辿り着いた実家は廃墟と変貌しており、埃臭く、黴臭く、とても人の住める様子ではなかったが、男は留まり道具を取り出した。赤色がじっとりとこびりついた、小ぶりのナイフだった。カノンという男性歌手を刺し殺したナイフだったが、男はカノンを知らなかった。ただ生活に困り、金品を脅しとろうと目論見、深夜の歩道を歩いていた人間にナイフを突きつけただけに過ぎなかった。

 殺すつもりもなかったが、すべては結果論なのだった。

 男は切りっぱなしの木片を取り出した。成人男性の腕ほどの太さがある木にナイフを突き立て、完成の暁には出頭しようと心に決めた。


 男は昔、彫刻家になりたかった。

 才能がないと言われればそれまでだったが、技術自体はけして悪くはなく、運やタイミングの問題、社会情勢の問題も充分に関係がある挫折だった。

 挫折のあと男は崖から転がり落ちるような下降を果たした。培った技術がまったく意味をなさない職場しか彼を雇わず、同僚や上司はそんな彼を嘲笑い無能扱いをした。退職を余儀なくされ、体調を崩した。男は彫刻家になりたいと家を飛び出したため、廃墟になってしまっていた時点ですっかり諦め、両親の行方をこれ以上探ろうとは思わなかった。

 木をざくざくと彫りながら、男はカノンのことを考えた。結果的に殺害してから、カノンについていろいろと調べ、どのような歌手であったのかを知った。

 カノンはプロフィールを殆ど明かしておらず、歌番組はおろかライブなども行わない歌手だった。それがいい方向に働いたのか、歌声の独創性が響いたのか、カノンの地位は圧倒的だった。顔写真だけは公開されており、端整な横顔と長い睫毛、人を寄せ付けないようなミステリアスな雰囲気が、とりわけ女性ファンの目を引いた。

 手元が狂い、親指を切り落としそうになる。男は無意識に舌打ちをしてから、真夜中の道路上で向き合ったカノンの姿を思い起こす。



 雪が降り頻る真夜中に、鬱蒼とした雰囲気で佇む男性がいた。傘もさしていなかった。髪を後ろでひとつにひっつめた、自由業のような風袋だと男は思った。一瞬躊躇したが結局は踏み出した。体格的には男が有利だったからで、ぎりぎりまで追い詰められていたからだった。

 男は取り出したナイフの切っ先を見つめた。小刻みに震えていたが、誤魔化すように握り直して、佇む男性へと歩み寄った。彼は振り返った。視線は一瞬ナイフに落ちたがすぐに前へと戻り、次の瞬間には……笑った。

「こんばんは」

 背中越しに聞こえた声は、異様に透き通った声だった。透き通った、と男は思ったが、次いで見透かしたようだ、と改めた。

「……こんな雪の日に、しかも真夜中に、ひとりでいると危ないかな」

 見透かしたような声は音もなく降る雪と奇妙な親和性を持っていた。男は何も答えないまま更に詰め寄って、突きつけたナイフが震えていないことをさりげなく確認してから、財布かなにか、金になりそうなものを出すようにと、出来る限りの低い声で告げた。

 男性は縛った髪を揺らしながら再び振り返った。向けられた男は驚いて足をとめた。

「……そうか、俺のことを知らないの。うれしい」

 俺はカノン、観賞の観に音って書いてカノン。ほんとはね。

 それはカンノン、じゃないのか。男は思ったがカノンに伝えなかった。代わりにナイフを努めて上へと向け、再度金目のものを出すようにと告げた。

 カノンは首を振った。髪に積もっていた雪がふわっと舞い散った。それから財布を取り出し、微笑みを携えたまま、男に言った。

「差し上げます。そのかわりに……」

 言い終わる前に、カノンはぐらりと上体を揺らがせた。財布を受け取ろうとしていた男は焦ったが、揺らいだカノンがしな垂れかかるように肩へと額を乗せたことには更に焦った。どこかで嗅いだような、微かに甘く上品な香りが鼻腔を抜けた。それは冷えたカノンの髪から漂っていた。

 二人はしばらくその状態だった。しんしんと降る雪が、辺りを殊更白くして、男がはっとしたときにはもう遅かった。

 ナイフはカノンの腹部に突き刺さっていた。男は柄から手を離し、青褪めながらカノンの体をゆすった。

「財布、大事に使ってね」

 体がゆっくりと雪の上に倒れた。カノンは服の袖で柄を拭い取り、逃げていいよ、と呟いてから目を閉じた。俺は疲れてるんだよ。もう歌いたくないんだ。でも歌は残るし、最後にはいちばん好きな詩で歌ったから満足してるんだよ。さようなら強盗犯のお兄さん。俺は観音カノン。あなただけはたぶん忘れないでしょう、本当の名前を。俺が本当に呼ばれたかった名前を。



 男は阿弥陀如来の仏像を完成させて、カノンの生い立ちについて考えた。インターネットにはカノンに関するあらゆる情報が出回っていた。顔写真は別人であるとか、声だけ別撮りであるとか、出身はどこの県だとか、同級生だったのだとか、様々だった。出生が一切不明でありながら、天涯孤独の身であるとの書き込みには、恐らくそうなのだろうなと、男だけは納得した。

 目を閉じると瞼の裏側には、真っ白な冬に沈んだカノンの姿が転写された。男は結局、カノンが息を引き取るまでその場に突っ立っていた。握り締めた財布は中身を抜いて海に投げ捨て、心身ともに疲弊しながら逃げ出した。

 男は自分で作った如来を見つめる。解脱を終えて涅槃に入り、更なる境地を見たカノンには、如来のほうがいいだろうと、男は思った。雪に積もられながら事切れた姿はどこか神々しかったと、男は思い込もうとした。カノンのファンが次々に自決するニュースを聞いた日に、思い込みは核心を孕んで形を取った。


 冬が終わる前、男は廃墟を発とうと荷造りをした。

 ふとカノンのカノンが聴こえた気がして振り向き、音を追って歩くうちに切り立った崖から転落した。

 自殺体と見做された男にそれ以上の物語はなかったが、無縁仏が納められる寺院において、僧侶は手厚く男を弔った。

 そしてすべてが起き出す春を迎える。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

カノン 草森ゆき @kusakuitai

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