その笑顔がかわいくて

浅葱 ひな

第1話

 今年の春は、全世界規模で蔓延した、新型の感染症のおかげでたいへんだった。

 中学の卒業式は、一斉休校の余波でなくなり、高校の入学式も中止になった。

 俺たちは、新しい年度を迎えても、新たな高校生活を迎えることができずにいた。

 漸く、国内の感染状況が落ちつきを見せ、二ヶ月遅れで高校生活の幕が切って落とされた。俺たちにとっての、新たな年度がスタートした。



 梅雨入りを目前に控えた六月の最初、俺はドキドキしながら校門をくぐった。

 流石に、これだけの人数を講堂に集めて、入学式を行うのは、未だに危険があるのだろう。校長先生の挨拶は、教室のモニター越しに行うのだそうだ。


 教室に入ると、黒板には『入学おめでとう』の文字とともに、席順が記されていた。

 俺は『渡瀬わたらせ』だから、いつも、名前の順では最後なんだと思いながら、自分の名前を探す。窓側から二列目の一番後ろに俺の名前を見つけた。

 隣の奴は? 浅葱? これ、なんて読むんだ?

 俺の隣、どんな子だろう。


 俺が、新たな出会いの可能性にドキドキしていると、次第に同級生たちが教室に入ってきた。


「やったね、窓際だ! ひなとも並んでるし、楽しくなりそうだな」

「わたしも、美亜みあちゃんの近くでほっとしたよぉ……」


 俺と背丈がそれほど変わらない女子の後ろで、明るい茶色の髪が見え隠れしている。その位置は、その女子の胸の下くらいだ。

 ん? 俺のことを睨んでる気がする。俺、なにかしたか?


「なに、わたしの胸、見てんだ?」

「イヤ、見てねぇって、なに言って? あ、悪い、そういうつもりじゃねぇんだ」

「じゃあ、どういうつもりだ!」

「後ろは誰? って思っただけで、決して、胸、見てたわけじゃねぇんだ」


 俺の、その言葉に、彼女の背後から、小柄な女子が顔を出した。

 最初の印象は、っさ! だった。

「あ、浅葱あさぎひなです」

大槻おおつき美亜みあだ。よろしく」

「俺は、渡瀬わたらせつかさ。よろしく」


 俺の隣に座る、小柄な浅葱は、公立中学からの外部入学だって言っていた。

 大槻も同じだと、皆の前で言う。

 しかし、小柄でおとなしそうな浅葱と、背も高くて快活そうな大槻とが、入学早々仲がいいことが、俺には不思議に思えて仕方がなかった。


「ひなとは、わたしが転校していった中学で知り合ったんだよ」

「うん、美亜ちゃんが、転校してこなかったら、わたしはずっとひとりだったかも」


 今、サラっと重いこと言ったぞ。ひとりだったかも? 俺は、浅葱の言葉に疑問を感じたけど、初日に踏み込むなんてことできるわけがない。


 でも、そんな深刻な話を、明るく話せる浅葱のことが、俺は気になったのかもしれない。


 しかし、なんの進展もないまま、二ヶ月が過ぎ、短い夏休みに突入した。

 そして、夏休みも終ろうかという時、少しでも、浅葱の気を惹きたくて、俺は髪を染めた。



 今日から二学期。普段なら、八月いっぱいは、夏休みのはずだった。それもこれも、あの忌々しい新型ウイルスの所為せいだ。

 そんな悪態をきながら、学校へと向かって、自転車をこいでいた。


 道すがら向けられる、刺さるような視線は、俺の顔をスルーして、髪に注がれている。

 少しだけ恥ずかしさは感じていたけど、そんなこと、どうでもよかった。

 浅葱あいつとお揃いだぜ……って言ったら、驚くかな?

