抱きしめてほしいひと

 尚孝の妻はもうふた月も前から、病院のベッドの上で絶対安静の生活を余儀なくされている。

 病気ではない、ということだけが唯一の救いであった。

 街でいちばん大きな再新設備の整っている大病院で、万一の事態にもすぐ対応してもらえることも、尚孝の心の負担を軽減させていた。


 もうすぐ尚孝と妻の菊子は、「父」と「母」になる。


 七ヶ月目で切迫早産しかけたときには、どうしてよいのか勝手がわからず生きた心地がしなかったが――なんとか九ヶ月目までこぎつけた。あとは多少未熟で生まれても、今の医療技術なら充分育ってくれるだろう、そう尚孝は思っていた。


 これからは家族が増える。子育てにはいろいろと物も入用になってくる。

 幸い職場の先輩からベビーカーや音のするおもちゃなどのお下がりを貰った。多少古びていたが、問題なく使えそうだった。


 尚孝はとにかく働いた。残業も進んで引き受け、精力的にこなした。

 妻は病院にいるため、早く帰ってもがらんとした部屋が寂しくて耐えられなかった。

 結婚する前は一人暮らしの自由な暮らしを満喫していたはずなのに――もはやひとりでいる生活には戻れない。そんな自分が少々情けなくも感じられた。

 しかしそれだけ妻・菊子の存在が大きいということであり、彼女と、二人の間に出来た愛しい子供のために、という大義名分を持っての労働はどんなに働いても働きすぎと感じることはなかった。



 病院の面会時間は午後八時までだった。

 尚孝はその時間に間に合いそうなときは病院に寄っていくようにしていた。

 毎日というわけにはいかなかったが、少なくとも一日おきには菊子の好物のチョコレートケーキを携えて、くたびれたスーツ姿のまま産科病棟を訪れた。


「あ、おかえりー。尚孝」


 六人部屋の角から、菊子は陽気な声を出す。

 それぞれがカーテンで仕切られただけのつくりで、時々隙間から見知らぬ顔が見えた。

 産科の病室は入れ替わりが激しい。短い人は一週間もせずに退院していく。菊子のように何ヶ月も入院しているのは少数派だ。


 大きなおなかを押さえて菊子はゆっくりと起き上がる。

 腕には二十四時間刺しっぱなしの点滴の管がテープで固定されている。トイレに行くときも点滴剤を下げたキャスター付のガートル台を引きずっていかなければならないらしい。

 尚孝はその妻の姿をみるたびに、不謹慎ながらも男でよかったと思っていた。もちろん、子供を無事に産むことがどんなに大変なことか、自分の身に降りかかって初めて理解できた。


