初恋は醤油の匂いとともに
蟹味噌 崇太郎
初恋は醤油の匂いとともに
海が見えてきた。
携帯電話をポケットから取り出し香織はその景色を写真に撮った。
その写真をSNSに上げようとしたが、香織は携帯電話をカバンの奥の方にしまった。
(みんなに見せると価値がなくなっちゃうような気がするんだよね。)
今、香織は山陰の漁村にある祖母の家に遊びに行く途中だった。
香織が小学一年生の冬、彼女の住んでる地区を大きな地震が襲った。
不幸中の幸いで、彼女の周りで大きな被害を受けた人はいなかったが、当時彼女が住んでいたアパートはボロボロになってしまいとても住める状態ではなくなってしまった。
水道や電気といったライフラインもしばらくは復旧せず家族は避難生活を余儀なくされた。
地震から数週間後、香織だけが父方のおばあちゃんの家に預けられることとなった。
父親は地元に残り、母と弟とまだ赤ん坊だった妹は母方の祖母の家に預けられることとなった。
香織は祖母のことが嫌いなわけではなかったが、その時は「なんで自分だけ一人で。」と思った。
しかし、幼いながら今はそんな我儘を言ってはいけないと、親からのその提案を受け入れたことを覚えている。
それに、両親の実家はそれぞれ電車で一本の隣村同士にあり、楽観的な彼女は寂しくなったらすぐに会いに行けばいいや、と考えたのである。
後々聞いたことだが、あの頃は学校がいつ始まるかもわからず、震災により自営業の父の収入も断たれ、我が家だけの力では今まで通りの生活を維持できないということだった。
かといって全員を片方に預かってもらうわけにもいかず香織だけ父方の祖母の家に預けられることになったのである。
(だけどまあ、都会の一駅と違って田舎の一駅ってのは遠いんだ。)
昔、隣村にいる母に会いに行くために電車に乗ろうとしたが、気が変わり線路沿いをひたすら歩いて行ったことがある。
つらくはなかったがとんでもなく遠かったことを覚えている。
母のもとに着いたとき、自分では何かすごいことをやり遂げた気分だったのだが事情を話すと母にこっぴどく怒られた。
母方のおばあちゃんだけが氷の入った少し濃いめのカルピスで、香織の偉業を讃えてくれた。
残念ながら母方の祖母は数年前に他界していた。
電車から降りた香織は電話を取り出して祖母の家に電話をした。
呼び出し音が何度も鳴ったが祖母は一向に出てこない。
駅からそんなに離れていないこともあってすぐに祖母の家に着いた。
縁側の戸は全て開いており、電話の着信音が家の中から聞こえてきた。
いまだ祖母の家は黒電話が現役である。
「おばあちゃんただいまー!」
縁側の戸は開いていたが、香織は一応玄関から入った。
電話はまだ鳴り続けている。
「おばあちゃんただいまー!」
奥の方で草履の音が聞こえて黒電話の音が止んだ。
「はぁあい、もしもしぃ。」
家の中と香織の携帯電話からほぼ同時に祖母の声が聞こえた。
香織はおかしくなり笑いをこらえながら祖母に近づいた。
「おばあちゃんただいま!」
「あ、あんれぇ!いつ着いただかぁ。連絡くれりゃあ迎えに行っただにぃ。」
「今着いたとこ。」
「香織、ちょっと待てな。今お客さんから電話だけぇ。」
香織はおかしくってたまらなかった。
そして目の前の光景がどこか懐かしく、鼻の奥の方がツンとした。
「もしもしぃ。すいませんねぇ。……ありゃ、きれとるわぁ。」
祖母はガチャリと受話器を置いた。
久しぶりに祖母と会った香織は近況を話した。家族のこと、現在研究者として勤めている施設のこと、他愛もないことをたくさん話した。
縁側にいると海からの風が入ってきて気持ちいい。
