この楽園のために
蒼村 咲
この楽園のために
まずい。この状況はかなりまずい。
「マジ、おとなしく全部吐いてくれさえすりゃあ痛い目には合わせねえって」
頭の上、遥か高いところからそんな言葉が降ってきた。
私の目の前には今、それこそ逃げ道をふさぐように三人の男が立ちはだかっている。三人とも、なかなかに体格がいい奴らだ。
武術の心得もなく、同世代の女子と比べても小柄な私が力でかなう相手ではないのは明らかだった。
「ほら、どういう戦法で来んの? どんなワザ隠し持ってんの?」
「湯見浦の作戦、詳しーく教えてくんないかなあ?」
さっき口を開いたのとは別の男たちがそれぞれ畳みかけてくる。
どうする? どうすればいい?
私は頭をフル回転させながら相手を観察した。手の内を明かせと要求してくるからには、対戦相手のどこかなのだろうか。でも苗字や学校名など身元の手がかりになりそうな情報は何もない。三人とも、ユニフォームでも制服でもなくただのスポーツブランドのジャージ姿なのだ。
うちは──湯見浦高校バスケ部は、毎度お決まりのように「最近のし上がってきた」と頭につけられはするものの、そこそこの強豪だ。たとえ手の内を全て晒したとしても、そう簡単に攻略されてしまうとは思わない。
だけど、どんな武器だって戦術だって、知られていないに越したことはないのも確かだ。相手に精神的にプレッシャーをかけることもできるし、対策を講じられるまでは優位に立てる。そして当然その時間は、詳細を知られていない方が持続する。
「……っ」
こいつらが対戦相手の身内なのか、それとも情報を売り渡そうと目論む悪意の第三者なのか、あるいはまったくのいたずらや嫌がらせの類なのか、それは私にはわからない。
でも、やっていることがスポーツマンシップに反することだけは確かだ。怒りと嫌悪で体が震えてくる。
「ほらほら、かわいそうに震えちゃって」
「そんな怖がらなくったって取って食いやしねえよ」
ひと気のない周囲に下卑た笑い声が響く。
どうしよう。どうすればいい?
もちろん、仲間を売る気はない。一緒にコートで戦うことはできないけれど、マネージャーだってチームの一員だ。二年間ともに支え合ってきた仲間だ。みんなの頑張りに、私が傷をつけることなんてできない。
でも、いつまでもここで足止めを食らっているわけにもいかなかった。試合本番まではまだ時間があるものの、もしそれまでに戻れなかったら──。
「──!」
なんというタイミングなのだろう。目の前に立ちはだかる三人の遥か向こうに、うちの主将である篠崎の姿が見えたのだ。
まずい。もし今の私の状況に気づいたとしたら、血の気が多く腕っ節の強い篠崎のことだ。後先考えずこいつらに手を上げてしまうかもしれない。試合会場で乱闘騒ぎなんて起こしでもしたら、間違いなくその時点で失格だ。
「あれ~? 黙っちゃってるけど大丈夫?」
「怖くて声も出ないのかな?」
わざとらしい口調への不快感で肌が粟立つ。
と、その時、こちらを振り返った篠崎とまともに目が合ってしまった。その目が驚きで大きく見開かれたのがはっきり見える。
「……っ」
迷っている時間はない。
「す……すいません……あのっ……私、と、途中入部の一年で……まだ入ったばっかで……ルールも勉強中なくらいで……作戦とかも聞いてなくて……わかりません……」
少しわざとらしいくらいに声を震わせ、また怯えた表情を作る。この体の震えが怒りではなく恐怖からきていると思われているのなら、それを利用しない手はない。昔からコンプレックスだった童顔は、きっと今この瞬間に役立つために与えられたものなのだ。
「なので……ごっ、ごめんなさいっ……!」
私はばっと勢いよく頭を下げ、男たちが反応する前にその脇を素早くすり抜けた。とにかく、篠崎のところまでたどり着かなければ。
「篠崎先輩っ……!」
目で「察して!」と訴えかけながら、私は篠崎の隣で足を止めた。本当ならこのまま、篠崎を引っ張ってこの場から走り去ってしまいたい。でもそんなことをすればあいつらに怪しまれかねない。後輩らしく振舞わなければ──そう思いながら口を開こうとした時だった。
「宮野! どこ行ってたんだよ。ミーティング押してんだぞ!」
「──!?」
とっさに篠崎の顔を見上げる。ミーティング開始まではまだ余裕があるはずだ。押しているなんて、そんなわけない。まさか、本当に何かを察して話を合わせてくれている──?
