夏
城崎はおおよそ常識的な女性だったが、夏場だけは暑さにより判断力がよく鈍った。ぼんやりするあまりに足を踏み外して真っ逆さま、打ち所が悪くそのまま死んでしまうという失態を犯してからあちゃー、と顔を手で覆った。亡くなったため実際に覆ったわけではなく、あくまでもイメージとして、あえて言うのであれば霊魂となった上で、肉体があった頃の癖で、あちゃーとやった。
自分の足を踏み外させた階段の最上段を眺めながら城崎は口を尖らせた。何の変哲もない階段の最上段だったからだが、霊魂である城崎の抗議は意味をなさず、抜け殻になって倒れている城崎の周りには職場の人間が群がり始めた。城崎先輩! とお茶を淹れるのが上手い後輩の声が聞こえる。き、救急車! とドラマのように叫ぶメタボリックを気にする専務の声が聞こえる。専務の大きな声により、社内は騒然として仕事どころではなくなる。城崎(霊魂)はどうすることも出来ないため、担架に乗せられ救急車の中で心臓マッサージなるものを施される城崎(肉体)を見つめている。
そして顔に白い布を被せられた(肉体)を覗き込みながら、これからどうすれば良いだろうかと考える。
外は暑く、どこもかしこも蒸していた。城崎にとって予想外であったのは、(霊魂)と化していても暑さを感じることだった。
汗を手の甲で拭うイメージをしながら城崎は街中をうろついた。等間隔の街路樹が生み出す等間隔の黒い影に入りつつ、葬式会場の雰囲気を思い出していた。
極一般的な葬式が行われ、城崎は棺におさまる(肉体)を不思議な気分で見つめていた。弔問客は沈痛な面持ちの人間ばかりで、それは城崎が三十歳前の女性だったからでもあり、茹だる夏だったからでもあり、唐突な別れだったからでもあった。遺影は弾けるような笑顔で美人に映っており、城崎はそのことについては感謝の気持ちを持っていた。
会場は冷房が効いていたが、扉の隙間からはぬるま湯のような風がしはしば入り込んだ。経文と焼香ののちに出棺と相成り、城崎は(肉体)を追い掛けて両親を筆頭にした親族の群れに加わった。黒い喪服に身を包む両親は蒸し暑い外に出れば汗をかいたが、涙の方が排出量は多かった。
火葬場に向かう車の中ではラジオがついていた。若くして亡くなった男性歌手の楽曲が流れ、城崎は好きな曲だったため喜んだが、若くして亡くなったというファクターが呼び水になり両親はまた泣き出した。
城崎は困った。わたしはここにいるわよとイメージで話し掛けてはみたが無駄だった。両親は咽ぶ、咽ぶ。城崎は困る、困る。歌手は歌う、歌う。車は進む、進む、進む。
超火力で焼かれた(肉体)は(白骨)になった。震える手で(白骨)を骨壺に移す両親や親族を、城崎は少し離れた位置から見ていた。わたしはここにいるわよ。そう考えるが、ここにいるわよ、でもどこにもいないのよ、と少しずつ(霊魂)としての自覚を持った。
城崎は街路樹の影から抜け出し歩き始めた。空を突き破るような入道雲が、ガラス張りのビルディングに映り込んでいる。街中に空がある。城崎は汗を拭おうとしてやめ、しばらくの間、真っ青な空と真っ直ぐな雲を見上げていた。
人はさみしい生き物かもしれない。城崎は実家の仏壇、弾ける笑顔の遺影を前にしながら考えた。
悲しむ両親もじわじわと日常に戻る。線香の減りが遅くなる。生前の形跡が薄くなる。遺影の笑顔だけが永遠の切り絵のように置かれている。
それでも両親は城崎の好物を作るたびに仏壇に備える。城崎の自室を時折換気し、天気について虚空に話し掛けている。骨壺のおさまった墓石は美しい花が添えられる。
真夜中、城崎は実家の窓から外に出た。虫の声が響く夏の夜は少しだけ涼しかった。満天の星たちはもしかするとわたしたちなのかもしれない。城崎は想いながらゆるゆると上昇していき、住宅地が遠ざかってゆくことをあちゃー、と少し後悔しつつもさみしくなんかないわよと、いつかわたしの骨も遺影も、たった一瞬の命だって星になってふりそそぐのよと、若くして亡くなった歌手の最期の歌を口ずさみながらどんどん登ってやがては弾けた。
虫の輪唱がわんわん響き続ける夏の夜だった。
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