ベビーカー記念日 〜大人ではなくて他人の返事する君にベビーカー革命起こす〜

さらや

都営地下鉄日比谷線 北千住駅にて

 8時03分の都営地下鉄日比谷線、北千住駅ホーム。整然と並ぶ列の中に、覚束なげにたたずむ一人の女。背負ったリュックに、人々の視線が深々と食い込む。その視線は分厚いリュックをやすやすと突き刺し、彼女の心臓を抉り取るほどの凶暴さを秘めていた。なぜそこまでの憎悪が?その理由は、瞭然。彼女の前に端然とある、4輪の物体。緑と黒で構成される洗練されたボディーに、20cm径の大きな車輪がひと際目を引く。ベビーカーというより、バギー。そう、大型のベビーカー、バギーを連れて、通勤ラッシュの電車に乗り込もうというのだ、この女は。何たる大罪を犯そうとしているのか!!人々の無言の抗議、いや、物理的圧迫を伴った切実な怒りの視線は、しかし、彼女には通じないとでも言うのか、のうのうと列に並び続けている。信じがたい光景が、世界に冠たる大都市・東京で現出しているのだ。その秩序正しさで知られる東京の中でも特に、正確無比なダイヤの運行と乗客のマナーの良さを誇る「地下鉄」の代表的な駅で、まるで場違いな「乳母車」が通勤客の群れの中に紛れ込んでいるのだ。いや、紛れ込んでなどいない。強烈な存在感を主張して、そこにあるのだ。許せない。集団としての正しさから、導き出される結論としての意識。意識は当然、行為を生むだろう。

 北千住、北千住です。

 千代田線、JR常磐線、つくばエクスプレス線はお乗り換えです。

 浅草方面は、1階ホーム、3、4番線でお待ちください。

 7番線の電車は、中目黒行きです。

 アナウンスが流れると、人の群れは蠢き始めた。胎動。やがて来る大規模移動に備え、群れは一つの生命体のように脈動し始めた。

 ドウン、ドッウン、ドウン、ギェ。

『ギェ??』

 一つにまとまらんとしていた人々の意識が、個々に千切れた。異物が混じっている!赤子の不用意な寝言が、彼らの一体感をぶち壊したのだ。あの女だ。あの目障りなベビーカーだ。一体全体、あんなのが通勤ラッシュの電車に乗れるわけがないじゃないか。絶対的に腹が立つ。マジでムカつくよ。

 キュシュー、と駅に接近しつつある電車の姿が見えると、群衆の圧は、否が応にも高まり、直接的な行動へと彼らを駆り立てた。

 ぎゅぐぐぅ、リュック越しのあからさまな圧力を感じ、女は振り返った。手元のスマートフォンを見ながら、すぐ後ろのサラリーマン風の男がゆっくりと彼女を押していた。まるで彼の意志で進んでいるのではないかのように。俺はただ、この場の流れに流されているだけなんだというように。自然現象そのもののように、群れは前進を続けていく。ベビーカーを押す女は、可能な限りの力を使い、ベビーカーを前の人に当てないように歩みの速度を緩めていた。しかしそれは、自然に逆らうことと同義であり、所詮、人のなせる業ではなかった。後ろ向きに力を加えていた女は、前進する力と真っ向からぶつかり、そして2つの力のベクトルの指し示す方向に徐々に向きを変えさせられていき、最後には弾き出された。

「ああ、ええ、あっ」

 女はつぶやくように声を発すると、ベビーカーごとホームから姿を消した。

 6番線の電車は、中目黒行きです。

 電車の到着を知らせるアナウンスが、凝集を続ける無言の群衆の中に響いた。

 

「あれ?え?ここは?」

 女はそこにいた。見渡す限りの荒野、もうもうと舞う砂埃。視界を奪う砂塵の間からは、数多の叫び声が轟いていた。そして隣には…隣?誰?

