1-6 春峰芽吹と刹那の冒険 結



 はいはーい、と華奢な手が伸びる。倉橋さんだった。

「そもそもだけどさ、あの石垣って登れるもんなのー? 並の身体能力じゃ難しいと思うけど。それとも何、あんたら実は山岳地帯で暮らすヤギか何かなの?」

 もっとメジャーな具体例はなかったのだろうか。

 それに関しては私も疑問だった。防球ネットをよじ登るよりは簡単だろうと踏んで消去法の形をとったものの、険しい石垣も簡単に踏破できるものではない。

 答えたのは久慈君だった。

「石垣じゃなくて体育館棟の配管を登るんだ。ほら、汚水や雨水を運搬する頑丈な管が横に備え付けられてるだろ? 案外丈夫だから、しがみついて繋ぎ目に足をかければ簡単に登れるんだ」

 なるほど。ヤギ改めサルだ。

 久慈君は遠くを見つめながら、当時を振り返っているようだった。

「懐かしいな。普段のトレーニングに飽きた頃、先代の部長が始めたんだ。意外とキツいんだぜ。配管を登って、フェンスを乗り越えられる箇所まで防犯カメラの死角を匍匐前進ほふくぜんしんで進んで、そこからフェンスに飛び付いてぶら下がるんだ。あのステンレスのフェンス、二メートル近くあるからジャンプの練習に最適だって先代部長も言ってたな」

 呆れて言葉も出ない。倉橋さんでさえ絶句していた。しかし私たちの反応など歯牙にも掛けず、備後君が思い出話に便乗した。

「しかも、そのうち誰かが変な名前つけたんだよ。身体能力を競う某テレビ番組に擬えて、その名も——」

「……おおかた『BASUKE』とかでしょう?」

「ご名答。さすが春峰さんだね」

 褒められたところで嬉しくはない。

 昨日の昼食時間の際、久慈君の口から発せられたのは『晴れてるし絶好のバスケ日和だな!』との台詞だった。今にして思えば矛盾の塊だ。バスケ部の活動場所は屋内の体育館である上に、晴天が重なればそこは灼熱地獄と化す。バスケ日和どころか、どんな運動少年でもクーラーの効いた部屋で漫画を読む方がマシだという結論に至るに違いない。

 けれども彼の言う『バスケ』が競技名以外、そして天候に左右される別の行動を意味するのであれば矛盾は解消される。

「なかなか上手いネーミングだと思わない?」

 共感しかねる。

 首を横に振る私の正面では、久慈君が神妙な面持ちに戻っていた。すっかり脱線しきった本題を思い出したらしい。

「でも渡合さんの絵とBASUKEに何の関係が……まさか!」

 驚愕に染まった彼の振り向いた先には、開け放たれた一枚の窓。そして景色の大半を占めるのは、先ほど話題に上がった石垣とフェンスがあるばかり。

「ようやく気づいたようね」

 私はポケットから一枚のルーズリーフを取り出した。完全な白紙ではなく、表面にうっすらと鉛筆で塗り潰された痕跡が残っている。これこそが絵画のモデルを示す証拠だ。

「これは今朝、美咲の絵から取った拓本」

「拓本?」

 全員が聞き慣れない単語であるのも無理はない。私も昨晩、兄さんから魚拓を見せられるまで名称を知らなかったのだから。

「ええ。彼女、意外と筆圧が濃いの。だから絵の表面に紙を押し当てて鉛筆で擦れば、下絵の跡が版画みたいに浮き出てくる」

 絵画の写真の横に、ルーズリーフを並べる。

 大部分の特徴は一致している。相違点を探しながら、躍動感溢れる選手の脚から背中、両腕へと目を通していく。ゴールのリングを掴む両手の拳に差し掛かると、倉橋さんが小さく声を上げた。

「ほらここ、絵には存在しない線があるよねー」

 細い指先で彼女が指していたのは、ゴールのリングに隠れた一本の直線。まるで選手がリングと同時に掴んでいるかのように見える。右肩上がりに左右に渡るその直線を下方から支えるようにして、数本の平行線が下向きに等間隔に並んでいる。

 それらは全て、完成した絵画からは跡形もなく消えていた。

「これ、フェンスじゃないか?」

 久慈君の声に、一斉に窓の外を振り向く。

 フェンスに両腕でぶら下がる人間を想像した上で、窓からの光にルーズリーフを透かして重ね合わせる。下方から仰ぎ見るような画角やフェンスの角度まで全てが一致していた。それもそのはずで、私が立っているのは先週美咲が絵を描いていた、その場所なのだから。