 そんなことを考えながら、校門をくぐった。


 俺は、教室の入り口のドアの前で深呼吸をした。

 ドアの向こう側からは、クラスメイトたちの雑談が聞こえてくる。大槻のバカ笑いする声も、そこに混じっていた。

 ということは、同じバスで通ってる浅葱も、もう来てるはずだ。

 だいじょうぶだ、俺。そう、自分に発破を掛けて、勢いよく目の前のドアを開けた。そして、大声で朝の挨拶を叫んだ。


 一瞬にして、静まり返る教室。

 俺を見たクラスメイトの動きが、一斉に固まる。

 入学当初からつるんでいた男友達が俺の頭を指差して、第一声を発した。


「どうしたん? その頭?」

「ん? 染めたんだよ。似合ってんだろ?」


 俺は、口の端を少しだけ上げ、髪をかきあげて見せた。

 目の前にいた友人たちは、俺の髪を見て、浅葱の髪を見て……を、交互に繰り返している。


「何故、今頃、高校デビューなんだ?」

「普通は、夏休み中染めてても、学校始まるときには戻してくるもんだろ?」

「えぇっ、いいじゃん! 浅葱と同じ色だぜ!」


 そう言った瞬間、その場の気温が、3℃下がった気がした。みんなが、浅葱を振り返った。浅葱は机に手をついて立ち上がろうとしていた。でも、大槻の肩に置かれた手によってとどめられた。

 そして、大槻が浅葱に向けた笑顔は、俺まで見惚れるくらいのかわいい顔だった。浅葱に向かってひとつ頷き……。

 大槻が拳を一閃。俺の腹に見事なまでのアッパーカットが炸裂していた。


「今、なんつった?」


 あまりの痛みにのたうち回る俺が、大槻の質問に答えられるはずもなく、一歩、また一歩と、その距離を無慈悲な程に詰めてくる、大槻に恐怖さえ感じた。

 さっき、笑顔がかわいいとか思ったのは取り消そう。


「ひなの髪は染めてねぇって最初に聞いたよな? あん?」

「美亜ちゃん、ガラ悪いよ」

「このくらいやんねぇと、この渡瀬ばかは学習しねぇからな!」

「それはそうだけど……」

「ひなもなんか言ってやれっ!」

「う〜ん、いいよ……もう。美亜ちゃんたちが怒ってくれたから……」


 浅葱が言うように、大槻は、とんでもないほどに怖かった。浅葱が庇ってくれなかったら、俺……、撲殺されてたかもしれない。

 友達連中も、俺のことを取り囲んで睨んでいる。


「あぁ、美亜ちゃん、もういいよ。わたしはだいじょうぶだから。ありがと」


 俺のほうが驚いて、その声の主を見上げてしまった。そこには、小さな肩を震わせた、白と茶色の斑な髪を揺らす浅葱がいた。

 浅葱の最初の自己紹介を漸く思い出した。

 色素が抜けていく病気の所為せいで、こんななんだと。

 普段の浅葱は、いつも元気だし、いつも笑ってて……、病気のこと、微塵も感じさせなかったから、すっかり忘れてた。

 もう一度見上げた浅葱は、涙ぐんでた。


 やっちまったっ!



 その後、教室は、暫くの間、ざわついていた。そりゃそうだ。

 いきなり、銀髪の俺が登場して、大槻に鉄拳制裁されて、みんなに吊し上げられて、浅葱を泣かした。

 衝撃的な、二学期の初日になってしまった。

 そんな中、担任が、教室の入り口で手を叩いていた。


「はいはい、皆さん、席についてくださいね。浅葱さんは許した……、あぁ、その顔は赦してないんだね。じゃあ、そういうことで、渡瀬くんは、こってりと絞られてらっしゃい!」


 浅葱が、頬を膨らませていたのを見つけたのだろう。浅葱のそんな拗ねた素振りでさえかわいいんだけど。

 しかし、先生が親指で指差した先には、教頭先生をはじめ、数人の男の先生たちが待ち構えていた。

 大槻たちは揃って合掌していた。


 教室に戻された俺は、ただ、ひたすら謝りつづけた。

 罰を言い渡した先生たちも、黙認してくれてるみたいだ。だって、授業中以外は、浅葱の隣には必ず大槻がついていて、俺を睨んでる。

 どうすりゃいいんだよぉっ!

