愛と呼べない夜を越えたい
@chauchau
濡らす枕
筆を取る。
氏名を記入する。
住所を記入する。
電話番号を記入する。
固まること、それから十分あまり。
深夜のニュース番組は静寂を逃すため。語られる内容に意味など含まれてはいない。零れてしまったため息の理由は、本人ですら分からない。ことにしている。
「絶対に来てね、ときたものか」
業者が準備する招待状に手書きの文字を書き込む真似をする彼女の様子が、笑けてしまうほど簡単に想像することが出来た。出来てしまっていた。
予定を確認する必要はない。あれこれと理由を付けて確認作業に五回も逃げてしまっていてはこれ以上手帳を開くことも出来ない。
「追い込まれてます」
惨めなだけだ。
自分の呟きに女性は心の中で訂正を行う。この作業はもう十回目。水を飲もうにもコップの中身はすでに空になっている。
届いた招待状が入っていた可愛らしい封筒には、女性の見知った名前が印刷されている。誰よりも自分が知っていて、誰よりも自分を知っている相手の名前。
「はァ……」
先週にも直接会っている。その際には言えた内容だった。簡単に笑っていつものように。
「目の前に居ないのが一番の理由なのかもしれない」
それが文字とすると話は別だった。
氏名も住所も、電話番号も記入した。あとはただ、丸を付けるだけだというのに。
「仮に私が休んだとして何も変わりはしないのだから、まさしくこれに何の価値もありはしないのだよ」
ご出席。
ただ丸を付けるだけだった。いや、正確に言えば、ご欠席に線を引くことも必要だ。そして、ごを消すことを忘れてはいけない。
「実に、実にやることが多いではないか」
「テレビ変えて良いか?」
「優しさッ!」
リモコンに手を伸ばした男性の腕に、女性は文字通り噛み付いた。立てた歯に容赦は欠片も含んでいない。
「痛たたたッ!?」
「がるるッ」
「ケダモノかお前はッ!」
「目の前でうら若き乙女が悩んでいるというに、何もしないというのか日本男児!」
「若き?」
「……すぞ」
「ぼそっと殺害予告をするな、怖いから」
見たかった深夜番組を諦めた男性は、自身と彼女のコップを拾い上げて台所へと緊急離脱を試みる。
背中に女性からの圧と呪詛を一心に受ける男性には、このまま朝まで台所に非難するという手も残されてはいなかった。
「だけど、実際よ」
「ありがと」
受け取ったコップからは湯気。
荒んだ心にはホットミルクがよく沁みる。
「俺に何が出来る」
「お前と私の関係は何という」
「恋人じゃね?」
「出来ることが山の如くだ」
「だから、自分の恋人が好きな相手から結婚式の招待状を受け取って悩んでいる状態なんて、俺になにをどうしろと?」
「俺が居るじゃないか、とか?」
「言ったら怒るだろ?」
「当然」
「万事休すだな」
ロマンチックな恋愛など女性には無縁であった。少なくとも、彼女が主人公になる話を送れそうにはなかった。それに気付いたのは中学二年生の時分。
それから十五年。気付いたのが早かったことが幸か、それとも不幸か。
「そもそも友人代表スピーチするんじゃなかったっけ」
「する」
「いい加減諦めたら良いじゃねえか」
「捨てろと?」
「出席に丸をしろってこと」
女性の言葉が冷え切るより先に、男性の大きな手が彼女の目元を覆い隠す。今年で十二年になる付き合いが女性の扱いを身体に染み込ませていた。
「ごめん」
「素直に謝ることだけは偉いね、しかし」
頭が熱を取り戻す。
その勢いをそのままに、女性はご出席に丸をした。
「ふぉぉ……ッ」
「はい、お疲れ様」
床に転がる女性を尻目に、男性は自身にも届いていたもう一通の招待状に素早く記入を完了させる。
二人分の招待状に不備がないかを確認し、ご丁寧に二通用意されてある返信用封筒の一通に二人分を入れて封をする。
「明日出勤前に出しとくよ」
「……」
「寝るなら布団敷くからどいてくれ」
「やさしさ……」
「風邪引きたいのならどうぞ」
さきほどと比べて随分とひ弱になってしまった呪詛をあびながら、男性は一組の布団を敷き、女性をそこへ放り投げる。
男性も布団に入り込み、電気を消してしまえばしばらく続いた呪詛もあっという間に寝息へと変わる。
「寝つきが良すぎるのも考えものだな」
女性が好きになったのは、同性の幼馴染だった。
隠し続ける気持ちを偶然知ってしまった男性が持ちかけた。俺のことを二番目に好きになってくださいと。
それから十二年間。
女性は一度も自分の気持ちを表に出そうとはしなかった。
「いっそ振られてくれたらなんて聞かれたら、それこそ真面目に殺されそうだ」
「――……」
「ここまで来たら死ぬまで戦い抜くことを誓います、だよ。くそったれ」
女の名前を呟く女性の寝言は、どんな呪詛よりも男性の背中に強くのしかかる。
愛と呼べない夜を越えたい @chauchau
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