隔離病棟030号室

横銭 正宗

第1話

私と彼女が出会ったのは、今から四年ほど前の事だった。

彼女とは気が合って、よく流行り物の漫画や小説の話をした。


彼女は私があらすじを話すのを、キラキラした目で聞いてくれた。私は自分の好きな物を彼女にも好きになって欲しくて、一生懸命に話した。


私は彼女の事をゆきちゃんと呼び、彼女は私の事をはるちゃんと呼んだ。

ゆきちゃんは何かある度に私に電話をかけ、写メを送ってくれた。

黄色い花、白い花、赤い花、ピンクの花と、名前も知らない花の写真が私の携帯の画像フォルダを彩った。


ゆきちゃんの声は高く、話し方は舌足らずで、同い年のはずなのに少し幼く見えた。


私が中学生になった日に、お母さんからゆきちゃんの病気の事を聞かされた。


ゆきちゃんは世界に数件しか症例のない、原因不明の病気を患っているということ。どんな条件で発現するか分からない病気で、致死率が高いということ。


でも、私からすればそんなことはどうでもよかった。ただ、ゆきちゃんが今日も生きていてくれたら。

ゆきちゃんは一日を病室で過ごしていて、だからずっと電話ができていたんだと納得がいった。


今は私もゆきちゃんも、中学三年生だ。

もっとも、年数でいえばの話だけど。


病気の事を聞かされてからは二年と数ヶ月が経過していて、時が経つのは早いなぁと思う。

同時に人の成長というのもまた早いもので、いつの間にかゆきちゃんの死を恐れている自分がいた。

私は昼夜を問わずゆきちゃんに電話をかけるようになっていて、一つでも彼女のことを知れるのが、とてつもなく嬉しいと感じるようになっていた。


りんごが好き。うさぎが好き。読書が好き。オレンジジュースが好き。


そんなささやかな好きを、二人だけで分かちあった。


そうして私は今日も、ゆきちゃんに電話をかけた。


『ねぇ、病気が治ったら何がしたい?』


『うーんとね、はるちゃんと遊びに行きたい!』


『私と?嬉しい、絶対行こうね!』


『えへへ〜』


無邪気で、快活で。常に死を意識しているようにはとても見えない。それでも、こうして元気そうな声を聴かせてくれる事が、私にとっては救いだった。

…彼女の励みになればと思って、私から話を切り出したけれど。

ゆきちゃんも、ああやって答えてくれたけれど。


私は「病気が治ったあと」の事なんて、考えていなかった。

中学生になってからも、病状は快方には向かっていないようで。

お別れも近いかもしれないと、お母さんから聞いていた。


数ヶ月後。


ゆきちゃんは電話に出なくなった。2日経っても、3日経っても、折り返しの連絡はなかった。

私は焦って、看護婦さんにゆきちゃんの事を聞いた。


どうやら病状が悪化したらしい。それ以上の事は分からないと言われた。

私にはそれが何かとんでもない事の片鱗のように思えた。


「…行かなきゃ」


昼からずっと考えていて、やめようと思っていたある計画を、私は実行すると決めた。


深夜。静まり返る病棟を、私は一人で走った。

行って何ができるんだとか、そもそも私にはどうしようもないことだとか、そんなことは昼間たくさん考えた。

だから今は投げ出して、ただ走るんだ。


私の体は何かに押し出されるように、風を切る感覚を肌で感じていた。

走って、走って、走って。