 尚孝はケーキ屋の包みを備え付けの小さな冷蔵庫の中に押し込んだ。

 側にあった安物の丸椅子に無造作に腰掛け、淡々と言葉を交わす。

 家にいるときとは違って、何でも思ったままに会話をするというわけにはいかない。時間も限られているし、カーテンを隔てた向こうには見知らぬ人間もいる――。

 尚孝は軽く息をついた。


「あさって、朝イチで札幌へ出張なんだ」


「札幌? いいねえ。美味しいチョコレートが食べたいな」


 菊子は楽しそうに夫の話に耳を傾けている。

 何も遊びに行くわけではない。


「戻るのがさ、最悪来週のあたまになりそうなんだ」


「来週? ――そう」


 菊子の瞳が二度ほど大きく瞬いた。

 これまでも何度か長い出張もあったので、驚いているという反応ではないらしい。

 明らかにガッカリした様な、虚ろな目だ。

 不安なのだろう。

 尚孝は努めて明るい声を出した。


「早くカタが着けば、その分早く帰ってこれるよ。金曜には、葉子ちゃんがここに必要なものを持ってきてくれるから」


「あの子来るの? わざわざ、悪いわねえ」


 葉子は妻の妹で、尚孝にとって義理の妹に当たる。

 尚孝と菊子は中学の同級生だった。そのため、尚孝は妹の葉子のことも結婚するずっと前から知っていた。


「観光がてらでちょうどいいじゃないか。葉子ちゃんももう大学生だし、心配しなくても大丈夫だよ」


 菊子にしてみれば妹の葉子はまだまだ子供、らしい。多少心配そうではあったが、久しぶりに会えるのが分かって嬉しそうに笑っている。

 義理妹に頼んだのは正しい選択だった、と尚孝は思った。


「じゃあ俺、もう行くわな。明日は出張の準備があるから、顔出せないかも」


「いいのいいの。私のことは気にしなくても平気だから。気をつけてね」


「うん。じゃあ、また」


 そう言って、尚孝がカーテンの外へ出ようとすると。


「あ、――ねえ」


「どうした?」


 尚孝は妻のほうを振り返った。


「お土産のチョコレート、忘れないでよ?」


「分かった分かった」


 そんなことか――と尚孝は軽く受け流した。


「尚孝」


 菊子が病室を出て行こうとする夫を、三度呼び止めた。

 白く細い腕が手招く。点滴の管が外れぬよう、そっと手首を動かし、菊子は尚孝を引き止めた。

 ベッドの足側の柵に軽く手を付き、尚孝は妻の顔を正面に捉えた。まだ何か言い忘れたことがあったのだろうか――。

 しかし菊子は尚も手招きを止めようとはしなかった。


 尚孝が枕元へと寄ると――。

 菊子の腕が、尚孝の腰に回された。

 大きなおなかでベッドに横たわる不自然な体勢で、点滴の管ごと尚孝を抱き締めてきた。

 不意の出来事に、尚孝は面食らった。もちろん、見知らぬ異性に抱きつかれたわけではないのだが――。


 長い長い抱擁だった。

 尚孝はただ妻の行動に身を任せていた。


「安心――した。……もう、大丈夫。大丈夫だから。私もこの子も、頑張るから。尚孝が帰るの、待ってるから」


 彼女が本当に必要としてるのは。

 それは口に出さなくても、尚孝も充分解っているつもりだ。


「チョコレート、一杯買ってきてやるから。菊子も頑張れ。――な?」


 ここが一人部屋だったら、周囲を気にせずに抱き締めてやれるものを――尚孝は照れながら菊子の頭を撫でてやった。それが精一杯だった。




 札幌での仕事は思ったようにはかどらなかった。

 早く切り上げるどころか、さらに数日延びそうな怪しい雲行きさえしていた。

 かれこれもう、四日目だ。


「嶋口様に、御社の企画室長様からお電話が入っておりますが」


 ちょうど昼の休憩にさしかかろうとした時だった。

 出張先の会社の受付から、電話を取次がれた。相手は尚孝の会社の人間だという。


『嶋口、お前携帯はどうした』


「携帯? ……ああ、プレゼンの間は留守電にしてますけど」


 尚孝の直属の上司だった。もちろん今回の出張の目的も知っている。

 プレゼン中の携帯には出ないというのが暗黙のルールであることくらい、上司も知っているはずなのだが――尚孝は腑に落ちないまま、素直に答えた。


『今しがた、妹さんからお前に電話があったぞ。お前の奥さんの容態がどうとか言ってたんだが……』


「……容態? って、そんな――」


 予想外の言葉だった。

 急いで携帯をカバンから取り出すと、履歴一杯に妻の妹の番号が入っていた。

 かけてみるが繋がらない。尚孝は留守録のメッセージを聞いた。


『何で出てくれないの……お願い尚ちゃん! 連絡早く頂戴!』


 葉子は涙声で叫んでいた。

 一体何が起こっているのか――尚孝はもはや想像つかなかった。


 しかしまだ午後のプレゼンが残っている。契約まであと一歩という正念場だ。

 これが決まれば億単位のお金が動くのだ。会社の利益にとって尚孝の責任は重大だ。


 菊子は病院にいるのだ。どんな事態にも対応できるように、大きな病院へ――だからそうそう取り返しのつかないことにはならないと、知らず知らずのうちに過信してしまっていた。


 尚孝の中の菊子は、苦しんでいる。うめく声が聞こえてくる。とっさに耳をふさいだが、苦悶の声は止むことはない。


 ――頑張るから。私なら大丈夫だから。


 いつもそう言って、明るく振る舞うのだ。心配かけさせまいとする妻の気性は、尚孝が誰よりもよく知っている。

 突然、四日前の夜、最後に病院で会った菊子の姿を思い出した。


 こうなることをまるで予知していたかのような――。




 取引先の重役で今回のプロジェクトの責任者である男に、尚孝は頭を下げた。


「今回のプレゼンがどんなに御社にとって重要な意味を持つものか充分承知しております。お願いです、あと一日いや、半日お時間をいただけませんでしょうか。すぐに私の代理のものを飛ばせますので……」