「す、すいませんっ!」
先輩に叱られた後輩らしく私が頭を下げると、彼は件の三人の方をちらりと見た。それから私の腕をパッと掴む。
「とにかく、早く戻るぞ!」
そう言ったかと思うと、篠崎は三人に向かって軽く会釈した。それから、私にだけ聞こえるボリュームで「走れるな?」と続ける。
え!?と思う間もなく篠崎は走り出した。腕は掴まれたままなので文字通り引っ張られながら私も必死に足を動かす。歩幅とそもそもの足の速さが違いすぎて何度か足がもつれそうになったものの、なんとか転ぶことなく人の多い場所までたどり着くことができた。
「──宮野。大丈夫か?」
「ま、まあ……」
肩で息をしながら答える。私が息を整えながら上体を起こすと、篠崎は心配そうにこちらを覗き込んできた。
「気づかなくて……いや気づけなくて、ごめん」
「え?」
篠崎が絞り出すように口にした言葉に、私は自分の耳を疑う。いったい何に謝っているのだろう。何に気づかなかったというのだろう。
「なんで篠崎が謝るの」
すると篠崎は気まずそうに目を逸らし、何かをごまかすように前髪をかき上げた。
前回の大会で三年生が引退し、私たち二年が部の中心になってから早数カ月。篠崎は一見リーダー格だけど、その陰に隠すようにして繊細さも抱えている。血の気の多さは、おそらくその繊細さの裏返しなのだろう。私はそのことを、二年間そばで見て来てよくわかっていた。
「まさか、お前に手を出されるとは思わなかった」
「手? いや、私はただ……」
作戦を吐けと脅されただけだ。正直、あの場では嫌悪や怒りが先に立って、あまり怖さは感じなかった。でも改めて振り返ってみれば、もし篠崎が現れなかったらどうなっていたのだろう。そこまで考えたらひゅん、と胆が冷えて、私はなんとなく両腕を抱いた。
と、篠崎の表情がキッと厳しいものになる。
「え、何?」
気になって問いかけると、篠崎は厳しい表情を崩すことなく口を開いた。
「証拠とか、確証があるわけじゃない。けど……」
一瞬言いよどんだものの、意を決したように続ける。
「さっきのあれ、たぶん『当たり屋』だ」
「アタリヤ?」
一拍の間をおいて、頭の中に「当たり屋」という文字列が浮かんだ。まさか、わざと事故を起こさせて車の修理代や治療費や慰謝料なんかをぶんどるあれのことだろうか。
「噂には聞いたことがあった。選手に暴力沙汰を起こさせて、失格に追い込む。それであわよくば次大会欠場も狙う、って」
「……なに、それ」
本当にそのまさかだった。交通事故が暴力沙汰になっただけで、本質は同じということらしい。
「だから一応、けんかっ早い連中にはくぎを刺しておいたんだ。もしけんか吹っ掛けられたりしても絶対相手にするなって。でも──」
そう、相手はけんかを売ってきたわけじゃない。乱闘騒ぎをこちらから起こさせようとしたのだ。そして私は、そのネタにされた。
「くそっ……!」
まるで私の心中とシンクロしたかのようなタイミングで篠崎が吐き捨てた。それからふっとこちらから目を逸らす。つられて目を向けてみれば、その視線の先にはうちの部員たちがいた。緊張を紛らわすためか、一年も二年も一緒になってやたらとはしゃいでいる。
「……マネひとり守れなくて何が主将だよ」
かろうじて聞こえるくらいのボリュームで、篠崎がつぶやいた。でもどんな顔をすればいいのかわからなくて、私はつい聞こえなかったふりをする。
「……宮野。俺はさ」
名前を呼ばれ隣を見上げたが、篠崎はこちらを見てはいなかった。相変わらずワイワイと楽しそうな部員たちを眺めているだけだ。
