Don't give up on love

水綺はく

第1話

「華、自分を信じて。あなたなら出来る。」

 カミーラが私の手を握ってそう言った。

グレーの瞳で私の目を真剣に見つめるカミーラ。私はカミーラの長い赤毛を一瞥してから彼女の目を見た。

頷くと私は目を閉じて深呼吸する。

練習通りやればいいのよ。

今は彼女のことを考えては駄目。

自分の演技だけを考えればいい。

私は私のベストを尽くす。そうすれば自ずと結果が現れるはず。

観客の歓声が聞こえる。エヴァの出番は私の次だ。

昨日とは逆の順番。昨日はエヴァの次に私が滑った。

昨日のショートプログラムは出来が悪かった。二個目のジャンプの三回転ループで転倒した。普段なら考えられないミスだ。

ジュニアデビューシーズン。今回が二回目の国際試合。私には後がない。

ISUジュニアグランプリシリーズ。

由緒正しき国際スケート連盟の定義する世界選手権シリーズだ。

シニアにも同じ定義の試合が存在する。

私は今年初めて十四歳でこのシリーズの出場選手に選ばれた。ついにジュニアクラスに上がれる年齢になった。それまではノービスクラスだった。ノービスの年齢ではジュニアの大会には出れない。私はジュニアと呼ばれるカテゴリに今年初めてなった。

シニアに上がるにはあと一年、時間が必要だ。

いつかオリンピックでメダルを獲りたい。

母の薦めでフィギュアスケートを始めた時から私の夢は変わらない。その夢を叶えるために実績を積まなければならなかった。

まずはジュニアクラスでの実績を。

こうして始まったジュニアデビューシーズンの初試合は苦い思い出となった。

前回の成績は四位。メダルを獲れなかった。

ショートプログラムで80.25点の自己ベストを出して一位になったがフリーで観客が静まるほどのミスをした。

転べば転ぶほど観客の落胆する声が聞こえた。転ぶよりも酷いミスもした。跳ばなければいけないジャンプが跳べずに三回転ジャンプが一回転ジャンプになった。これは最悪のミスだ。転ぶだけならば減点で済むが、一回転だと基礎点すらもらえない。零点。つまりジャンプ一つ分の点数がまるまるなくなった。

ショートで一位を獲った時の歓声は何処かと思うほどフリーの点数発表は静かで僅かな拍手であっけなく終わった。

合計点で総合四位。

グランプリシリーズは最大二大会まで出場できる。今日の試合は二試合目だ。

これで最後の試合。この試合が終われば本当に全てが決まる。

全てとはまさに言葉通り。本当に決まってしまう。

今日のこの試合は最終試合だ。

これが終わった後、各選手の得たポイントでファイナル行きが決まる。

グランプリファイナル。

そこに行くにはこのグランプリシリーズで優秀な成績を納めなければならない。

選手が出たそれぞれの試合で順位にポイントがもらえる。

一位を獲れば十五ポイント。二位は十三ポイント、三位は十一ポイント。

前回四位だった私は九ポイントだ。

各選手が取得した二試合のポイントを合計する。グランプリシリーズの試合が終わった後、シリーズに出た各選手の合計ポイントで上位の六選手のみがグランプリファイナルに行けるのだ。

