蝶は花を愛でるのか

砂鳥はと子

蝶は花を愛でるのか

  

 

 

 学園の校舎裏には古めかしい温室がある。白い梁で支えられ、ドーム状になった温室には花壇では見かけないような植物が繁茂していた。


 まともに手入れされていないせいか、植物は自由奔放に育ち、温室育ちとは程遠い野性味が溢れている。


 私は今日の放課後もスケッチブックを片手に、温室の中へと入り込んでいた。


 目的は美術部で描く絵の題材探し。

 と言うのは表向きの理由で、この温室の住人と化している立羽たては瑠璃子るりこ先輩こそが目的だった。


 私は温室の片隅にあるペンキが剥げ落ちたベンチに腰掛ける。


 背後に壁のように聳える名も知らない植物越しに向こうを覗く。


 あちら側にも似たようなベンチがあり、私の目的の相手、瑠璃子先輩がそこに座っていた。


 ただ本を読む姿すら、完璧に作られた彫刻のような佇まいを放っている。


 時折、下がってくる長い漆黒の髪を耳にかける動きにも優美さがあった。


 私と同じ高校生とは思えない、落ち着きと気品。 


 さながらこの古びた温室に迷い込んで、羽を休める可憐な蝶々の風情だ。


 こっそり眺めることしかできないけど、私は瑠璃子先輩と同じ時間を共有していることが何よりの楽しみだった。


(いつかお話できたらいいのに)


 きっと瑠璃子先輩は私のことなんて知らないだろう。


 私は一つため息をついて、スケッチブックを開いた。描きたくなるようなものなんてないが、そういうわけにもいかない。


 白紙を埋めるために私は手を動かした。

 

 