病室を何個も通り過ぎた。


私の知る、ゆきちゃんの元へ辿り着く手がかりは。

ビデオ通話の度に映っていた、特別病棟306号室のプレートだけだった。


苦しくて、息が切れる。運動不足の自分を責める。

自分の心に置いていかれてしまうような感覚。でも、今は、今だけは。無理をしなくちゃ。

それでも、行かなくちゃ。


ゆきちゃんの友達として。

私はあの子に、何かをしてあげたい。


…その病室は、三階にあった。

道中何度も病院関係者に見つかりそうになったが、何とか辿り着いた。

防犯カメラは気にしていなかった。気にしたら負けだ、とも思っていた。


呼吸を整え、汗を拭う。

306号室はドアが施錠されていて開かなかった。

面会用の、大きな掃き出し窓から中を覗いた。


以前ビデオ通話をした時のままの、机とテレビと本棚。そして、小さなベッド。


ここがゆきちゃんの生活の全てなんだ。ここで彼女は一日を過ごし、いずれ訪れる死を待っているんだ。

それまでの猶予を、この部屋で。


そのベッドでは、少女が眠っていた。


以前見たのと同じ人だとは思えない、いや、思いたくないゆきちゃんが、そこでは確かに眠っていた。


口からは灰色の管を伸ばしていて、腕には無数の針の跡。輸血用の袋に入った液体を注がれるだけの入れ物と化したその子は、浅い呼吸を繰り返していた。


初めて会えた、触れられるほどの距離にいるゆきちゃんは、どこか遠くにいるように見えて。

私の目からは、涙が溢れて止まらなかった。


不意に、ゆきちゃんの目からも涙が伝った。

多分、麻酔を打たれていて、深い睡眠には入れていないんだろう。私は黙ったまま、しばらく彼女を眺めていた。


…立っていられなくなって、その場にへたり込んでしまう。

神様なんかいるもんか。幼い頃、しきりにそう思っていた記憶がある。

私がそう言う度にお母さんは悲しい顔をするから、言わないようにしていた。


「神様なんかいるもんか…」


私は涙を堪えながら、小さく呟いた。

本当は今すぐにでも叫んでしまいたかった。

でも叫んでも、楽になれるのは私だけだと分かっていた。

私の心を支配しているのは、間違いなく怒りだった。同時に、彼女に対して抱く感情は、全く別のものだった。


…こんなゆきちゃんでも、美しいと思ってしまう。

ごめんね、ゆきちゃん。


ゆきちゃんがどれだけ辛くても、苦しくても、私はゆきちゃんが生きていてくれれば、喋ってくれれば、息をしてくれれば、それだけで嬉しいと思ってしまう。


その長い睫毛も、整った眉も、柔らかそうな唇も、シルクのように滑らかな肌も、吸い込まれそうに黒い髪の毛も。

そして、痛々しい注射痕でさえも、ゆきちゃんを構成する全ての要素が美しいと思ってしまう。


生きているだけで苦しんでいるゆきちゃんに、それでも生きていて欲しいと思う心。

それは間違いなく、紛れもなく、私のわがままで。そして私の、歪んだ愛情だ。


私はしばらく泣いた。涙がずっと止まらないんじゃないかと思うほどに。溢れて尽きてしまうんじゃないかと思うほどに。

どれだけ生きていて欲しいと願っても、ゆきちゃんを救えない自分の不甲斐なさと、ゆきちゃんを奪ってしまう世界の理不尽さに。何よりも、私が知り得るよりも弱っていたゆきちゃんが、それを悟られまいと振舞っていた健気さに。