「これで分かったかしら」

 窓枠にかじり付いていた全員がこちらに振り返った。誰かが小さく頷くのを待って、私は先ほど述べた結論の補足を行う。

「美咲が窓の外に見つけたモデル。その正体は、偶然にもその時刻にBASUKEに及んでいた体育館外の誰か。多分バスケ部の一年生辺りでしょうね」

 たしかレギュラーのみで自主練をする際、彼らは屋外でトレーニングに励んでいたと聞いている。そのため『体育館内におらず坊主頭でもなく、かつバスケ部の事情を知り得るポジションの人間』という容疑者像に当てはまる人物の筆頭は、男子バスケ部の一年生たちになる。

「なら、美咲はその目撃情報を残すために絵を描いたってことー?」

「たぶん違うわ。少なくとも美咲に告発の意思はなかったと思う。あったなら先週の時点で大ごとになっていたはずだもの。ただ、なぜまた今頃になってBASUKEをする人間が出てきたのかは、私には分からないわ」

「……そっか」

 納得した様子の久慈君の声は、どこか憂いを帯びていた。

「俺じゃ、なかったんだな……」

 そこかよ、と誰かが呟いた。私だったのかもしれない。



 兄さんの言った『写真に映った絵画にはないもの』のうち、一つは本物ならではの凹凸。そして、もう一つは題名だろう。

 刹那の冒険。

 絵画に与えられたその名は、考えてみればかなり不自然だ。技の難易度は高いものの確実性に優れたダンクシュートと『冒険』の二文字は無縁であるように思える。

 けれども真相を知った今ならこれ以上ない題名だと納得できる。

 様々な放課後の音が溢れる中、ひっそりとスリルを享受する運動部員がいた。誰にも見つからないように、決して勘付かれないように。しかし、彼は最後まで気づくことはなかった。

 同じ時刻にもう一人、スリルを分かち合う冒険者がいたことに。

 奇妙な光景を前に、夢中で下絵に筆を走らせていた少女は途中で気づいたのだろう。見たままを描いて発表してしまったら、ただの告発行為になってしまう。完成した絵は芸術作品ではなく証言としての価値しか評価されなくなるかもしれない、と。だが眼前の非日常的な光景をみすみす逃すのは惜しい気持ちもある。

 葛藤の末、彼女は絵にカムフラージュを施すことを決めた。

 元々の取材対象であるバスケ部から着想を得て、モチーフはそのままに自然なシチュエーションと背景を選ぶ。絵画に隠された真実が、誰にも見つからないように、決して勘付かれないようにと心臓を高鳴らせながら。

 この手の高揚感には私も覚えがある。

 昨晩、兄さんのハンバーグのソースに数滴の隠し味を垂らした瞬間。それに気づかれるか否かと兄さんの食事を見守っていた時間。速くなる鼓動を必死に落ち着かせようとした、一瞬にも永遠にも感じられたひととき。

 あれはきっと、私にとってまさしく『刹那の冒険』だったのだろう。

 


 体育館の鉄扉が音を立てて開く。

「あ、皆さんここにいたんですね。ずいぶん探しました。何してるんですか?」

 聞き慣れた美咲の声。思いがけない登場に、全員の肩が跳ね上がった。

「別に大したことはしてないわ。それより美咲の方こそ、部活の用事は済んだのかしら?」

「はい。絵をコンクールに出展するか相談をしていました。顧問の先生からもお褒めの言葉を頂いたんですが、今回は諸事情につき見送ることにしました」

 せっかく手伝ってくださったのにすみません、と美咲はバスケ部の三人にペコリと腰を折った。本人不在の中で話題の中心に据えていた罪悪感もあってか、久慈君は訥弁な口調で「お気になさらず、こちらこそ……」と繰り返している。

 絵の出来はいいのに勿体ない、とは誰も口に出さない。

 美咲は『刹那の冒険』の終着点を自ら定めた。それについてとやかく言う権利は、私たちにはない。

 そういえば、と美咲が後方に手招きをする。

「体育館の前で妙にソワソワしていた子たちがいたので、連れてきちゃいました。ほら、遠慮せずに入ってください」

 美咲の背後から現れたのは、申し訳なさそうに目を伏せた数人の男子だった。制服のネクタイの色からして一年生だ。彼らにはその他に、一目で分かる共通点があった。

 隣を見れば、バスケ部三人が目を白黒させている。

「お前らどうしたんだよ、その頭!」

 ずらりと横に並んだ彼らは、全員が坊主頭だった。整列が済むと、一斉に深々と頭を下げた。体育館に響く「すみませんでした!」との一斉唱和。

「実は先週のトレーニング中、つい出来心で先輩たちに黙って敷地の外に脱走したんっすよ。それで、反省の意を込めて全員でこの頭になろうって決めたんす」

 何か言いかけた久慈君を制し、部長である備後君が立ち上がった。キャットウォークの上から一年生たちを見下ろす。向かい合う両者を市ノ瀬君や倉橋さんも心配そうに見つめていた。