 そんなことを、心の中で叫びながらの休み時間。浅葱が、俺に向き合ってくれた。


「解ったから……、もういいよ」


 その言葉を告げる浅葱の唇は、ちょっと尖っている。心なしか、頬も膨らんでる。


「その言い方は、許してくれたんじゃないだろ?」

「どうして、その気ィ使いぃ〜を、さっき言わないかな?」

「ごめん」

「じゃあ、今日一日反省してもらって、明日の帰り、このお店のこのかき氷、ご馳走してください」


 浅葱が、その膨れっ面を困惑顔に変えながら、ボソボソっと呟いた。言い終わった後で、恥ずかしげに、えへへ……って笑ってくれた。その顔もかわいい。

 代替案を浅葱に示してもらえて、助かったのは俺のほうだった。


「そんなもんでいいのか? 安上がり……」

「ブッブーです。わたしが気ィ使ってるてのに……」

「ごめん」

「わたしは、怒ってるって言うより、諦めちゃってるんです。だから……」

「ごめん。俺は、そこに気づかなかった」

「そこに気づいてくれただけでいいよ」



 そして、次の日、約束どおり、ちょっと贅沢なかき氷を食べに行くことになった。

 駅前に着いたら、浅葱のほかに女子連中が一緒に待っていた。男友達に別れの挨拶をしたら、こいつらも笑ってるだけで帰る様子もありゃしねぇ。イヤな予感しかしなかった。

 そして、七人の大所帯になって、目的の店に向かって移動し始めた。


 俺は、男友達に、両肩をガッチリと捕まえられて、小声で責められていた。先を歩いている大槻が、時々振り返り、悪魔のような笑顔を浮かべて、俺を見ている。怖ぇ!


 大槻が、頻繁に後ろを振り返っていることに気づいた浅葱が、俺のことを見ている。その視線を遮るようにしながら、浅葱のことをからかっているようだ。

 あ、浅葱が膨れっ面をして見せる。うん、かわいい。


「ひなのそういう仕草がかわいいんだよ」

「なに? 突然?」

「そういう子どもっぽい仕草がかわいいよな……って話」

「子どもっぽいは酷くない?」

「そうかぁ? でも、そう思ってるのはわたしだけじゃないって思うけど?」


 更に続けた後で、大槻がまた後ろを振り返った。女子連中も笑ってる。



「ひなが渡瀬にご馳走になるんだから、席が一緒は当然だろ? わたしたちは自分持ちなんだからさ」


 大槻の言葉に、浅葱が渋々頷く。俺は、内心、親指を立てて、大槻を褒め称えた。

 俺の目の前に、浅葱が座ってる。小柄な体を更に縮こまらせて座るその姿は、やたらかわいい。


 ちょっと贅沢なかき氷が運ばれてきた。

 浅葱の前のそれは、ピンクや赤や赤紫が輝いてる。たくさんの苺、イヤ、たくさんの種類のベリーと表現したほうがいいのだろうか? その向こうで、瞳をキラキラ輝かせてる浅葱の顔も見える。

 子どもみたいでかわいい……とか言ったら、また嫌われるな。自重自重!


「いただきます」


 浅葱が、そう言いながら、贅沢なかき氷の前で手を合わせていた。俺は、不思議な光景を見たようで、少しだけ驚いた。


「ん? どしたの?」

「ん! 浅葱って、すごい行儀がいいんだなって」

「ふぇ? 普通じゃない? これくらい」

「そうかぁ? 俺、やったことないよ。みんなもそこまでやってないじゃん」


 俺の言葉に、浅葱が周りを見渡している。大槻をはじめ、隣のテーブルの四人も揃って、俺の言葉に同調していた。

 浅葱の小さな声が聞こえた。


「ウチ、厳しかったからねぇ」

「躾がか?」

「違うよ、周りの目がさぁ」

「周りの……目?」

「うん、わたしができないと、周りから言われるんだよ。これだから片親はって。お父さんが責められちゃうんだよ」


 浅葱が、えへへ……と、力なく笑う。それを見て、俺は、自分の頬が熱を持っていることを隠すために、テーブルに頬杖をついた。

 しかし、そんな俺を、みんなが微妙な笑顔のままチラチラと見ていた。更に、俺の頬が熱くなっていく。

 その状況を、浅葱だけが理解できてないようだった。思わず、コテンと首を傾げて、それさえも大槻に笑われている。


「ひなは、これ、素でやるからなぁ。なぁ、渡瀬?」


 大槻が、俺が更に頬を紅くさせてる理由を、俺に向かって直球で放り込んできやがった。

 この、悪魔め! そう思ったことは、俺だけの秘密だ。



 みんなで、贅沢なかき氷を食べた後、大槻が音頭をとって、場所を変えることにした。

 浅葱が、それを苦手そうにしていた。しかし、大槻は、浅葱を宥めつつ、半ば強引に押し切った。


「ひなにも、罪悪感が残ってんだろ? それも解消しとかないと、渡瀬と対等にならないからな。ひなの事情は、わたしが説明しといてやる」


 罪悪感? どういうことだ?