クーラーもあったが祖母は冷房が嫌いで一人の時は全くつけずに家中の窓や戸を全部開けて涼を取っていた。
一度、物騒だから閉めたほうがいいよ、と言ったが、
「なあんにも取るもんがない家だに、泥棒なんか入ってこやせん。」
と笑われた。
「香織も秋からこっちで働くんじゃろぉ?どうせならここに住みゃぁええに。」
実は香織が遊びに来たのには理由があった。
現在研究者として働いている施設から転勤を言い渡されたのである。
香織の行っている研究は自然を相手にしたもので、都会よりも田舎の研究施設の方がより専門的な研究ができる。
つまり、都会から自然の豊かな田舎へ行く事のほうが栄転となるのである。
その転勤先が祖母の家から車で30分もかからない所だった。
「ここもいいけど流石に田舎すぎるもん。」
ということで香織は入居先を探しに来たのである。
「だけどあんた車持ってんだろ?そんだったらどこでもええが、金がもったいないがぁ、飯はおれが作ってやるけここに住みゃあええ。」
祖母は一人称に(おれ)を使う。
「寂しくなったら遊びに来るから。」
祖母は子どものようにむくれた。
「だけど、ここら辺はあんまり変わんないねぇ。」
話題を変えようと香織は口にした。
「そがなこともないがぁ。ここらの店なんかもっとたくさんあったけど、みぃんな畳んだがぁ。子どもらはみぃんな都会に出にゃあ仕事がないで仕方ないわな。」
ここ数年でお付き合いのあった人が結構亡くなられたらしい。
後になって近所を歩いてみたら人が住んでた頃の面影を残したまま空き家になっている家が結構あった。
「おばあちゃん、買い物はどうしてるの?」
「買い物は宅配でやってもらっとるのよ。じゃから香織がおらんでも大丈夫じゃ。」
祖母は強がりなのか嫌味を言ってきた。
なんでも週に一度村役場で寄り合いがありそこでネット注文するらしい。
「まぁ、店なんかはだいぶつぶれたが、松浦の醤油屋な、倅が、帰ってきただよ。」
香織は予期せぬ祖母の報告に驚いた。
「松浦さんとこの倅ってあたしをよく学校まで送り迎えしてくれてた?」
「そうそう、よく香織を世話してくれとった、あの子よ。名前は忘れたけど優しい子だったがぁ。」
香織も名前は思い出せない。
名前どころかどんな顔だったのかも思い出せなかった。
ただ、こっちに来たばかりで何も知らなかった自分に付きっきりでいろいろ世話をしてくれたことは覚えている。
長女だった香織は彼の事を「お兄ちゃん。」と呼びほぼ毎日、付きまとう感じで彼に接していた。
年は香織が一年生の時に六年生だったから五つ年上だった。
顔も名前も忘れてしまっていたが香織にとっては彼が初恋の相手だった。
それは今でも覚えている。
当時の感情は単なるお兄ちゃんとしての感情だったのかもしれないが、小学校も高学年になり恋愛感情がなんとなくわかる頃になると、あれは間違いなく初恋だったと認識するようになった。
登校時、香織はいつも行きがけにお兄ちゃんの家に寄った。
お兄ちゃんはいつも玄関の戸を開けて元気におはようと挨拶するのだった。
奥からは醤油の甘い匂い、お兄ちゃんからもその匂いはしていた。
人の思い出はいろんな匂いとともに記憶されている。
香織にとっての思い出の匂いは醤油の匂いだった。
子どもの頃は醤油の匂いとともにお兄ちゃんのことを思い出していたように思うが、いつ頃からかお兄ちゃんのことは思い出さずに醤油の匂いを嗅ぐと祖母の家で生活していた頃を思い出すようになった。
「しばらくは都会に出て仕事しとったらしいが、戻ってきて継いだらしい。うまくいかんかったんだかなぁ、都会の暮らしが。先代は顔には出さんが安心しとっただに。自分の代で畳むのはつらいと言っとったけぇ。」