「どうして、そんなことしようと思ったんだ」

 彼の声は低く冷たい。

 けれども怒りだけでは言い表せない感情が乗っている。きっと、最初に不法侵入に乗り出した自分たちの代に対する自責もあるのだろう。

 一年生たちは「ひッ」と身を縮めながらも、

「俺たちが入部したての頃、先輩がたに倣って坊主頭にするって提案したじゃないっすか。絆の証みたいで憧れてたんすよ。そしたら先輩たちは声を揃えて反対した。あとで理由を知って納得しました。あれは絆の証じゃなかった。それでも一年生だけ仲間外れになるのは嫌だったんで、それなら一緒に背負おうと思って、勢いで……本当にすんませんでした」

 もう一度深謝する一年生たちを前に、備後君は唇を噛みながら小さく頷いた。部の責任者として、成すべき仕事とそれに対する覚悟が決まったようだ。

「分かった。顧問の先生にも謝罪しよう。僕も一緒に行くよ」

「それならさっき行ってきました。正直凄く怖かったっす。全校生徒の前で謝罪とか、試合出場停止処分とかで先輩方にも迷惑をかけることまで覚悟の上だったんすよ。あの人ならやりかねないっすから。でも『次やったら廃部』の一言と、一年生のみ三日間の部活動停止だけで済みました」

「……本当に?」

 素っ頓狂な声が備後君から上がる。

 久慈君と市ノ瀬君も、耳を疑うような顔つきになった。さらには状況を飲み込めていなかった美咲までもが目を丸くしている。倉橋さんに至っては「ありえない」と小声が漏れていた。

 そこまで驚くものだろうか。

「はい、本当っす。先生曰く『生徒たちが夢中で励んでいるものを無理矢理取り上げるのは気が引ける』とのことで、他は何も教えてくれなかったっす」

「そうか。いや、軽罰で済んだのはありがたいけどさ……」

 ここにいる全員がどこか煮え切らない様子だった。まるで前代未聞の珍事に遭遇したかのように、どう解釈をしたものかと戸惑っている。その理由について確証はないがある程度なら見当がつく。

 私だけがを行っているからだ。それも、つい昨日。

 隣で固まっている久慈君の腕をちょいちょいとつつく。憶測が正しいかを確認するためには、この質問で充分だ。

「バスケ部の顧問の先生って、誰なの?」

 久慈君の口から聞こえたのは、想像通りの名前だった。

「鬼軍曹こと佐内先生だ」

 ——やっぱりそうか。

 私が納得するのと同時に午後の授業を知らせる予鈴が響いた。備後君の「教室に戻ろう」との一言で、一年生たちはそそくさと体育館を後にする。私たちもそれに続いた。

 人の行き交う廊下を進みながら、私の中にはある決意が芽生えていた。



 迎えた放課後。覚悟は出来ている。

 私は国語科準備室の引き戸をがらりと開いた。狭い一室の両脇には本棚がそびえ立っており、収まり切らない資料は床に平積みされている。その最奥の机に、目的の人物は鎮座していた。キャスター付きの椅子が回転すると同時に一本に結いた髪が遠心力で揺れる。ポニーテールよりもまげと表す方が、この人には好適であるように思える。

「春峰か。珍しいな」

「そうね。二人きりなのは昨日以来だけど、この部屋には初めてお邪魔するわ」

 転入初日、私は佐内先生に敬語を極力使わないよう指示された。曰く『どうにも慇懃無礼に聞こえてしまう』とのことらしい。ひどい言われようだとは思いつつ、楽なので従うことにしている。それを言うなら佐内先生こそ横柄親切の権化みたいな人だ。足して二で割るくらいが適量なのかもしれない。

「それで何の用だ? 昨日とは違って仕事は何一つ頼んでいないはずだが」

 切長の瞳がこちらに向く。

 薄化粧に上下ウィンドブレーカーという出立ちを加味しても、佐内先生は美人の部類に入る。だからこそ目が合った際に有無を言わせぬような凄みを感じるのだろう。それでも懺悔を完遂した男子バスケ部の一年生たちはさぞ勇敢だったに違いない。