「お前は?どこから来た?」

 険しい顔つきの男がそこにいた。

「え?外人?ていうか、何?」

 女は、男の傷だらけの上半身を見た。身に着けているものといえば、腰にまいた白い布だけ。そして、おかっぱの髪。奇妙な髪形の下には、褐色の肌に白い目がらんらんと光っている。

「名前は?」

 男の詰問するような口調にややムッとしながら、女は答えた。

「私は玉田依子(たまだよりこ)。あなたこそ、お名前は?」

「うん?」

 男は、ベビーカーに気づき、不意にその中を覗き込んだ。

「あっ、やめて!」

 彼女が止める間もなく、男はその中身をまじまじと見た。すやすやと眠る生後6か月の赤子の寝顔は、彼の心をとろかすのに十分すぎる力を持っていた。

「なぜ赤ん坊が…お前のその格好も何だ?もしや」

 彼はつぶやくと、慌てた様子で走り出した。彼を目で追う依子。とりあえず助かったの?私、押されてホームから落ちたんだよね?で、ここはどこ?ていうか、何か臭くない?何の匂い?さっきの人は誰?何人?ていうか、ほんとここどこ?彼女は止めどなく湧く疑問の渦に巻き込まれながらも、周囲を見回した。丘の上なのか、見晴らしはいい。しかしこの周囲に響く人の叫びは何だろう。よく見ると、そう遠くないところで車みたいなのがいっぱい走っている。いや、人もいっぱい走っている。というより、戦っている?戦っている!!戦っているのだ!!!

「戦ってる!」

 彼女は大きく叫ぶと、慌ててベビーカーの中を覗いた。よかった、起きなかった。聖斗って、一回寝ると滅多に起きないんだよね。ただ、起きると確実に大泣きするんだけど。あ、誰か来る。

「あの方です。」

 先刻走り去った男が、彼女の方を目で示しながら歩み寄ってきた。その後には、明らかに身分の高そうな(としか形容しようがない)衣服(鎧?)をまとった男が、ついてきていた。その男は、冠をそびやかすように心持ち顎を上げ、どこか遠くを見ているような目つきで、静かに彼女に、いや、ベビーカーに話しかけた。

「あなたですか。我が軍は、これで勝利するということでよいのでしょう。」

「はっ?えっと、意味が分からないんですけど。」

 男は、恭しく頭を垂れると、そのまま膝をつき、静かに両手を挙げ、目を閉じた。傍らのおかっぱ頭の男も、同じ姿勢をとり、瞑目した。

「ええと…」

 依子は戸惑いながら、赤ん坊の顔を覗いた。よく寝てる。とにかく子供が寝ていてくれて助かった。泣かれると大変だから。

「あなた様の守護のおかげで、この戦、勝つことができます。アメン神、感謝いたします。このような素敵な使者を遣わしてくださいまして。赤子のお姿とはいえ、あなたの化身だということは、一目見て分かりました。そして、貴女、アメン神のご化身を運んでもらい、ありがとう。こういったことはまだ不慣れなようだが、今後またお会いすることもあるだろう。その際は、私の力、存分に使うがよい。では、戦場に参ろう。」

 男が颯爽と立ち去ると、慌てておかっぱ頭の男もその後を追おうとした。が、思い直したように振り返り、依子に話しかけた。

「どうもありがとうございます。これで我が主上、ラムセス2世は勝利を手にすることができます。感謝の言葉もございません。ヒッタイトの戦車隊の総攻撃を受け壊滅寸前だった我が軍も、この加護のおかげで盛り返すことができると、私は信じております。貴女様におかれましても、私ども人間の小さな力ですが、何かの際には存分にお使いください。私はメンナ。エジプト一の戦車使い、最高の御者でございます。主上におかれましては、王朝始まって以来の強弓のお方でございます。私ども戦車隊、神々におかれましては何の役にも立たないのでしょうが、いつでもお心に強く願われましたら、すぐに参上いたしますので、なにとぞお忘れなきよう、重々お願いいたします。」


 依子は目覚めた。すぐに状況を把握した。すぐに、おそらく1ナノ秒もかからずに。状況を把握すると、空中に投げ出された自分の体と、ベビーカーを元いたホームへと引き上げた。これも1ナノ秒単位のできごとだ。その間、30cm以内にまで近づいていた電車は、6ナノメートル進み、運転手およびホーム上の乗客、そして監視カメラは彼女とベビーカーの動きを知覚しなかった。神経伝達物質の速度および映像の記録できるフレームレートを遥かに上回る速さでの動きだったからだ。