 翌日。


 冷たい秋風から逃げるように、温室へと入る。今日も瑠璃子先輩はいるのだろうと心をはずませ扉を開いた。


 先輩は目の前のベンチに座っていた。


 いつも私が座って先輩を覗き見していたベンチに。


「⋯⋯⋯⋯⋯」


「こんにちは」


 先に口を開いたのは瑠璃子先輩だった。


「こ⋯⋯こんにちは」 


 私はどうすべきか迷った。


 反対の入口から入り直し先輩がいつもいた場所に行こうか。


 いや、いきなり出て行くのは失礼ではないだろうか。


 それとも思いきって瑠璃子先輩の隣りに座るか。


 憧れの人と話すチャンスが突然降って湧いたせいで、私の頭は混乱している。


 木偶の棒のようになった私に瑠璃子先輩は優しい声音で話しかけた。


「もしかして美術部の方?」


 私が手にしているスケッチブックを指す。


「は、はい」


「温室の植物を描いているの?」


 私は呂律が回りそうになかったので黙って頷いた。


「もしかしていつもここにいる子?」


 私がいることを瑠璃子先輩に気づかれていないと思っていたが、気づかれていたようだ。覗き見していたことがバレていたのかと思うと恥ずかしくなってくる。


「ごめんなさい、あなたの席を取ってしまって。私がいた所、今ああなってるの」


 瑠璃子先輩に手招きをされて、私はよく知った植物の隙間から向こうを確認する。


 あのベンチには誰が置いたのか、サボテンの小さな鉢がいくつか並べられていた。


「あの子たちを勝手にどかす訳にもいかないでしょう。だから今日はここで本を読んでいたの。ここはあなたに譲るから」


 瑠璃子先輩は立ち上がる。


「別に私のベンチじゃありませんから。ご迷惑でなければ隣りで絵を描いてもいいですか?」  


 初めて二人きりで話せる機会を逃すわけにはいかない。


「それじゃあ、一緒に。名前を聞いてもいい?」


「すみれです。緒川おがわすみれ」


「すみれちゃん、よろしくね」 


 下の名前で呼ばれて私はニヤニヤしそうな顔を引き締めた。


 私は瑠璃子先輩と同じベンチで過ごすという密かに願っていたことが叶ってしまった。


 自分で言い出したものの、憧れの人の横で絵を描くというのは緊張する。私なんかの絵なんて見向きもされないだろうと思ったけれど⋯。


「私、何を描いても何だかよく分からないものになってしまうから、すみれちゃんみたいに絵が描けることがすごく羨ましい」


 瑠璃子先輩は興味深そうに私のスケッチブックを眺めている。こんなことならもっとデッサンの練習をしておけばよかった。


 憧れの人には良い所を見せたい。


「私、美術部の中ではあんまり上手くなくて⋯⋯」


「そうなの? でもこの花の絵、とても上手だと思う。これを油絵で描いたりするの?」


「⋯⋯まだ題材決まっていなくて。何となくこれにしようかなと思って」


 本当は瑠璃子先輩に会いたいがために温室に通っていたので、題材など二の次だった。


「そうなんだ。早くいい題材見つかるといいね」


 柔らかな春の日差しのような笑顔を向けられて、私は瑠璃子先輩の顔を直視できない。


 側にいるだけで、ドキドキして、幸せな気持ちで満たされていく。


「ごめんなさい。絵の邪魔してしまって」


 瑠璃子先輩は膝に乗せていた文庫本を開いて読み始める。


 私は何を描いていいのか分からず、取り敢えず脇に咲く白い花をスケッチしていく。


 横目で瑠璃子先輩を盗み見る。活字を追うために伏せられた目を飾る睫毛が長い。染み一つ許さないような白磁の肌にうっすらと浮かぶ血管。薄紅色の唇に、陽光を受けて輝く長い髪。


 これ以上に美しい人がいるとは思えないくらいに、私は強烈に惹かれた。


 こんなに間近で見られるなんて昨日までは夢にも思っていなかった。


 ここに咲くどんな花よりも、絵になる。


(瑠璃子先輩をモデルにすれば⋯⋯)


 アイデアが浮かぶ。だけど、私なんかがお願いしてモデルになってくれるだろうか。


 私は何度か声をかけようとして勇気が出ず、無駄に鉛筆を動かす。同じ線を繰り返しなぞっている。

 

 また明日も明後日も瑠璃子先輩とこうして話せるか分からない。


 もし、上手く行けば絵が完成するまでは一緒に過ごせる可能性がある。


「あの、先輩!!」


 緊張を振り払うように私は少し大きな声を出す。


「何、すみれちゃん」


「モデルになっていただけませんか?」 

  

  



   

 この一週間、私は毎日のように温室で瑠璃子さんと二人で会っている。


 私はベンチに座った瑠璃子先輩を正面から、スケッチしていく。


 目の前の人を紙の上に何としても再現したい、その気持ちが鉛筆を走らせる。


 私が瑠璃子先輩にモデルをお願いして、まさか許しが貰えるとは思わなかった。


「自分が絵になるなんて楽しそう」


 と笑ってくれた無垢な表情が何度も脳内で再生される。


 何としても瑠璃子先輩が喜んでくれる絵にするために、ひたすら紙を埋める。


 描いている時に、ふと目が合う。


「そんなに真剣に見つめられたら、すみれちゃんの事、好きになってしまいそう」


 予想外の言葉に私は鉛筆を落とした。


「ごめんなさい、おかしなことを言って」


「いえ⋯⋯大丈夫です。ずっと見られてたら居心地よくないですよね」 


 私が瑠璃子先輩のことを密かに好きなことが見透かされているみたいで、鼓動が速くなる。


(仮にそうだとしたら、こんな事言わないよね)


「そんなことはないよ。それだけすみれちゃんが真摯に絵に取り組んでるってことだと思うから⋯。嬉しい」


「⋯⋯⋯私、絵はそんなに上手くないですけど、先輩がモデルになって良かったって、思ってもらえるような絵にします!」


「うん。ありがとう、すみれちゃん」 


 本当は瑠璃子先輩と仲良くなりたいとか、特別な存在になりたいという下心があることに少し罪悪感を持った。


 ともかく今は煩悩を捨てて絵に集中しよう。

 

 

 



 キャンバスに描き上げた下描きを何度も別の角度から見直す。


(これで大丈夫かな)


 一応、瑠璃子先輩の絵は部活動として描いているので、今日の私は美術室にいる。


 いつまでも先輩を拘束するわけにもいかないので、温室での密会はなくなった。


 私は中庭に面した美術室の窓から、温室のある方に視線を向ける。


 植え込みの木々が邪魔をしてよく見えないけれど、今日もあそこに先輩がいるのだと思うと、頑張れるのだから私は単純だ。


「緒川さん、これ立羽先輩だよね?」


「本当だ、立羽先輩だ」


「先輩をモデルにしたの?」


 私が描いた絵が先輩だと分かると、部員たちに周りを囲まれてしまった。


 瑠璃子先輩は、何よりその美しさと麗しい佇まいで知らない人の方が少ない。


「先輩にお願いしてモデルになってもらって⋯」


「すごいねー。モデルになってくれたんだ」


「早く完成した絵、見てみたいなぁ」


「私も。なんかさぁ、この絵すごい愛を感じる」


「分かる、分かる。本当に先輩のことが大好きな人が描いた絵って感じだよね」


「緒川さん、立羽先輩のこと大好きなんだね」


 バレてはいけない気持ちが絵に出てるのだろうかと焦り、どきっとした。


 私の好きと他のみんなが言う好きは違うけど、先輩への恋心が見つかりそうで冷や冷やした。


「うん、その、立羽先輩ってかっこいいなって『憧れ』があって。『先輩として』尊敬しているというか⋯」 


 いちいちそんなことを強調しなくても大丈夫かもしれないけど、やはり先輩への気持ちを知られてしまうのはよくない。

 