 俺が考えに沈んでると、大槻がひとりでこっちにやってきた。今の話の内容を教えてくれた。

 思わず、大きな声が出てしまった。こっちを見てる浅葱の肩が、小さく震えるのが見えた。

 そして、その大きな声を、大槻に窘められる。浅葱は、突然の大声を怖がるんだと。

 そう言って、浅葱を指さした。その指先を見て、俺は後悔する。また、気づけなかったみたいだ。


 事情を聞かされた俺は、大槻に連行されるように浅葱の前に戻った。

 最初から、大槻には、俺の、浅葱への想いが筒抜けだったようだ。大槻の背後に黒い尻尾が見えた気がする……も、俺だけの秘密にしておこう。


「渡瀬の分は、ひな持ちでいいよな? 渡瀬こいつからの謝罪を、お金で解決したのがイヤなんだろ? そういうわけだから……、渡瀬にも、男のメンツがあんだろうけど、気持ちよく受けてやれよな」


 浅葱は、大槻のそのわざとらしいセリフに即座に頷いて見せた。でも、俺のほうは、まだ釈然としてはいなかった。

 大槻に睨まれた。



 その大槻が、全員分の飲み物をオーダーして、最初にマイクを握る。それをきっかけにして、ほかの友だちも歌い始めた。

 そんな、ほのぼのとした雰囲気の中で、俺から言い出した


「ここの分を、浅葱が出したら、俺、謝ったことにならないじゃん? 俺、それがイヤでさぁ……」


 浅葱が、俺の目をじっと見てる。黙って、俺の言葉を聞いてくれている。

「渡瀬くんは、バイト……とかしてる?」

「いや……」

「なら、さっきのかき氷のお金は、お小遣いからだよね? そんなにたくさん貰ってる?」


 浅葱が聞き返してきた。すごく小さな声で。みんなの歌声で周りには聴こえてないみたいだけど、その声からは、俺の『男のメンツ』を潰さないようにとの配慮が感じ取れた。


「たぶん……、一般的な金額だと思う」

「わたしも、そのくらい。ていうことは、それほど余裕ないでしょ? わたしは殆ど使わないけど、渡瀬くんは?」

「けっこうキツい時もある」

「無駄遣いしてるの? なんて聞かないけど、月のお小遣いの価値って考えたことある?」

「価値?」

「うん、お父さんたちが、それを出すのに、どれくらい働いてるか考えたことある? あ、うちは半日分だって」


 俺は、浅葱の言う、その価値がわからずに首を捻った。


「今度、聞いてみるといいよ」


 浅葱は、ここまで言って、そっと隣の俺の顔を見上げた。小柄な浅葱は、どうしても上目遣いになってしまうのだろう。その姿は、すぐにでも抱きしめたくなるくらいかわいいんだ。あ、俺の理性、まだダメだ。好きって言ってねぇだろ! 自分勝手な妄想が恥ずかしくて、思わず目を逸らした。


 その後、浅葱から手渡されたマイクを握った……ところまでは覚えてる。


 次の日、お昼休みが、もう五分ほどで終わろうかという頃、浅葱を教室の外に連れ出した。教室の入り口では、大槻たちが顔だけ出して、俺たちの様子を窺っているようだ。

 それを、知らないフリをして、大きく深呼吸をして、浅葱のことを見つめた。

 そして。


「浅葱、イヤ、浅葱さん……、お、俺と……、付き合ってくださいっ!」


 一瞬、俺に、なにを言われたのか理解ができなかったような浅葱が、また、コテンと首を傾げた。それを見た俺の頬が紅く熱くなってくる。俺の後方でも、一瞬だけ沈黙があって、そして、いきなりざわめきだした。

 浅葱の頬も、次第に紅くなり始めていた。

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