…それからどれほど経っただろうか。私はこうしている時間の無駄さに気づいて、病棟を去った。


次の日。


ゆきちゃんから電話がかかってきた。私の頭には昨日のゆきちゃんの姿がよぎったが、それを見せまいと振る舞う彼女のことを考えて、明るく電話に出た。


『はるちゃん!私ね、自由になれるの!』


『自由?どういうこと?』


『うーんとね、一時帰宅ができるんだって!』


私には全てがわかってしまった。


『それで、お母さんがはるちゃんと遊びに行ってもいいって言ってくれたの!』


胸が痛い。楽しみだね、と返した言葉は、ちゃんと明るい声に聞こえただろうか。

ゆきちゃんはまた後で連絡するね、と電話を切った。


静かな部屋で、一人馬鹿みたいに泣いた。


神様なんかいるもんか。神様なんかいるもんか。

何度も心の中で唱えた。

なんで世界はゆきちゃんを救ってくれないの。

なんでゆきちゃんがあんな目に遭わないといけないの。

なんで。なんで。問いたいことはいっぱいあるのに。私の思考と語彙は限界を迎えて、その先の問いは全て嗚咽に変わってしまう。


次の日かかってきた電話には、出る事が出来なかった。


その次の日、ようやく私は電話に出た。


電話はゆきちゃんのお母さんからだった。

娘が一時帰宅を許されたから、人生最後の思い出を作ってあげて欲しい。そう言われた。


人生、最後。


ゆきちゃんの14年間は、どんなものだっただろう。

窓の外から見える中学生。普通に暮らして、遊んで、学校に通う同い年くらいの女の子に、ゆきちゃんも憧れたりしたんだろうか。


私は、ゆきちゃんに電話をかけることにした。


数コール目に、電話が繋がった。


『この間はごめんね!なんか電波が悪くて、電話出られなかった』


私は嘘をついた。


『そうだったんだ、体調悪かったのかと思って心配したよ!』


明るい声。他人の体調を考えるよりも、自分の体調の方が心配なはずなのに。


『それより、遊びに行く予定立てようよ!』


私も明るく振舞って、ゆきちゃんの思い出作りの計画を立てる。

と言っても、私はこの街について詳しいわけではなかった。

遊びに行く機会なんてほとんどなかったから。

それでも事前に下調べをして、なるべく彼女が楽しめるような場所をいくつか選んでいた。


ゆきちゃんの行きたい場所と私の選んだ場所はほとんど一致していたが、最終日の予定だけ食い違った。

ゆきちゃんは中学校に行ってみたい、と言った。制服を着て、普通の時間に。

だから最終日は、中学校の通学路を辿ることになった。


あっという間にゆきちゃんの一時帰宅の日になり、私は待ち合わせの一時間前に駅に着いた。慣れないオシャレをして、お母さんに香水を借りて、髪型にも気を遣って。


ゆきちゃんは30分ほど前に待ち合わせ場所に現れて、不安げに携帯を弄っていた。


「おはよ!」


私はゆきちゃんの後ろから声をかけた。彼女は驚いたような声を上げて振り向く。


「はるちゃん今日…すっごく可愛いね!」


ゆきちゃんはキラキラした目で、羨ましそうに呟いた。私はそれが嬉しくて、思わず彼女を抱きしめた。


「ゆきちゃん…ゆきちゃんだぁ」


華奢な体格も、高い声も、全部が全部ゆきちゃんだった。

あの時みたいな入れ物ではない、生きているゆきちゃんに、やっと会えた。


「はるちゃん…」


ゆきちゃんは私を見上げると、嬉しそうに笑った。


私達はまず、ショッピングモールに行くことにした。

ゆきちゃんはあまり服を持っていなかったので、一週間分の衣類を買うのが目的だった。


「うわぁ!大きい!」


私もゆきちゃんも、まずショッピングモールの大きさに圧倒された。


取り敢えず適当にお店を回り、気になった所に入る事にした。

服を見るより先に、色々な雑貨を見て回った。

ゆきちゃんはノートやペンやブックカバーなど、色々な雑貨に目を輝かせた。

私もあまり雑貨を持っていなかったので、そういうものを見て回るのは楽しかった。


やっとアパレルショップに着いて、色々な服を見た。着方が分からないものや、そもそもどこに需要があるのか分からない服などを手に取ったり試着したりした。

ゆきちゃんも私も、それぞれたくさんの服を買った。

そのうち持ち切れないほどの大荷物になってしまい、そこで解散した。


2日目は遊園地に行った。

ゆきちゃんは何度もジェットコースターに乗りたがった。私は絶叫系が苦手なんだと初めて思い知らされた。コーヒーカップでもメリーゴーランドでも笑顔だったゆきちゃんは、お化け屋敷で泣いてしまった。