 




 気づけば十一月も半ばになり、街中はクリスマスの飾りつけで溢れている。


 空気も冷たさを増して、確実に冬が迫っていた。


 私の絵、瑠璃子先輩を描いた絵もかなり完成へと近づいている。


 しかし先輩の姿は油絵の具で形になっているのに、背景だけはキャンバス地のままだった。


 何を描いたらしっくりくるのか分からない。


 温室の背景をそのまま描こうとしたけれど、どうにも納得がいかない。


 先輩を一番映えさせるのにふさわしいものは何だろうか。考えに考えても浮かばずに、何も描いていない状態が続いている。


(温室の花だといまいち合わないんだよね⋯。いっそのことハイビスカスみたいないかにも南国っぽい花にしてみようか)


「背景、まだ白いまんまだね」


 私の隣りで絵を描いていた鈴木さんが、キャンバスを覗き込んでいる。


「花を描こうかなって思ったんだけど、なかなかこれだと思うものが出なくて⋯」


「そっか。だったら先輩の好きな花を描いてみるのは?」


 その提案になるほどなと納得する。


 瑠璃子先輩が好きな花、花じゃなくても彼女が好きなものを描けばいいのかもしれない。


 善は急げと私は美術室を飛び出して、温室に駆け込んだ。


 中のベンチにはいつものように先輩が腰掛けて、本を読んでいる。私に気づいて顔を上げた。


「すみれちゃん、久しぶりだね。絵の調子はどう?」 


「大分、完成に近づきました。でも背景だけが決まらなくて⋯⋯。ところで先輩の好きな花って何ですか?」


「花⋯? 桜かな」


「桜ですね。分かりました。ありがとうございます」


 先輩の漆黒の髪に淡い紅色の花。これはすごく映えそうだ。あっと言う間に答えが出てしまった。


「私の絵に桜を描くの?」


「はい。何を描こうと思ってもいまいち決めきれなくて⋯。でも先輩が好きな花ならいいんじゃないかなって」


 しかし瑠璃子先輩は納得がいかないのか、少し不服そうな表情で私を見つめ返す。


「桜よりもっとふさわしい花があると思わない?」

 

「もっとふさわしい花⋯⋯」


 私は温室の中を見渡す。あの絵はここで描いたものが元になっている。何枚も何枚も先輩を描いて、形にして現在の絵になった。


「その花とかですか?」


 私は先輩の後ろに咲く桃色の花を指した。


「違うよ」


 私は突然先輩に腕を引っ張られ、お互いの呼気が感じられるくらいの距離まで接近する。


 どくどくと心臓が脈打つのを感じる。この音が聞こえてしまうのではないかと身構えるほどに。


「ねぇ一番ふさわしい花なんて、どう考えても一つしかないと思わない、すみれちゃん」 


「⋯⋯⋯」


「描くなら菫の花。菫を描いてよ」


真っ直ぐすぎる透明な、それでいてはっきりと強い意志を持った瑠璃子先輩の瞳に見つめられて、私は息が止まりそうになった。


 こんな瞳で見つめられたら、どんな願いだって断れない。まして相手が大好きな先輩なら。


「⋯⋯私と同じ名前の花⋯⋯ですか」


「そう。すみれちゃん、その花しかないでしょ?」

  

「はい」


 以外の返事は許されない雰囲気だった。  

 

 




「今日も立羽さんお休みなの」


「分かりました⋯。ありがとうございます」 


 ようやく絵も完成し十二月が半分過ぎた頃、私は先輩に知らせようと毎日のように教室に行くが、休みで会えなかった。


 もう二週間も学校に来ていない。


 温室に行っても会えない。


(風邪が長引いてるのかな⋯)