「ひとつ聞きたいことがあるの」

 一呼吸置いてから私は尋ねた。

「夢中になることって、そんなに重要なことかしら」

 思えば昨日から『夢中』に振り回され続けていた。

 夢中で絵を描いていた美咲。美咲に夢中だった久慈君。私は絵のモデルの正体を導くことに夢中だった。そして佐内先生を含む何人かが夢中な私を肯定し、後押しまでしてくれた。

 何かに夢中にならずとも生きていける上に、義務教育を滞りなく受けることもできる。昨日までの私がその証人だ。けれども私の周囲、とりわけ佐内先生は『夢中』であることに価値を見出している。ノートを届ける仕事を忘れたことも、バスケ部の一年生が起こした事件も。全てが『夢中』の前では些事であるかのように扱う、その真意は何だろうか。

 答えは非常にあっさりとしたものだった。

「人によるだろうな」

「えっ?」

「夢中であることが大事か否かは人それぞれだ。無理に価値観を押し付けるつもりはない。だが、あくまでも私は何かに対して夢中になることは人生において意味のあるものだと思っている。そして夢中の先に何が待っているのか——」

 戸惑う私に、先生はぐいと顔を近づけて言った。

「——それは君たち自身で見つけてくれ」

「私たち、自身?」

「ああ。夢中になった者の最終到達点は、栄光か失速か、はたまた別の何かか。その答えを知っているのは未来の君たちしかいない。そうだろう?」

 これ以上語ることはない、とばかりに佐内先生は立ち上がった。足早に退室する先生の背中を見送る際、もう一件だけ用事があったことを急に思い出す。

「ねえ先生。これは別件なのだけれど」

「……どうした?」

「職員室で私の妙な呼び名が飛び交っているって本当?」

「呼び名……ああ、あれか。確か『女——」

「言わなくていいわ」

 どうやら本当だったらしい。倉橋さんのほら話かもしれないという希望的観測はここに潰えた。

 途方に暮れる私に、佐内先生は苦笑とともに頷く。

「分かった。私の方で鎮火しておく」

「ありがとう」

 頼もしい担任教師は、鼻歌混じりに指関節を鳴らしながら職員室の方向へと歩き去った。すれ違った別の生徒が、その姿に「ヒッ」と小さな悲鳴を上げる。

 相談する相手を間違えたかもしれない。

 瞬時にそう悟った私は、一刻も早くこの場から退散することにした。



 昇降口に差し掛かる手前。階段を降りる最中、私の耳が妙な噂話を捉えた。

「それにしてもさー、なんで私は『倉橋さん』なのに美咲は名前で呼んでくれるのかな?」

「前は私も『渡合さん』でしたよ。でもある時、しつこく頼んだら渋々名前で呼んでくれました。心寧ちゃんも試してみたらどうですか?」

「なるほど、芽吹って意外と押しに弱いところあるからねー。いつか使えそうだから覚えておこう」

 使うな。

「お、噂をすれば。犬も歩けば名探偵に当たる、なんてねー」

 背後から上がった声は、倉橋さんのものだった。隣には美咲の姿もある。

「別に、私は名探偵じゃないわ。ついでに女傑でもない」

「そうですか? 謙遜するようなことないと思いますよ」

 ふわりと微笑む美咲。私が佐内先生の元を訪れている間、倉橋さんから事件の全容を聞いていたらしい。またあれこれと吹聴されては困るので、お喋りな悪友には釘を刺しておく必要がありそうだ。

 昇降口には、昨日と同じく注意喚起の張り紙が貼られていた。何人もの生徒が掲示板の存在を気に留める様子もなく颯爽と下駄箱へ向かう。長々と眺めている物好きは私たちを除いて一人もいなかった。

「あの絵一枚から全てを解き明かすなんて、並のことではないです。もう少し、誇ってもいいと思いますよ。それに——」

「それに?」

「友人が名探偵という前提のもとで過ごしていたら、毎日がちょっとずつワンダフルになると思うんです。だから、主に私たちのために名探偵でいてください」

「あっはは、それ最高ー!」

 単に面白がっているだけだった。

 相変わらずの友人たちにため息が漏れる。けれども、こうして過ごす日常に不思議と安堵を覚えていた。妙な呼び名があろうとも、くだらない謎に翻弄されようとも、私はごく一般的な女子中学生だという事実に変わりはない。そう実感できる。

 遠く体育館から聞こえるバスケ部の練習の音に乗せて、私は小さく呟いた。

「あなたたちが望むなら、少しだけ考えておくわ」

「ん? 芽吹ちゃん、何か言いました?」

「何も。お気になさらず」

 校舎の外は、いつの間にか晴天に戻っていた。

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