第41話 死の臭いはすぐ近くより

 突如として登場した夢川田に、外貝達は驚いていた。

 夢川田の後ろには、武雅と田中々もいたらしい。

 田中々は冷静に周囲を警戒しているようだし、武雅は外貝の足元にいる僕を見て顔を青くしている。


「ちょっと、宝田君! 大丈夫?」


 駆け寄って来る夢川田だったが、男たち二人が立ちふさがった。


「何よ、あんた達」

「外貝君の友達だよ。誰だか知らないが、騙されんな。こいつ、外貝君の彼女を拉致して監禁してんだ。酷い事もしてる」

「はぁ? 酷い事?」


 夢川田が怪訝な顔をして、続ける。


「何それ? 誰がそんな事言ってんの?」

「外貝君に決まってるだろ」

「ふーん。で、宝田君は何て?」

「認めやがらねぇんだ、こいつ」


 当たり前だ。

 と言うか、そもそも、僕が発言する機会事態すらほぼなかったし、最初からずっと暴力に晒されていた。

 会話が出来た記憶すら無い。

 と、夢川田は男たちにさらなる質問を浴びせていた。


「やってなかったら、認めるも何もないじゃない。まぁいいわ。で、何か証拠とかはあるの?」

「証拠? 必要無いだろ、このクズ野郎は嫉妬して」


 言いかけた男の言葉を、夢川田は「必要無い?」と遮った。


「こんなになるまで殴っといて、まさか証拠が無いなんて言わないよね? 宝田君が内野之さんを拉致して監禁してるって証拠! 言っておくけど、こっちにはしてないって証拠があるから!」


 男たちは圧倒され、夢川田が鼻息を荒くしながら言う。


「そこの宝田君は殺人事件で殺された被害者の発見者で、昨日は明るい時間から夜遅くまで、ずっと警察署にいたのよ? 嘘じゃないわ。私の叔父が警察官で、宝田君の事情聴取の後に立ち会ってるんだもの! 知り合いの死体を見たショックと、聴取で疲れ切って、最後は迎えに来た親に引き渡したって。その前後の時間に内野之さんを拉致して監禁? 挙句に酷いことしたって? そんなの、普通に考えて無理でしょ!」


 毅然とした態度で立ち向かう夢川田だった。

 男二人は完全に圧倒されたまま、外貝の顔を見る。

 そしてタイミングを見計らったように、夢川田の後ろにいた田中々の声が聞こえた。


「ちなみに、彼の自宅には今日の午前中に私が行っています。昨日が大変だったのを知って、心配だったので様子を見に行きました。ですが、留守でした。しばらく呼び鈴も鳴らせ続けましたが、誰もいません。誰かが居留守しているような様子もありませんでした」


 明らかにうろたえた男たち。

 そして外貝は、顔を引きつらせながら言った。


「何言ってんだ。そんなの、全部嘘だ。嘘に決まってるだろ。宝田がやったんだ。そいつ以外に、考えられない。状況証拠は揃ってる」

「状況証拠? こっちは警察所にいたって、ほとんどアリバイみたいな話と、自宅に誰もいなかったって、その状況の事を言ってるんだけど、それ以上の状況があるって?」

「あ、あるに決まってんだろ」

「じゃあ、言ってみてよ。もちろん、それを証明できる証人だとか、物的証拠も一緒にお願いね。あ、ちなみに内野之さんのお母さんから聞いた、内野之さんが出かける前にどこかに電話をしてたって時間、宝田君はまだ警察署にいたからね」