 あまりに会えない日が続いているせいで、永久に会えなくなってしまうのではないかと妙に不安ばかりが募る。


 完成した絵は美術部のみんなに褒めてもらえた。今までそんなに褒められたことがなかっただけに、すぐにでも瑠璃子先輩に見てほしかった。


 だけど冬休みになり、年が明けた頃になっても先輩は学校に姿を現さなかった。


 先輩の教室に足を運ぶのも何度目か分からない。教室の片隅に座り、私に気づいて笑顔を向けてくれる先輩の幻を見る。


 その幻が現実になることはなかった。


 そしてとうとう私にとって嫌な知らせを先輩のクラスメイトから聞いてしまった。


「立羽さん、病気の治療で東京の方に引っ越したんだって。私たちも朝先生から聞いたの」


 私はどうしていいのか分らず、いつの間にかあの温室に来ていた。


 ベンチは当然のように空いたままで、外の寒さなど知らないかのように花や木々は増殖している。 


 もう会えないのだろうか。あの絵は見せることも叶わないのだろうか。


「⋯⋯瑠璃子先輩」


 ため息と涙だけが溢れてゆく。

 

 




「ごめんなさいね。個人情報だから教えられないの」


 私は思いきって先輩の担任の川久保かわくぼ先生に、今彼女がどこにいるのかを聞きに行った。せめて引っ越し先が分かれば手紙くらいは送れると思ったから。


 しかし予想通りの答えが返ってきて、私は肩を落とすしかない。


私は先生に先輩との事について話した。


 絵のモデルになってもらったこと。先輩が完成を楽しみにしていたこと。


「緒川さんは立羽さんの絵を描いていたのね。それなら本人に見せたいよね⋯⋯。私から教えることはできないのだけど、もし緒川さんがお手紙を持って来てくれたら、立羽さんに渡すけど、どうかな?」


 先生の提案に私は盛大に頷いた。


「ありがとうございます! 明日書いて持って来ます!」


 瑠璃子先輩は返事をくれるか分からない。病気なら手紙を書けない状態の可能性もある。そこまで元気がなくなってしまったなんて想像したくないけれど、やれることはやろう。


 私は部活に出ることも忘れて、急いで家へと向かった。 

 

 

 

 

 

 広い病院の敷地内には桜の木が何本も植えられている。ちょうど見頃になった桜は春の陽射しの下で、輝くように咲き誇っていた。


 私がいる病院内の廊下からも桜が見える。


「中に入らないんですか?」


 廊下でぐるぐる回っていたら、いきなり背中から看護師さんに声をかけられてびっくりした。


「あの〜えっと⋯⋯」


 もう三十分近くも私は廊下にいた。


「立羽さんに会いに来たんだよね」


 この看護師さんにはさっき受付で会って、先輩に面会に来たことを伝えている。


「⋯⋯その、会うのが久しぶりで、緊張して⋯⋯」


 挙句に先輩は個室に入院している。


 他に人がいないから余計に緊張するのかもしれないし、大部屋にいてもそれはそれで緊張したかもしれない。


 メールで何回かやり取りしていたけど、いざ会うとなるとそわそわしてしまった。


「立羽さんはお見舞いに来てくれて喜んでくれると思うな」


 看護師さんは病室の引き戸を開けると


「立羽さん、面会のお客様が来てますよ」


 と中に呼びかけてしまった。もう私は入るしかない。


「る、瑠璃子先輩、お久しぶりです」


先輩はベッドの上に起き上がり、温室のベンチにいた時みたいに文庫本を読んでいるところだった。 


 以前に比べるとかなりほっそりしてしまって、痛々しくて辛い。でも寝たきりじゃなくてそこは安堵した。


「すみれちゃん⋯! 約束の時間になっても来ないから、急用で来れなくなってしまったのかと思った!」


「ご、ごめんなさい。⋯⋯ちょっと、迷って」


 看護師さんが笑った気配を残して、立ち去った。


「病院の中って迷路みたいだものね」


 実はすぐ側でうろうろしてましたなどと、恥ずかしくて言えない。 


「瑠璃子先輩、思ったよりは元気そうで良かったです」


「うん。来月には退院できるから、頑張ってるところ。それより、絵見たいな」


「分かりました」


 私はカバンからタブレットを取り出した。姉にお願いして貸してもらったものだ。より大きく見てもらうためにはスマホやデジカメでは画面が小さい。


 私は画面に撮ってきた先輩の絵を表示して見せた。


 メールでやり取りをした時に、画像を送ることを提案したけれど


『すみれちゃん本人から見せてもらいたい』


 とのことで今日まで封印していた。


 さすがにキャンバスを病院に持ち込むわけにはいかないので、タブレットで妥協することになった。


「ちゃんと完成させましたよ」


「⋯⋯⋯すごい。何だろう、自分が絵になってるって不思議だね。まるでもう一人の私が絵になって生きてるみたい。今にも動き出しそう。すみれちゃん、こんな絵が描けるなんて、すごいよ」


