犬だって夏への扉を探したい

木本雅彦

第1話

あのひとは白いワンピースを着ている。その印象が強烈にすぎて、僕ははばかりもなく「あのっ」と声をかける。


夏の日だ。青い空のグラディエーションと雲のアクセントを背後に、すらりとしたシルエットの女性が、これまた白い犬をつれて立っている。音は聞こえているのだろうか。聞こえていないとしても、そこには間違いなく蝉の声がある。聞こえていない音であっても、そこにあるべき音は、背景の一部としてきちんと存在する。


その光景は僕にとって、これ以上ないくらい夏そのものの絵面に見えて、それがとても鮮烈で、その主役であるあのひとに、話しかけずにはいられなかった。


犬が「わん」と鳴く。あのひとが僕のほうに顔を上げる。え?という顔をする。僕は続けての言葉が出ない。話しかけたはいいけれど、何を話せばいいのか分からない。


するり。


あ。


犬が逃げた。と、思った瞬間には、姿を消していた。


「しかたがないですね」とあのひとは言う。「彼は不確定なので」


僕が怪訝そうな顔をしていると、あのひとは補足するように言った。


「彼は量子論的な犬なのです」


「……量子論的?」


「存在確率が極値になれば出現しますが、ゆらいでいますから……。ちょっとしたことで、逃げ出してしまうのです」


あのひとは僕を見下ろして言う。そう、僕は小さな少年で、あのひとからみたら取るに足らない存在で、そんな僕は、見知らぬ女性に話しかけるなんていう分不相応なことをしてしまった興奮が、一気に醒めるのを感じる。そして続く後悔も。


そんな僕の心のうちは、あのひとにはおそらく伝わっていない。


「一緒に探してもらえますか?」


あのひとがこともなげに言うのに、「は、はい!」と答える。


「あなたが私のことを呼ぶものですから、彼に対する認識がそれて存在確率がぶれてしまいました」


「はぁ……そうなんですか」


並んで歩き出す。石畳で舗装された遊歩道は、両脇を背の高い木で囲まれていて、モザイク状の夏の陽の光が地面に落ちている。


「急がないんですか?」


「急いでもしかたがないことだから」


中身のいなくなった首輪とリードを後ろ手に持った彼女は、捜索というよりかは散歩のペースでゆっくりと歩く。その横顔に焦った様子はなく、夏が持つ熱気と明るさを軽やかに纏って、それでいて涼しげだ。


一目惚れというものなのだと思う。


青空のせいなのか、あのひとのせいなのか、犬のせいなのか。あるいは、夏のせいなのか。そもそも、僕のような子供が一目惚れという言葉を使うことはおこがましいことなのか。


分からないまま、それこそ不確定な気持ちのまま、僕はあのひとの隣を歩く。


「ここでふた手に別れましょう」


あの人がいった。僕はうなずいて、石の階段が続く道を歩く。犬が見つかったとして、どうやってあのひとに連絡をとればいいのだろうと、ふと思ったが、なんとかなるような気もする。


とは言え、犬の手がかりがあるでもなく、そもそもこちらの方角を探すのが正しいのかも分かりかねる状態で歩いてきたので、このまま進んで行って犬が見つかるとも思えない。


遊歩道の脇にある石のベンチに座る。ひとりで休むのは、あのひとに不誠実な気がしたので、作戦会議だと称して自分を納得させる。実際、犬を見つければあのひととの接点も持てるかななどと考えており、僕のモチベーションは低くない。


「犬、なー。名前も聞いてないな」


「名前なぞ、知らぬほうがいい」


うわ。


いつのまにか、横に犬が座っていた。


「ていうか、喋れるんだ」


「この世界の犬が喋れないだけであって、犬が喋る平行世界というのも存在する。その世界とこの世界の両方で存在確率を極値にすれば、この世界にも喋る犬というのが出現する。所詮は周期関数だからな」


「分からないけど」


「分からずともよい。それより少年は、どうして我を探している」


「あなたが逃げたからですよ。あのひとが探しているから、手伝っているのです」


「あのひとというのは、あのひとのことだとは思うので、あのひとという認識で固定化することにするが、我はあのひとから逃げるのが存在意義みたいなものだし、あのひとは我を追いかけるのが存在意義のようなものだ。少なくとも、複数の世界を貫通しているのは、その点に尽きる」


