断章 一
眼前の池で、一匹の鯉が「ぷはぁ」と水面にため息を漏らした。緩やかに、そして穏やかに、同心円状に波紋が広がっていく。黒々とした魚影はすぐさま水底に消え、あとには静寂だけが残った。
きっと鯉も、近頃の猛暑に辟易しているのだ。
お盆も明けた八月下旬。夏は終わりの気配を随所にちらつかせつつも、えらく長い余韻が鬱陶しいくらいに棚引いている。頭上に照りつける日差しは未だ衰える気配を一切見せない。この時期の寂れた釣り堀を訪れる客といえば、子連れの家族かよっぽどな釣り好きくらいだろう。
「釣れた!」
小さな少年の声が、少し離れた金魚の池から上がった。その横では両親がスマートフォンのカメラを向けている。
店主の話によれば、実は鯉よりも金魚を釣る方が難しいらしい。小さくて敏捷な分、掛かった感覚やタイミングを掴みづらいのだそうだ。満面の笑みと釣り糸の先で揺れる真っ赤な金魚。空中でぴちっと跳ねて、上がる水飛沫に「冷たい!」とはしゃぐ。毎年一度は出会う、小さな夏の風物詩。
ところが今年は例年と異なる点が一つだけある。
気まぐれな夏が、珍客を再び招き入れたのだ。
「あっ、釣れた」
隣席で鯉釣りに興じるのは、半袖短パンの少年ではなく白いワイシャツ姿の若い男。まくった両腕の先には、釣竿とタモ網が握られている。クールビズの期間なのだろうか、ジャケットとネクタイは身に付けていない。
彼とここで会うのは五月以来だ。
「池の主級とまではいかないが……腕を上げたな」
「はい。貰ったアドバイスの通りにやってみたら上手くいきました」
「そりゃあ何年もかけて築いたメソッドだからな。その調子で腕を上げてくれ」
「そうですね。できる範囲でやってみます」
相変わらずの落ち着いた口調だが、その双眸だけは少年顔負けの輝きを放っている。
「でも、この鯉なんか眠そうですね」
「コイツらも暑くて参ってるんだろう、きっと。早いとこ針を外すといい」
「分かりました」
言うが早いか、彼は手早く鯉を網の中から水中へと解放した。自ら体勢を整えてゆらゆら泳ぎ始めた魚を見送りながら、彼はぼそりと呟いた。
「誰かに似てる気がするんだよなぁ。でも誰だったかな?」
竿を再び垂らすことも忘れて、彼は首を傾げている。白いシャツの襟から覗く首元の赤い日焼けの跡が痛々しい。
対する自分の格好は、猛暑日にもかかわらずタートルネックの長袖と黒スキニーにストローハット、サングラスと完全装備だ。おまけに店主から借りたライフジャケットまで羽織っている。
やれやれ、仕方ない。
ようやく竿に餌を付け直した彼に向けて、鞄から取り出した日焼け止めクリームを放り投げる。
「ほら、これ使ってくれ」
「いいんですか?」
「君は塾講師なんだろう? 相手が学生とはいえ立派な客商売だ。ならば、お客さんに痛々しい姿を見せるな。今日もこれから仕事なんだろう?」
「そうですけど……なんでそれを?」
「一目瞭然だ。その仕事着を見れば、な」
彼は納得した素振りを見せたあと、ペコリと一礼して日焼け止めを塗り始めた。若々しさに溢れるキメの細かい地肌の上を、無骨な手が滑っていく。
気づけば金魚の池から親子の姿は消えていた。釣りに飽きたのか、それとも満足のいく思い出が作れたのだろうか。
夏が終わりに近づこうとも、思い出はカメラフォルダの中で永遠に輝きを放ち続ける。両親の撮影した映像を見返すことがあれば、はたまた少年が大人になってまたこの釣り堀に来ることがあれば、その度にまた思い出すのだろう。
隣で再び釣り竿を構えるワイシャツの男を一瞥する。
彼と過ごしたなんてことない時間も、いつかは色鮮やかな思い出になっていくのだろうか。
「よし、もう一匹釣れた……って、またお前じゃないか」
彼の網の中には、見覚えのあるサイズの魚がすっぽりと収まっている。
「やっぱりコイツ誰かに似てるんだよなぁ」
その鯉は、他に比べてまぶたがやけに分厚かった。
謎が解けたら、春になる。 暦 壱悟 @jimbey-x
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