秋
カノンが殺害されたあと、追うように何人ものファンが自殺した。鹿野はカノンのプライベートや人柄についてあまり深くを知らなかったが、名字の響きと芸名の響きが似ていることによる親近感は持っていた。そのため、詩集に収録された詩編を歌いたいと願われ、断らなかった。その曲はカノンの遺作となった。
天才歌手と呼ばれていたカノンを殺した人物は依然として掴めていない。はじめは妄執にとりつかれたファンの仕業だと考えられていたが、その線は捜査を進めるうちに打ち切られた。
実に計画的な犯行で、理性の元周到に行われたというのが警察の見解であった。
鹿野はスマートフォンでカノンについての続報を見ていたが不意に溜め息を吐いた。リビングのソファーに沈めていた身を起こし、目頭を揉みつつ電気を消した。
ベッドに潜り込み、うすぐらい部屋の天井を見つめながら、カノンのカノンを幻聴としてしばらく聞いていた。
鹿野には娘がいたが同居することはできず、生まれた瞬間すら目にしていなかった。どのような経緯があったのか語りたがらず、また、娘と娘を生んだ女性についての顛末も、これより三年後孤独死するまでの間、ついぞ誰にも漏らさず隠し通した。
孤独死の直前、鹿野は鹿野という名字を捨てて、名無しの存在となり各地を歩き回った。寿命を悟った故の行動だったが、彼が探し当てた娘は墓石の下におり、星の光の一部、空の一部となって既に肉を捨てていた。鹿野の胸に去来したうつろを誰も知らず、鹿野自身も言語として認識はしておらず、それが矜持を捨てていた場合の未来に持ちえたであろうストルゲーだということも、世に知る人間はいなかった。
鹿野は野心家であった。当時関係を持っていた女性が妊娠した際、認知は申し出たが結婚は出来ないと渋った。詩人、小説家として名を馳せたい鹿野に妻子へと注ぐ心血はなく、女性は鹿野の心を読み取りあくる日そっと彼の元を去った。それで終わりになった。鹿野はその後の女性の人生を知らない。幸福であってくれと思い、妻子があった際の想像をして想像した詩集を出した。
この詩集内の一篇であった「輪唱」という詩篇に、曲をつけて発表させて欲しいと言ったのが、カノンという男性歌手だった。
秋口は爽やかだった気候も深まるに連れ寒気が増えて、黄金の銀杏や唐紅の紅葉が雨のように散ってゆく。
赤と黄色が敷き詰められた歩道を鹿野は歩き、あらゆる経路でうろつき、廃屋に身を滑り込ませた。そこは無人だったが、微かに人の匂いが残っていた。建物自体はひどく朽ちているため、自分のような人間がいたのだろうと鹿野は考えた。それは当たっていた。
廃屋の奥まった場所には嵌め殺しの窓があった。その下には木製の作業机があり、足元には木片が散っていた。埃も多かったが、木片はその上にある。理由を鹿野はすぐに理解した。机の上には木彫りの仏像が一体乗っていた。
見事だなと思わず呟きながら嘆息した。無意識に伸びた手は畏敬の念により一瞬止まるが、神々しさと縋る思いが上回り、持ちえる最も丁寧な手付きで仏像を持ち上げた。阿弥陀如来、と鹿野は呟く。衆生を救い浄土へと導く如来である。仏教徒というほど信仰心が強いわけではなかったが、その程度の知識であれば取り出せた。
阿弥陀如来は鹿野を受け入れた。鹿野がそう感じた、という話だったが、阿弥陀は無限の命で衆生を救い続ける仏であるため、感覚自体は正しかった。
しばらくそこに留まった。起きるたびに仏像へと手を合わせ、目にすることが出来なかった娘の姿を思い描き、浄土へ導かれるよう祈った。
嵌め殺しの窓の向こうに色づいた樹があった。秋色の葉がすべて落ちきる前に、鹿野は廃屋を静かに発った。その胸には木彫りの阿弥陀如来が抱えられていた。
人生とは、生きるとは、なんだったのだろう。
鹿野は体調の悪化をつぶさに感じ取りながらじっと考えた。思いつめたような複雑な表情は、まるで祈る信者のようでもあった。
廃屋の次に忍び込んだ場所は空き部屋の多い安アパートで、窓を破ればすぐに侵入できた。申し訳なく思いながら押入れを仮の仏壇とし、倒れないよう丁重に置いた阿弥陀に向けて、毎日手を合わせた。鹿野にとって阿弥陀如来は未来であった。慈しむような表情の向こう側に、極楽浄土がわっと広がっている。そして死せる人々がそこにいる。鹿野はそう思った。
床に伏して臓腑の終わりを感じ取る。鹿野は顔だけをどうにか横に向け、窓の向こうに冬じみた雲がかかるさまをぼうと見つめた。秋の気配がじわじわ薄くなってゆく。
ふと歌が聞こえた。床に当たっている左耳が拾った音だった。鹿野は目を閉じ、くぐもった音を聞き取ったところではっとした。
カノンのカノンである。
死者の歌声にこれから死者となる自分の詩篇が乗せられている。
鹿野は微笑んだ。ふっと安堵の息を吐いたあと、流れるように事切れた。
窓の向こうで秋が降り落ち、冬がうまれた。
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