私のほうが先に仕事に出るかも」


「ああ」


私は上着を妻に預け、風呂場に向かった。


私と妻とは、もう一年以上も血液交換をしていない。しかし最近ではそういう夫婦が増えているとも聞くし、実際私が家の外で好きにしているのと同じように、妻は妻で好きなようにしているのだろう。


私と血液交換の関係を持っていないにも関わらず、妻の女性としての魅力は褪せていない。矛盾した物言いのようではあるが、妻は変わらず魅力的だ。だがそれこそが、他に男がいる証拠でもあった。


シャワーを浴びていたら、妻がいってきますと声をかけてきた。私は唸り声だけで返事をして送り出す。


どうせお互いが好きなように生きているのだ。双方にやましいことがあるのなら、それもまたバランスなのだろうと、私は思う。


電話が鳴る音が聞こえたので、他に取る者もいないはずだから、仕方がなく濡れた身体のまま電話に出た。その電話は、警察からのもので、娘が学校に向かう途中で交通事故にあったことを告げた。




病院の処置室の前の椅子で待っていたら、中から出てきた中年の医者が容態を説明し始めた。


「出来る治療は施しましたが、決定的に血液が足りません。すぐにでも適合者との血液交換を行なわないと。お父さんは?」


「適合していますが、ちょ、ちょっと待って下さい。実の娘と血液交換ですって?」


「ああ、ご心配なく。私が医師として責任持って診断書を書きます。この人物は娘に対してやましい心は持っていないと」


「そういう問題じゃありませんよ」


その通り、そういう問題ではない。私は確かに娘に適合する血液を持っているが、なにせ昨夜見知らぬ女性と血液交換をしたばかりなのだ。私の血液は汚れている。娘と交換することなんか、出来る訳がない。それにそんなことをしたら、私が他の女と血液交換をしていることが、衆目に晒されてしまう。


医者の説得を聞きながら頭を抱えていると、妻が到着した。仕事に向かう途中で引き返してきたのだ。走って来たのだろう、息が荒れている。


「ああ、お母さんでも結構です。娘さんとの血液交換を」


「なんですって?実の娘となんて!女同士なんですよ!」


「ええ、ですから私はのほうで診断書を」


「そんなこと言われてましても……」


どうせ妻だって、事情は同じなのだ。どこかのつまらない男との情事を楽しんで、汚れた血を身体に巡らせているに違いない。


妻は下を向いていた。


そうだろう、そうだろう。汚れた血を持つ妻もまた、私と同じように苦悩しているのだろう。悩めばいいのだ。苦しめばいいのだ。私達は所詮、汚れた夫婦でしかないのだから。


「分かりました」


私は驚いて妻を見た。


妻は私のことなど視界に入っていないかのように、医者を見ている。医者は頷いて、妻を処置室へと入れた。つられて私も中に入る。カーテンに仕切られた手前は準備をする場所のようで、小さな机と棚にいくつもの医療器具や薬品が並んでいる。カーテンの奥にはベッドが置かれ、隙間から横たわる娘の姿が見えた。外傷がそれほどでなさそうなことに、ついホッとしてしまう。


医者は妻の血液を少量採取して、検査装置と思われる機械にかけた。その結果を見た医者は、私のほうをちらりと気にした後に妻に確認するように訊ねた。


「この一カ月のうちに、どなたかと血液交換をしましたね。その……旦那さんではない人と」


ほうら見ろ、と私は思った。想像していた通りだ。妻もまた、不貞を働いていたのだ。申し開きが出来るものなら、してみればいい。


「ええ、そうです。問題になりますか?」


「……いえ。大丈夫ですね。そもそも問題になるような相手とは、血液交換なんかできませんから」


私は再度驚いた。


待ってくれそれなら私も、と言いかけた言葉が喉から出なかった。


妻は医者に促されて立ち上がる。その目は私を見ていなかった。ただひたすら、カーテンの向こうで横たわっている娘のシルエットを見つめていた。


どうして私は、血液交換を拒んだのだろう。


どうして妻は、不貞がばれることも厭わずに、血液交換を受け入れられたのだろう。


いや、そんなことは考えるまでもなく明らかなことだ。しかし私だって、娘よりも自分の体面が大事などと言うつもりはない。言うつもりはないのだ。


にも関わらず、私は、その場を動くことができなかった。


汚れているのが血液なのか、私には最早分からない。

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