 外貝は数秒、押し黙った後、夢川田を指して叫んだ。


「こ、こいつら、宝田の女たちだよ! 嘘ついて、かばってんだ! 女だからって遠慮はいらねぇぞ、みんな! 良いからぶん殴っちまえ!」


 完全なる暴力の示唆。

 しかし、夢川田は怖気づかない。


「嘘だと思うなら、警察に確認とってみなさいよ!」


 どう見ても外貝の分が悪い。

 男二人はどうしたものかと顔を見合わせて動けないようだ。

 夢川田は眉間にしわを寄せながら、フンと鼻を鳴らす。


「どうせ何も考えてなかったんでしょ。外貝。あんた、馬鹿なんじゃないの?」

「く、クソが! うぜえんだよ! 夢川田! マジで殴ってわからせてやるぞ! この生意気なクソブス女が!」


 外貝は脅すようにして言うと、夢川田に向かってこぶしを振り上げた。


「ッ!」


 刹那。外貝の拳が前に突き出たその一瞬、夢川田の体が鈍く光って、ブレた様に見えた。

 姿勢のせいで良く見えなかったのもあるが、そんな錯覚を覚えるほど素早い動きだった。


「さい!」


 夢川田が叫び、外貝は殴りかかった勢いのまま回転し、気が付けば背中から地面に激突していた。

 以前、僕の前で新郷禄先輩が見せた投げよりも、もっとすさまじい物に思えた。


「がっ、は」


 外貝は驚愕の表情を浮かべながら息を吐く。

 夢川田はフンと鼻息も荒く「だてに叔父さんと修羅場くぐってないわ」と言うと、呆気に取られている男たちに言った。


「あんたら、教えておくけど、こいつはクズよ。今の見たでしょ? 対話よりもまず暴力で、しかも女子を殴って言う事を聞かせようとする。そんな奴がまともなわけないでしょ? 友達なんて名乗らない方が良い。宝田君をリンチしてたこと、警察官の叔父さんに言いつけてやりたいくらいだけど、今日は忙しいの。行方不明になった内野之さんを探さなきゃいけないから」


 男たちは顔を見合わせて動けずにいたが、「さっさと消えて」と夢川田が言うと、男二人は外貝を立たせて、去って行った。

 外貝ら男たちの後姿が消えないまま数秒、遠巻きに見ていた女子たちだったが、武雅が僕の顔に触れて、「酷い」と言った。


「た、宝田、大丈夫? 救急車呼ぶ?」


 そんなに酷い傷なのだろうか。

 と、思ったが、武雅が触れた部分が酷く痛んで、何も言えなかった。


「健太郎君」


 田中々が、ポケットから絆創膏を取り出す。


「こんなものしかありませんが、貼ってあげます」


 目の下、頬の上あたりに貼られた絆創膏は小さかったが、いくらか痛みは和らいだ気がした。


「ありがとう、田中々」


 言ってすぐ、僕は体に力を入れ、立ち上がる。


「ちょっと、大丈夫なの? 何か手当を」

「そんなの、良い。内野之を、探さないと。なんだか、嫌な予感がするんだ」


 外貝と会って理解した。

 内野之には、逃げ出す十分な理由がある。

 だがしかし、それでも僕の胸をざわつかせるのは、内野之がどこに行ったか、誰も知らないと言う事だ。

 逃げると言うなら、誰かにかくまってもらうと言うのは悪くない選択肢に思える。が、内野之は僕の知る範囲で頼れそうな人間に接触していたように見えない。

 あるいは、僕らが知らない、彼女の親類たちか?