「ウチみたいなそこそこの強豪でこうやって部長なんかやってるけど、別に将来プロになるわけでもない」
篠崎が急に何の話をしだしたのかはよくわからなかったけれど、私はとりあえずうなずく。部員の中にはプロになりたいと願う者もいる。けれど篠崎がそうではないのは周知のことだった。
「だからこの部活だって、俺にとっては別に直接何かの役に立つわけでもない。でもさ」
私が黙って続きを待っていると、篠崎はふうっと大きく息を吐いた。
「それでもこれが、今の俺には全てなわけよ」
何の力みもない、自然な言葉だった。そんなこと、今更わざわざ宣言されなくったって知っていると私は思う。あえて口にはしないけど。
「もちろんあいつらのためっていうのも当然ある。けど引き受けた責任とかそういうのとは違う次元で……なんていうか、俺は今自分で選んでこうしてる」
私はついに、「うん」と声に出してうなずいた。篠崎が言っていることがちゃんとわかっていると伝えたかった。
「……この先部活も引退して、学校も卒業して、社会に出るなり進学するなりしたとして。そうなったとき、たぶん何かにここまで無条件に直向きに打ち込めるタイミングなんてもう二度とないと思う」
私も篠崎も、本当の意味ではまだ知らない先のことだ。でもきっとそれが正しいことを、肌で感じて理解している。そしてその限られた時間のことが、俗に「青春」と呼ばれるのだということも。
「それはたぶん、俺にも宮野にも、他の奴らにも同じだと思う。それで、えーと、つまり……この楽園をさ、維持したいわけよ。俺は」
楽園──。
楽しいことばかりじゃない。楽なことばかりじゃない。でも、そうか。これは楽園なのだ。本気になってもならなくても、必死になってもならなくても。プロを目指しても目指さなくても。極端な話、バスケじゃなかったとしても。これは「部活」という名の柵で囲われた楽園なのだ。
「だから──これからは必ず守る。宮野も、他の部員も」
篠崎のそんな言葉に、私ははっと隣を見上げた。それを察知した篠崎もこちらを向く。そして私が何も言えないうちに、篠崎は片方だけ口角を上げた。
「……主将って、そのためのもんっしょ?」
「……!」
別に、かっこつけたわけじゃないと思う。現に篠崎の意識はもう部員たちに向いていて、「おい、はしゃぎすぎて試合前にケガとかマジやめろよ!?」なんて声を荒げている。
私は、いったい何を見て来たのだろう。篠崎は、いつのまにこんなにもちゃんと「主将」になったのだろう。私が思っているよりずっとしっかりしている。後先考えずに手を上げるどころか、こんなにも──…。
でも私は同時に、ああこの
二人でこんな話ができたのは、篠崎が私に心を許してはいても、心を寄せてはいないからだということを、私はわかっている。でもそれがどうしたっていうのだろう。篠崎がここで主将として全力を尽くすのと同じに、私だってここで全力を尽くすだけだ。
「……それでこそ主将、よね」
私はぽつりとつぶやく。部員たちに気を取られている篠崎に聞こえたかどうかはわからないけれど。私は一瞬だけ、静かに目を閉じた。
篠崎が守ると言ったこの儚い楽園と、ここで今を生きるみんなを、私だって守りたい。だから最後の日まで、私は「主将」を支えようと思う。
そのために、今は心の中で叫んで終わりにする。
助けに来てくれてありがとう。
私を探しに来てくれて、見つけてくれてありがとう。
この楽園のために 蒼村 咲 @bluish_purple
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