「だから、分からないです」


「我が量子論的存在であるように、あのひととやらも量子論的存在に過ぎない。ある世界ではあのひとは我に対するストーカーかもしれないし、別の世界では恋人の痴情のもつれかもしれない。あらゆる可能性が重ね合わされて存在している中で、この世界では我は白い犬であるということだ」


「じゃあ僕も量子論的存在なんですか?」


「少年はこの世界で存在が認識されているから故、この世界に存在が確定されている。安心しろ。少年は不確定ではない。その代わり、ここから動くこともできないがな」


「あなたはここから自由に動けるということですね」


「自由といえるほど、自由はない。なにせ逃げないといけないのでな」


がちゃん。


犬の首に、首輪がはまった。見上げると、あのひとが立っている。


背後の空間はと見れば、一面の青。グラディエーションのない、平坦な青色の空間の中に、僕たちは隔離されていた。


「指名手配番号90021345。確保します」


「ご苦労なことだな。時空警察エージェント登録番号G3365、アリシア・テグワイア」


「こんな辺鄙な世界にまで逃げ込んできて。手間をかけさせられました」


「平行世界に辺鄙もなにもない。等しく同列に存在しているだけだ。我が不確定であることに、変わりはないよ」


「しかし、この閉鎖空間の中ではあなたの存在は固定化されています。首輪と、私の認識と……そこの少年の認識によって」


「なるほど、この世界に固定化されたされた存在によって、我を繋ぎ止めようという魂胆か。……だが、それはあまりにも浅知恵ではないかね」


「そうでしょうか?」


「試してみるか?少年よ、我の名前は何だ?」


突如話題を振られる。え?名前?知らない。教えてもらっていない。多分。そうだっけ?どうだっけ?あれ、なんだっけ?知らない……知らないよな。そうだよ、知らなくていいって言われたんだよ。だから分からない、そんな不確かな、


「えと、知らな、」


するり。


犬が首輪を外した。


「ほらな、少年にとっても、我の存在はこの程度のあやふやなものでしかない。ではまたな、アリシア・テグワイア」


言い残して、白い犬は姿を消した。


あのひとが、ふぅと小さなため息をつく。


「また探さないといけませんか……。いたちごっこって、このことですね」


あのひとは首輪とリードを拾って束ねた。


「それじゃあ私は行きますね。……それとも、少年も一緒に行きますか?」


一緒?あのひとと一緒に、犬を探しに行くってこと?でも学校があるし、家族にも何も言っていないし、どこの世界か分からない……たとえば外国みたいな場所でやっていけるかも分からないし……、それと……それと……。


答えあぐねていると、あのひとは、優しく微笑んだ。


「冗談ですよ。あなたはまだまだこの世界で学ぶことがあります。覚悟ができたら、一緒に探しましょう」


「待って」


僕の言葉も虚しく、青い背景が煙を吹き飛ばすように消えた。同時に、あのひとも。


夏が戻っている。蝉の声が確実に存在している。逃げることもできない、僕の世界。僕は途方に暮れる。


その日の夜、僕は夏休みの宿題の将来の夢の欄に、「時空警察のエージェント」と書く。僕がもし、この世界に囚われずに、いくつもの平行世界を渡り歩く覚悟も持てるようになるのなら。この世界から動けずにいる、いくつもの理由から自由になれるのなら。その時、もう一度あのひとに会えますようにという、おまじないの意味を込めて。


僕は鉛筆を置いて窓を開けてベランダにでる。夏の熱帯夜の重い空気が、僕を押さえつける。


試しに思い切りジャンプをする。当然のように、その場に落ちてくる。逃れられない世界を知る。


だけど僕はもう知っている。世界に固定化されない不確定ながらも自由な生き方があることを。それでやっているのが追いかけっこというのは笑止な気もするけれど、いいじゃないか、僕もあのひとを追いかける量子論的何かになろう。


そうだ、追いかけよう。

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