 いや、その可能性は低い気がする。

 内野之の家族は、武雅を連れて警察まで行っているのだ。

 すぐに、探しに行かなければ。

 今となっては、考えている時間すら惜しい。

 こうしている間にも、何か、取り返しのつかない事になりそうで、僕は怖いのだ。

 僕は、体を奮い立たせて橋の外へ一歩踏み出した。


 が、その瞬間だった。

 橋の外。雨の中。視線の先。

 進行方向から、何か、酷く嫌な空気が流れて来た気がして、僕は固まった。

 空気――臭いだ。


「宝田君?」


 夢川田が僕に声をかけたが、僕は視線を動かして、臭いの発生源を探す。

 少し遠いが、川の土手に何やら小屋が立っているのが見えた。

 草に囲まれた小さな小屋で、雨の中で目立たず、孤独に立っている。


「夢川田、あれ」

「何?」


 返事をした夢川田に、僕は何も言えなかった。

 どう言えば良いのか分からない。

 ただ、僕は、真っ直ぐにその小屋を見据えて、進んだ。


「どうしたの、宝田君。あれって、あの小屋? ねぇ、ちょっと」


 返事は出来ない。

 橋の下から出ると、雨の気配が傷に染みて痛かった。

 女子たちは空気を察したのか、数秒間は固まって僕を見ていたが、やがて僕を追って来たらしい。

 傘をさし、歩いている気配を背中越しに感じる。


 そして、小屋に近づけば近づくほど、僕が感じた嫌な臭いは強くなっていった。


 空が、少しずつ茜色を見せ始めている。

 雨が勢いを失くし、雲間から空が見え始めたのだ。

 夕方だ。

 もうすぐ、夜が降りてくるだろう。

 止みつつある雨の中、僕は小屋にあったドアを見た。

 それはドアノブが付いた、シルバーの、ボロボロのドアだった。

 僕はそれに手を伸ばす。

 が、顔を青くしている夢川田が僕を止めた。


「待って。宝田君。私が、開ける」


 ここに至って、恐らく夢川田も気づいている。

 もはや臭いはごまかせないほど強く感じていた。

 いや、今やこの場にいる誰もが気づいているのだろう。

 冷静な夢川田。田中々は口をつぐんだまま、口に手を当てて、眉間にしわを寄せ始めた。

 武雅は、震えながら、おろおろと僕らの顔を見回している。

 夢川田が小屋のドアノブを掴み、回した。


 ドアが開くのが、酷くスローモーションに見えた。

 中は暗く、隙間からは何も見えない。

 だが、誰もが予感していた。

 小屋の中に、酷く恐ろしい物がある。

 この距離では、雨も、風も、それらを隠すことは出来ない。


 ドアは、ゆっくりと開かれた。


「うっ」


 僕らは呻く。

 中から漏れ出て来たのは、紛れもなく死臭だった。

 雨上がりの空気をかき消すほどの、酷い、腐りかけの肉の――死の匂い。


 そして、僕らは見た。

 雲間から差し込んだ、オレンジの光が、それを照らした。

 ドアを開けた正面。そこには、頭から血を流している全裸の、腹部を切り裂かれた少女の遺体が、壁に寄りかかる形で僕らを待ち受けていたのだ。 


「いやぁぁぁぁぁぁぁ! 優子!」


 付き合いの長い武雅だからこそ、すぐに気づいたのだろう。

 血の気の無い、虚ろな目をしていた死体は、内野之優子に間違いなかった。

 叫んだ武雅が小屋の中に駆け入ろうとした瞬間、入り口にあった、なんらかの機具に足をぶつける。

 何か仕掛けがしてあったのだろうか。

 ぶつけた拍子に、内野之の、遺体の腹部にあった切れ込みが開いた。

 シール、あるいはテープのようなもので固定してあったのか、腹部の皮膚がべろりと剥がれて、重力に引きずられるように落ちて行き、その内部を露出させた。


「ひっ」


 武雅は短く悲鳴を上げて、足を止め、僕らは固まった。


 動けなかった。

 内野之の、帯状の長い内臓が床に落ちて、どちゃりと湿った音を立てると、糸を引いて液体が零れた。

 床はすでに血に濡れていた。

 だが、そのどす黒い液体はそれらの水面に粘度の高い波紋とあぶくをいくつか作り、飛沫のように跳ねて、さらに範囲を広げている。

 同時に、それらと一緒に内野之の内部から次々と転がり落ちる、こぶし大の白い球体が、血だまりにさらなる波紋を作って回っていた。