「予定ギリギリのスケジュールでこのプロジェクトが進行していることは、嶋口君、君が一番よく知っているはずだが?」


 語調が鋭い。恐る恐る顔を上げるとそこには、何を訳の解らないことを言い出すのだ、という訝しげな表情があった。



『お願い! 尚ちゃん』


 葉子の叫ぶ声が、尚孝の頭の中を巡っていく。



 尚孝は再び、深々と頭を下げた。


「身重の妻を一人残してきております。理由あってずっと入院させております。まだまだ予定は先だったのですが、容態が急変したとの報せが…………」


 相手が黙った。尚孝は頭を下げたまま、続けた。


「容態が急変って……どういうことなんでしょう。だって……俺、まさかそんな――大丈夫だってあいつが言うから……」


 俺は何を口走っているのだろう――尚孝の中のもう一人の自分がまるで他人事のように自己分析する。

 混乱していた。そうとしか考えられなかった。

 取引先の人間に、こんな私的な事情を洩らしてしまうなんて。

 別に同情をひこうとしていたわけでは決してない。妻と子供のためには、今職を失うようなことがあってはならないのは確かである。


 だか、しかし。

 菊子を失うようなことがあったら――。


 あの日の長い抱擁が、今生の別れの挨拶となるなんて――そんなことはあって欲しくなかった。




「嶋口君、歳はいくつだね?」


 プロジェクトの責任者の声に、尚孝は我に返った。


「え? あ……三十二です――けど」


 突然の質問に途惑いながら、尚孝は頭を上げ、答えた。

 あ、そう――と責任者の男は軽く言った。そして、デスクの上の電話から受話器をとり、ずらりと並ぶ内線用ボタンを一つ押した。

 相手はすぐに出たようだ。すぐに指示を始める。


「可能な限り早く羽田に着く便を一枚、シマグチナオタカで押さえてくれ。歳は三十二で男――これでチケットは取れるはずだな。あと、正面玄関に車を用意してくれるか。お客様を千歳までお送りしてくれ」


 尚孝は驚いた。見開かれた両目は受話器を持つ男の顔に注がれる。

 年齢は航空券を手配するために訊いたのか――余計な説明もなく淡々と物事を進めていくその手腕は、責任者の男の有能さを物語っている。

 尚孝はその心遣いに感動し、そして同時に恐縮した。


「あ、いいえあの、そこまでして頂かなくても」


 責任者の男は最後まで表情は硬かった。

 そして、ゆっくりとひと言。


「しっかりしたまえ、嶋口君。プレゼンは半日だけ――予定を遅らせよう」


 尚孝はもう一度、深く頭を下げた。精一杯の感謝を意を表して。




 千歳空港へ向かう道すがら、尚孝は車の中から何度か葉子の携帯に掛けた。


『もうすぐ、もうすぐ産まれるよ! お姉ちゃんたちの子供!』


 電話の向こうの声の主は、矢継ぎ早に言葉を繰り出してくる。

 やっと連絡が取れたことで葉子が安堵しているのが、尚孝には判った。

 もちろんそれは尚孝とて一緒――。


「菊子はどうしてる?」


『苦しそう、でも頑張ってる。ゴメンね、今はとても話させてあげられないけど……』


 その説明が、尚孝の胸がいっそう締め付けた。


 菊子――菊子。ああ。


「あと二時間したらそっちへ着くから。間に合うといいんだけど」


『とにかく早くね! お姉ちゃん、待ってるから』


「うん――」


 限界はとうに超えている。上手く言葉が出てこない。

 わずかに沈黙が流れた。


『どうしたの尚ちゃん、……泣いてるの?』


「葉子ちゃんが菊子の側についていてくれて、本当に良かった。ありがとうな」


『でも――私じゃ限界があるんだからね?』


 葉子の言葉が尚孝の心に染みゆく。もう既に顔は涙でぐちゃぐちゃだ。

 尚孝は携帯を耳に押し付けたまま、声もなく何度も頷いていた。




 飛行機に乗り込み、出発前の機内アナウンスを聞きながら、尚孝はチョコレートを買い忘れてしまったことに気が付いた。

 しかし、彼女が今本当に待ち望んでいるのは、なめらかで芳醇な味わいのきれいな包装が施された上質のチョコレートではない――はず。


 尚孝は冷静を装い、シートの背もたれに深く身を預け直した。

 そして両腕を組み――上着の袖の上から、自分の二の腕をぎゅうと握りしめた。



     (了)

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恋をするヒトビトへ 真辺 千緋呂 @manobe-chihiro

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