カノン

草森ゆき


 家具がほどんどない殺風景な部屋には大振りの窓がひとつあった。向こう側は夕暮れだ。閑静な住宅街の合間に、桜が一本だけ伸びており、夕焼けの赤を浴びながら花弁を散らしていた。

 遠藤は防護用の物々しいゴーグルとマスクを装着したまま、数秒桜の樹を見つめていたが、やがてふっと視線をずらした。それから足元を見て緩やかに両腕を上げた。

 手首をゆっくりと合わせ、少しずつ掌全体を重ね合わせていき、親指、人差し指、中指、薬指、小指と、付け根から先端に向かい祈りを象る、その焦れるほどつぶさな動きは不思議と様になっている。遠藤の中で十秒は刹那なのか永久なのか、降りた瞼の裏側で何を考えているのか、祈られる人間は知りえない。手を合わせる遠藤の背後で、数人の警官が部屋をあわただしく往復する。

 夕暮れがべったりと部屋を染める。影は濃く伸び、足早な夜の気配を連れてくる。遠藤は瞼を開いて息を吐き、警察に断りを入れてから、膝を折って祈った相手の肩甲骨に触れた。衣服の向こう側で皮膚はずるりと滑り、髪が腐敗した頭皮ごと塊で落ちた。

 遺体は行旅死亡人とされた。警察が荷物や部屋の確認を行ったが、身元を確定することは出来なかった。部屋自体は本来ならば空き部屋であり、生前寝床に困って侵入し、滞在の後に死亡したのだろうと推測された。それは当たっていた。身寄りもなく死亡した遺体を視界に映しながら、遠藤は無意識に唇を噛み、胸のうちに去来した感情を上手く言い表せないまま遺体をそっと仰向けにした。顔は比較的造詣を保っていたが、細かい人相はわからなかった。細身の男性だった。

 孤独死。遠藤は声に出さず呟く。遺体が運び出されてからが特殊清掃員である彼の仕事だった。

 遺体が倒れていた玄関付近の床には黒いシミが人の形に広がっていた。臭い自体は装着したマスクのおかげでそうわからないが、噎せ返るほどの腐臭に満ちており、遠藤は桜の見える窓を大きく開け放った。不吉な臭いは春の中に放り出されて登っていった。

 警察が全員退出した後、遠藤は作業ズボンのポケットを弄ってスマートフォンを起動した。流れ出した音楽に耳を傾けながら部屋の清掃を開始したが、流れ出た体液を拭き取り駄目になった床板ごと剥がしたところで、ふと顔を上げた。

 視線の先には襖があった。匂いを吸収しやすい布類があれば処分すべきだった。遠藤は立ち上がり、焼けてざらついた畳を踏んで、襖をゆっくりと開いていった。そして目を見開いた。

 中には木彫りの仏像が一体鎮座していた。人々を極楽浄土へ導くという阿弥陀如来だったが、遠藤にその知識はなかった。それでも彼はまた手を合わせ、分厚い防毒マスクの中で嘆息した。理由はなかったが、室内で亡くなっていた人物が持ち込んだのだと思った。

 死に様と生き様は比例するだろうかと、遠藤は思う。目を閉じると端整な音楽が流れ込んできた。その曲は夭折した男性歌手が最後に発表した楽曲で、遠藤の心情に寄り添うように歌手は歌い出した。

 あの行旅死亡人は部屋に忍び込み日々を過ごしながら、仏像にこうして祈っていたのか。遠藤の自問に歌手は澄んだ歌声で返事をする。阿弥陀如来は沈黙したまま、いつの間にか沈んだ夕陽の方向を見つめている。その先に極楽浄土があるのかどうか、遠藤にはわからない。

 吹き込んだ風が桜の花びらを連れて来る。その偶然の底で遠藤は静かに祈り、阿弥陀は目を閉じ微笑み、歌は徐々に盛り上がる。

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