 先輩の瞳から涙がこぼれるのを見て、私も胸の奥がきゅっとなって泣きそうになる。


「ごめんね、泣いて。⋯⋯⋯嬉しくて。退院したら本物見たいな」


 私は矢も盾もたまらず、先輩のことを抱きしめた。先輩も私を抱き返してくれる。


「先輩が見たいなら、いつでも持っていきます。受け取ってくれるなら、あの絵先輩に持っていて欲しいです」


「いいの?」


「瑠璃子先輩以外の誰に渡すんですか?」


「そうだね⋯」


 私たちは落ち着くまで、しばらくお互いの温もりを感じていた。


 先輩の息遣いや体温。生きている。目の前にいる。それだけのことがとても尊い。

 

 




「白い菫、なんだね」


 先輩は絵の背景を指す。


「桜が好きだと言っていたので、紫ではなくあえて白い菫にしたんです」


 結果的に先輩を引き立てるような絵に仕上がった。


「でも、私のお願いした通りに描いてくれて嬉しい。それに紫の花より白い方がすみれちゃんっぽい」


「そう、ですか?」


 逆に私っぽくない方が良いのではないかという気がしてしまう。そもそも名前負けしているので、菫の花らしさなど皆無なのだけど。


「この後ろの菫、まるで私に寄り添ってくれてるみたいでしょ? 私が学校に行けなくなっても、転校しても、すみれちゃんだけは私のこと忘れないでいてくれた。最初にお手紙くれたこと、今でも嬉しくて嬉しくて覚えてる。メールでもずっと私のこと気にかけてくれて、それがどれだけ励みになったか⋯⋯」


「⋯⋯⋯先輩の励みになってたなら、本望です。⋯⋯⋯⋯私、瑠璃子先輩のこと大好きですから。⋯⋯⋯絵に描くくらい。ここまで来るくらいには!」


 これは告白だ。先輩にはちっとも伝わらなくても。伝わらなくたっていい。


 ここにこの人が存在してさえくれたら。


 先輩はそっと私の手を握ってくる。


「⋯⋯⋯⋯!」


 さっきは思わず抱きしめてしまったけど、振り返ると我ながら大胆なことをした。手を握られただけで、心臓がやかましい。病室に入る前とは違う緊張感が私に纏わりつく。


「すみれちゃんは私のことが大好きなんだね。私も大好きだよ、すみれちゃんのこと」


「は、はいっ」


 私の好きとは別物でも、本人に大好きと言われると、舞い上がってしまう。


(落ち着け⋯落ち着け⋯)


「ところですみれちゃん、一つ確認してもいいかな?」


「何ですか?」


「すみれちゃんの大好きって、どっちの好き?」


「どっち⋯⋯?」


 一体、瑠璃子先輩は何を聞いているのだろう。


 どっち? どっちの好き???


「例えば⋯⋯」


 突然、私の視界は遮られた。


 瑠璃子先輩が私の唇にキスで触れたから。 


 ほんの一瞬の出来事だった。


「こういう好き、だったりしない?」


 私が初めて見る、先輩の魔性の微笑み。


 これは夢なのか、幻なのか。


 私は先輩の腕をしっかりと掴んだ。


「瑠璃子先輩、ほ、本物ですよね。これ、リア⋯リアルででですよね」  


「すみれちゃん動揺してる」


 楽しそうに笑われる。


「現実だし本物だよ。偽物の方がよかったかな」


 これ以上喋ったら言葉をまともに話せなくなりそうで、私は黙って首を振る。そのまま、瑠璃子先輩の胸に飛び込んだ。


「私、瑠璃子先輩のこと好きです。モデルになってもらう前からずっと好きでした⋯⋯」


 先輩は優しく私の頭を撫でてくれる。


「私と同じ気持ちだね」   


 予想外な形で私の想いは実ってしまった。 

    

 

 



 ゴールデンウィークを迎える頃、私は先輩が住むマンションへとやって来た。


 先輩の部屋の壁には立派に額装された私の絵が飾ってある。


「私の絵も随分、豪華になりましたね」


「大事な絵だから、きちんと飾らないと」


 ここまで大切にされたら描き手冥利に尽きる。


「また私の絵、描いてくれるんだよね?」


「瑠璃子先輩が望むならいくらでも」


 最近、先輩は私の専属モデルみたいになっている。


 週末は電車で一時間かけて先輩の家へ赴き、絵を描かせてもらっていた。


 大好きな人がいて、大好きな人が描ける。


 こんな幸せはない。 


「瑠璃子先輩、今から描いてもいいですか?」


「もちろん」  


この人を愛していきたい、いつまでも。


 私は彼女を描きながら心の底からそう思った。

  

 

  

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蝶は花を愛でるのか 砂鳥はと子 @sunadori_hatoko

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