聞くと明治から続く由緒ある醤油屋だったそうでお兄ちゃんが無事に継ぐことになると四代目となるらしい。
お兄ちゃんが初恋の相手だったと香織が思うのには一つの出来事があったからである
。
緊急避難先としての祖母の家での暮らしは一か月ちょっとだった。
つまりお兄ちゃんと学校に行っていたのもそれぐらいだったのである。
クラスでは一か月一緒だっただけなのに香織のお別れ会をしてくれた。
お別れ会の記憶はほとんどないが、その時もらった寄せ書きはまだ実家に残っているはずだ。
お兄ちゃんと別れる時も湿っぽい別れではなかったように思う。
「香織ちゃん。次は盆に帰ってくるんだろ?だったらまたその時におしゃべりしようね。」
お兄ちゃんは香織としゃべるときは方言を使わず標準語でしゃべっていた。
その時は何も思わなかったがやはりお客さんとして扱われてたんだろう。
もしかしたら向こうの両親から「優しくしてあげないとだめよ。」と注意を受けていたのかもしれない。
そう思うと十年以上も昔のことなのに香織の胸はチクリと痛んだ。
地元に帰り、小学校二年になった盆休み、香織は家族と一緒に祖母の家へ遊びに行った。
両親は大量のお土産を持参していた。
今回の帰省はお世話になった人たちへのお礼行脚も兼ねていたのである。
松浦醤油店に着いたとき両親と一緒に香織も挨拶をした。
その時お兄ちゃんは部活に行ったとかで家にはいなかった。
お兄ちゃんは中学一年生になっていた。
その後、毎日のように香織は海水浴をしたり花火をしたりして、お兄ちゃんのことなど完全に忘れていた。
初恋だったとはいってもそれは後からそう認識したことで、まだ精神的に少女だった香織にとって初恋なんかよりも遊ぶことのほうがよっぽど価値のあることだった。
何日かして、浜辺で盆祭りが開かれた。
海岸の防波堤沿いには屋台が並び、村中の人間が浜で一晩中太鼓を囲み盆踊りを踊ったり花火をしたり、この日はこのちっぽけな村のどこにこれだけの人が住んでるんだと不思議に思うくらい賑わうのである。
香織もこの日は浴衣に着替え盆祭りに出かけた。
浴衣を着ただけで少し大人になった気分になりワクワクした。
父親と手をつなぎながら歩いていると前の屋台でお兄ちゃんを見つけた。
不思議と声が出なかった。
声をかけるどころか父親の後ろに隠れてしまった。
不思議に思った父親は香織を抱っこしてくれたが、香織はお兄ちゃんに気づかれるのが嫌で父親の胸に顔をうずめた。
(なんで、あの時、声をかけられなかったんだろなぁ。)
お兄ちゃんは中学生になったこともあって大人びて見えた。
大人になったお兄ちゃんに尻込みをしたのだろうか。
それとも声をかけて向こうが覚えてなかったらどうしようと思ったのだろうか。
何にせよ、あれだけ仲良くしていたお兄ちゃんにしゃべりかけることは出来なかった。
しばらくすると彼は屋台で買ったイカ焼きかフランクフルトだかを持って仲間の男の子と一緒にどこかへ消えて行ってしまった。
(あれが私にとって最初の失恋だったなぁ。)
一方的な初恋に、これまた一方的な失恋。
向こうにとっては迷惑な話である。
香織はあることを思いついた。
「おばあちゃん、そんな話をして、もしかして醤油買ってきてほしいの?」
「醤油?なぁんでぇ。まぁだのこっとるがぁ。」
「いいからいいから、松浦さんとこのでいいよね。」
「んまぁ、そいだら一本だけ、」
祖母の言葉の終わらないうちに香織は家を飛び出した。
「あぁんた、お金はぁ!」
叫んだが香織はもういなかった。
松浦醤油店は変ってなかった。
店の前にある宅急便の看板も当時のままだった。
玄関を開けて中へと入る。