 それらは楕円形で、いくつかは、血濡れになりながらこちらに転がって来たが、いくつかは血の広がった床に激突すると、潰れて中身を血の海の上に吐き出した。

 そして、潰れた物の、その中身が流れ出してから、それら物体の正体は判明した。

 透明な粘液に包まれた、破れた黄色の柔らかい楕円。それらが赤黒い血の海を泳ぎ、こちらに流れて来たのだ。


 生卵だった。


「ひっ、ひぃっ、う、え」


 武雅がパニックの嗚咽を上げながら、自分の顔を手で掴んで後ずさる。

 そして、指で力任せに顔をぐしゃぐしゃに歪ませながら、叫んだ。


「あああ! いやああああああ!」


 僕は、えづき、吐き気を必死にこらえて、その場に膝をつく。

 普段、日常的に見慣れて、口にしている、生の卵だからこそだめだった。

 生理的嫌悪である。

 内臓と共に血の海の上にある、透明な白身のプルプルとした質感と、ドロドロとした黄身が、血の臭いに異物感を与えているのだ。

 夢川田は戦慄の表情で顔を青くしていたし、田中々も顔を伏せて全く動けない。


 そんな僕らを、虚ろな目をした内野之は頭から血を流した顔で見ている。


『宝田君は、絶対後悔しちゃダメだよ。宝田君は、辛い事もたくさんあったのに、みんなのために頑張れて、すごくカッコいいんだから』


 最後に見た内野之の顔が脳裏をよぎった。

 どうして僕はあの時、内野之の後を追わなかったのか。

 最も恐れていた事態――取り返しのつかない事が起きてしまった。


『私の憧れ。私の特別。ずっと応援してるからね』


 僕は損壊された遺体の壮絶さに気圧されながらも、泣いた。

 どうしようもない自分の無力さに、涙が止まらなかった。


 ふと、その時、小屋の中から、透明なビニールに包まれた紙がはらりとドアの外に、風に翻弄されるように抜け出て、土手のぬかるみの上に落ちた。

 連続殺人事件のあの紙だと思い当たり、思わず紙に書いてある文字が目に止まる。


『肉をたしなむ者と交わってはならない』


 瞬間、違和感を覚えた。

 遺体の近くにいつもあるのは、新聞やチラシの文字を切り取って貼り付けた様な統一性の無い不気味な文字の羅列だったが、今回は違う。

 大きさも、文字の書体も、まるでワープロの文字を貼り付けた様な統一された文字だったのだ。

 だが、長くは見ていられなかった。


「宝田君、逃げて」


 夢川田の声だ。

 夢川田は吐き気を堪えながらも、僕の肩を掴んで、必死に、すがりつくように、言った。


「叔父さんは、もう、いないの! このままじゃ、宝田君、犯人にされちゃう。ここには宝田君はいなかった! いなかったの! だから、早く、逃げて!」


 その想像は容易かった。

 一条さんのいない草蒲署ならば、僕を犯人にする事など、簡単にやってのけるだろう。

 悔しいが、逃げるしかないのか。しかし。


「でも、武雅が」


 それでも、僕は、発狂寸前と言った武雅が、体を丸めて震えているのが目に入って、手を伸ばしかけていた。

 放っておくわけにはいかない。


「武雅さんは私に任せて! 早く、逃げて! お願い!」


 夢川田が、僕の背中をぐいぐいと押す。

 もはや、言う通りにするしかなかった。

 僕は、全身にある痛みをこらえながらも、涙を流しながら逃げた。

 痛みで不格好になったが、走って、そこから脱出したのだ。



 そうして、どれくらい走り、歩いたのだろうか。

 一時間か、二時間か。

 体力的にも気力的にも限界を感じた頃には、あたりはすっかり暗くなっていた。

 そこがどこかも分からず、辿り着いた小さな公園のベンチに座り込んだ僕は、もはや一歩も動けない事を実感した。

 体中が痛い。殴られた傷が、今になって痛みとして僕の全身を蝕んでいる。

 雨はすっかり止んで、どこかで泣いている虫の声と、夜の風の音だけが、僕の耳に聞こえていた。


 そうして息を整えている途中、疲れ果てた僕は、意識をそのまま失った。

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