それでも帰り際、また行きたいと言ってくれたので、行ってよかったと思う。


3日目は、映画を見た。

今流行っているらしい漫画原作の青春ラブコメを見る事にして、チケットを買った。二人とも映画館は初めてだったので、チケットを買うのすら手間取った。

映画自体は万人が「こんな青春が送りたかった」と思うような内容で、私もゆきちゃんも上映後に「こんな青春が送りたかった」と例に漏れず呟いた。

他の人とは、意味合いが違う言葉かもしれないけれど。


そんな風に4日目、5日目、6日目と二人で過ごして、遂に最終日が来てしまった。

私達は自分の中学校の通学路を連れ立って歩いた。

途中見つけた野良猫を可愛がっていると、ゆきちゃんはわざとらしく腕時計を見た。


「大変!はるちゃん、遅刻しちゃう!」


私もそれに乗っかるように、急げ急げーと言いながら、二人で走った。


学校に着くと、校門の前には私達の担任という事になっている、宮内先生がいた。


「「せんせー!おはようございます!」」


「おう、おはよう」


先生は笑顔で私達を迎えてくれた。実は私が連絡をして、学校に話を通していたのだ。

先生について行って、私達は学校見学みたいに色々な教室を回った。

自分の席に着いて、体育館でボール遊びをして、校庭でかけっこをした。

宮内先生も私も疲れ果てたが、ゆきちゃんは楽しそうに走り回っていた。


散々三人で遊んで、私達は帰ることにした。

校門をくぐると、後ろから声がした。


「今日の宿題!元気に帰ること!」


私達は大きな声で返事をして、帰路を辿った。


夕暮れの町を、二人で歩く。

くだらない話の種もない私達は、最近読んだ本の話をしていた。


途中、小さな川に架かる橋を渡る時に、ゆきちゃんが言った。


「私達、また遊べるよね?」


初めて見た、不安そうな顔だった。自分の死期を悟ったように、私の目には映った。


「大丈夫、また遊べるよ」


私の上辺だけの一言で、ゆきちゃんの顔はぱあっと明るくなる。

私にはそれが辛かったが、涙をぐっと堪えた。


ゆきちゃんの一時帰宅が終わった夜、電話が鳴った。


「…あ、はるちゃん?」


声は弱々しくて、でも、それがゆきちゃんのお母さんの声だと言うことだけは分かった。

良くない事が起こったんだ。私は覚悟していたのに、もう泣きそうになってしまう。


「ゆきはね…楽しかったって」


泣いた後の声なんだろう。

掠れていて、聞き取りづらい。

それでも、私は真剣に聞いた。


「あなたに会えてよかったって。生まれてきてよかったって、言ってた」


泣いちゃダメだ。まだ私は、泣いちゃダメだ。

そう言い聞かせながら、携帯を握る。


「そうして、あの子は息を引き取った。だからね、はるちゃん。あの子に幸せをくれてありがとう。あの子はきっと、天国で笑ってるわ」


泣いちゃ…ダメだ…

私は耐えられなくて、泣いてしまう。

覚悟はできていたつもりだった。でも、いざ告げられてみると、足りていなかったんだと思う。


私が切ったのか、それともゆきちゃんのお母さんが切ったのかはわからないが、いつの間にか電話は切れていた。


財布に入れたプリクラ。

お揃いのノートとペン。

ゆきちゃんが選んでくれたTシャツ。


ゆきちゃんとの、たった一週間限りの思い出の品々。それでも私の記憶の中の彼女は、いつだって笑っていた。


『あはは!落書き、楽しいね!』

『お揃いだよー!えへへ!』

『はるちゃん、すっごい似合ってるよ!』


「…ゆき…ちゃん……」


世界はゆきちゃんを奪ってしまったけれど。

理不尽を全て背負い込むように、ゆきちゃんは死んでしまったけれど。


それでも、ゆきちゃんの友達でよかった。

私も、ゆきちゃんと出会えて。ゆきちゃんと遊べて。幸せだった。

ねぇ、ゆきちゃん。生まれてきてくれて、ありがとうね。


ゆきちゃんは名前の通り、溶けて春に至ることは出来なかった。

私は少しばかり間を置いて、夏が来る前にそっちに行けると思うから。

だからゆきちゃん。

また向こうでも、絶対に会えるからね。


私の泣き声は、だいぶ中途半端に、病室中に響いていた。


特別病棟とは名ばかりの、隔離病棟の一室。

030号室のプレートが着いた部屋の中で。

一時帰宅を終えた私は、またゆきちゃんに出会えるまでの日を、数えてみる事にした。

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