醤油のふわっとした匂いが香織の鼻を包んだ。
家の奥の方が醸造所になっており、入ってすぐのところには醤油や漬物、変わったところでは醤油アイスなんかも置いていた。
香織はリベンジを考えていた。
緊張のせいか胸がドキドキしていた。
(ここまで駆け足で来たからだわ。)
と、もっともらしい言い訳で自分を落ち着けようとしながら香織は商品を見て回った。
(気づかれてないかしら。)
まだ、誰にも接客されていないのに気づかれていないかなどと心配しながら香織は出来るだけ平静を装った。
(通りすがりの旅行者に見えるように振舞わないと。)
しばらく商品を眺めているうちに香織はその種類の多さに感心し、完全に通りすがりの旅行者になってしまっていた。
「いらっしゃぁい。」
声をかけられ振り向くと、母と同じくらいの優しいおばさんが立っていた。
「なぁんでも見てってくださいねぇ。」
そう言っておばさんはレジに座って何やら作業を始めだした。
沈黙がその場を包む。
香織はその沈黙に耐えられなくなり醤油アイスを一つ持って行った。
「ありがとうございます。お姉さんここらの人じゃぁないねぇ。」
気づかれた!?
香織の胸がまたしてもドキドキしだした。
「え、え、ちょっと旅行に来て、いい感じのたたずまいだったので、」
「なぁんにもないとこでしょう。寄ってってくれてありがとうねぇ。あぁ、アイス、ここで食べていきますぅ?」
「え、あ、はい、じゃあ、ここで食べさせてもらい、…ます。」
店の隅に置いてある椅子にヘナヘナと座り込んだ香織をニコニコ見ながらおばさんはスプーンを持ってきてくれた。
(まただ、また何も言えないまま終わっちゃう。)
おばさんは何を言うわけでもなくニコニコしながらレジで作業を続けていた。
香織は何となく店の柱や天井などを堪能してるような雰囲気で眺めていた。
その様子は完全に通りすがりの旅行者だった。
「ごみはそこに置いといてねぇ。」
「あ、はい。…あの、ここのお店は長いんですか?」
(違う、そんなことを聞きたいんじゃない。)
「見たところ柱とかすごい年期入ってるので。」
(柱のことなんか、わからんだろ。いい加減にしろ。)
「そうねえ。あたしの主人が三代目で今、息子が修行中で、四代続くことになるから老舗と言えば老舗なんだけど、どうなんでしょうねぇ。」
(だめだ、おばさんは完全にあたしのこと旅行者だと思ってる。)
「この世界は昔からやってるとこばっかりだから老舗しか残ってないからねぇ。」
(今言わないと、今言わないと!)
「あら、お客さん、アイス溶けていってますよ。」
香織は意を決して椅子から立ち上がった。
「あ、あの!あたし!覚えてますか!あたし!覚えてますか!」
と同時にレジの奥の襖が開き三十代半ばの男が顔を出した。
「あ、いらっしゃいませ。あんね、母さんこれなんやが…」
香織はギョッとしてブレーキをかけたが口にシグナルが伝わるのがほんの少しだけ遅く、
「香織です!昔!小学校の頃、息子さんにお世話になった!香織です!」
香織の上ずった叫び声が店中に響いた。
祖母が夕食の支度をしていると香織が疲れた様子で帰ってきた。
「ありゃ、香織、遅かっただなぁ。醤油買ってきただか。」
「……あ、醤油忘れてた。」
「なしてだかぁ、醤油屋に行って醤油忘れるって。」
「……あの、おばあちゃん。」
「ん?どがしたの。」
「……やっぱり、転勤してしばらくはここに住んでいいかな。」
香織の周りは醤油の匂いでいっぱいだった。
初恋は醤油の匂いとともに 蟹味噌 崇太郎 @kanimisoman
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