 落ちたはずの女とベビーカーがホームにいる。全乗客の脳が混乱を来たし、奇妙な解釈を下した。彼女は落ちなかった。何もなかった。以上。

 依子は、その空気を感じ取り、激しい絶望と、そして怒りを感じた。この日初めて、怒りを感じた。朝、9時の新幹線に間に合うには、8時少し前に家を出ればよいのに、ラッシュに巻き込まれないよう、7時には家を出たこと。途中で子供がむずかったり、排便したりしたため、何度も途中下車したこと。乗りなおすたびに人が増え、彼女の居場所がなくなっていったこと。みなが彼女とベビーカーを、まるで汚物を見るかのように見ていたこと。いや、汚物ではなく、蛇蝎か。汚物なら見なければ、近寄らなければ害はない。だが、ベビーカーを持った母親は、その容積分他者を圧迫する、積極的な害毒なのだ。その毒を刺し込んでくる、許しがたい都市生活者の純然たる敵。そんな風に見てくる他者の中で、彼女はただ申し訳なさだけを感じていた。だが、死にかけて分かった。殺されかけて分かった。そして、人を殺しかけたのに何もなかったかのように振る舞う群衆を見て分かった。これは、戦いだ。彼女には、絶対的な正義がある。この邪魔で仕方がないベビーカーの中には、聖斗(せいと)が乗ってるの!!ラムセス2世とかいう偉そうな人ですら崇めた、本当にかわいい私の赤ちゃん。その聖斗が邪魔だって!!彼女から猛烈な怒りが奔流となってほとぼしった。

 力が、力が、戦う力が欲しい!!!!!!!!!!!!!!

”ようやく呼んでくれましたか。”

”3000年は待ったな。”

 メンナとラムセス2世。力をください。

 ベビーカーが、金色に輝き出した。 

 ドコッ、ドコッ、ドコッ、ドコッ。

 彼女の鼓動が、馬の蹄の音と一体化する。すさまじい風圧とともに、ベビーカーは奔り出した。一直線に、ただ群衆に突っ込んでいく。電車に乗ろうとゆっくりと、だが氷河の移動のように力強く進んでいたその隊列に、ベビーカーの一撃が加えられる。

 チュンッ

 人が、飛んだ。弾け飛んだ。3人、5人、8人。ベビーカーは列を突っ切ると、地煙を上げながらタイヤをすべらせ、ドリフト走行で方向を転換し、再度列に突っ込んだ。3人、5人、8人。血煙を上げながら人が飛ぶ。ようやく叫び声が上がる。遅いんだよ!!ベビーカーは、今度は電車に突っ込んだ。車内でも人を弾き飛ばしながら、ベビーカーは疾走する。壁や天井、床に押し付けられ、血を吐く人々。阿鼻叫喚、まさしく阿鼻叫喚。これ、さっきの夢で見た戦場の声だ。あの匂い、血と吐しゃ物と汚物の匂いだったんだ。そんな思考の流れなどおかまいなしに、ベビーカーはただひた走る。先頭車両まで達すると、今度はドアから列に縦に突っ込んだ。一気に20人が飛ぶ。こっちの方が効率がいい。彼女は気づき、ドアから入るとまた次のドアから出るといった戦術を繰り返した。全滅、殲滅、壊滅。どんな表現にしろ、全員がやられたことには変わりがない。そんな地獄絵図が、ここに表出した。

「ふー、聖斗起きなくてよかった。」

 彼女は安堵のため息をつくと、電車に乗り、深々と座席に腰を下ろした。

 改めて周りを見渡すと、人の壁しか見えなかった。いつもの通勤風景と変わらぬ、ぎゅうぎゅう詰めの満員電車。ただ、彼女の周りだけが少し空いている。まるで奇跡のように。

 そんな中、ベビーカーを覗いて微笑む人もいる光景を、不思議な気持ちで依子は見ていた。

「どうなってんの?」

”すいません。私たちが力を貸せるのは、魂の世界だけなのです。ですが、安心してください。見た目は一緒かも知れませんが、奴らの心は叩き直しましたから。まったく、アメン神のご化身じゃなくても、こんなかわいい赤ん坊を敵視するなんて、連中、悪魔に魂を持ってかれてましたよ。”

”というわけで、失礼する。”

「あ、ちょ、待って」

 プルルルルゥーーーーーーー

 ドアが閉まります。閉まるドアにご注意ください。

 発車のアナウンスが響き、電車はゆっくりと動き出した。

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