グランプリシリーズの女子フリーの最終試合である今日、この試合で私がファイナルに行けるかが決まる。

既に四選手がファイナル行きを決めている。

残りは二枠。しかし一人は確実に決まっていた。

ロシア代表のエヴァ・ラドムスカヤ。

前回、私が四位だった試合で優勝した。

彼女は今回の試合で四位以内に入ればファイナル行き確定。彼女はこの試合の優勝候補だ。

彼女が優勝したら私はファイナルの切符を逃すことになってしまう。

一昨日のショートプログラムはエヴァが一位、私が二位。

ミスをした。二個目のジャンプで派手に転んだ。点数は76.32。

エヴァはノーミスで自己ベストを更新。77.8点だった。

迎えた今日のフリープログラム。点差は僅か1.48。

しかし今の私の実力ではフリーでミスなく演技してもエヴァの点数には勝てる自信がない。

何故ならエヴァのフリープログラムは私と跳べるジャンプの種類に大きな差があった。

ジュニアのフリープログラムはシニアよりも三十秒短い。三分三十秒の中に七つのジャンプと三つのスピン、一つのステップシークエンスを入れる必要がある。

私が跳べる単独ジャンプで最も基礎点が高いのはトリプルアクセル。基礎点は八点。

同じ単独ジャンプを二つ入れればルール違反で減点対象。二つ入れる場合は一つをコンビネーションジャンプにしなければいけない。

それに対してエヴァは私が一つも跳べない四回転ジャンプを二種類、さらにコンビネーションにして跳ぶことが出来る。

私がトリプルアクセルを二つ、トリプルルッツ(トリプルアクセルの次に基礎点の高い三回転ジャンプ)を入れている側で彼女は四回転を三つ、トリプルルッツも一つ入れている。

ジャンプの基礎点だけで十六点以上の差がある。

一昨日のショートプログラムでエヴァはBlinkieのdon't give up(on love)の歌声に合わせて十四歳とは思えないほどセクシーで大人びた演技を魅せた。情熱的で激しい振り付け。私には出来ない演技だ。

もっと自分に自信を持って!華‼︎

カミーラがステップの練習をする私にいつも掛ける言葉だ。

「あなたは氷の上に立つと別人のように美しいわ。表現力があるのよ。恵まれた才能よ。」

新プログラムの振り付けを教わった時、振付師のリリーがそう言って私の肩を叩いた。

ショートプログラムも彼女が振り付けた。

「いい?華。このプログラムには物語があるの。どちらも大事だから必ず完成させてね。」

ショートプログラムはA beautiful storm。

私はこの音楽の中で雷雨に怯えるか弱い少女を演じた。曲の中に雷雨が聴こえる。その度に私は怯えて、恐れて、それでも進むことをやめない弱くて強い少女を演じた。

フリープログラムはその続きだ。

曲はYou don't give up (on love)愛はまごころ。

ショートプログラムで雷雨に怯えていた少女はやがて大人になり本当の愛を探しに行く。

成長して最後は愛を見つける。

見つけるのだ。だから私も成長しないと!


「Hi,エヴァ。ショートの曲、私のフリーと同じタイトルね。」

 前回の試合で金メダルを首にかけたエヴァに話しかけた。

エヴァは私を見ると不機嫌に目を逸らした。エヴァは肌が真っ白で瞳が茶色だ。彼女が首にかける金メダルが眩しかった。そんな私は首に何色のメダルも掛かっていない。

「あなたはyou don't give up on love、私はdon't give up(on love)。微妙に違うわ。」

エヴァの高い鼻はツンとしたままこちらを向かない。

「あなた、これが欲しいの?」

エヴァが金メダルを持ち上げて私の目を見る。

欲しいのかな。

羨ましい。だけど私が欲しいものは違う。

「それよりもミスのない演技が欲しいわ。」

肩をすくめて返すとエヴァは金メダルを手から離した。首に掛けている黄金のメダルがストンと彼女の胸元に落ちる。

「ミスのない演技は強請っても貰えないわよ。自分次第なのだから。」

エヴァの強い眼差しが私を刺すように見ている。

「そうね。…私次第ね。」

私はエヴァの強い心に憧れている。

彼女の大胆さと情熱と逞しさに憧れている。

「次の試合では必ず私に勝ってファイナルに来なさいよ。私は絶対にファイナルに行くわ。ファイナルでは私が金メダル、あなたが銀メダル。最後は必ず私が勝つの。」

エヴァが強く言った。

私は頷く。

私だってファイナル行きを逃すなんて考えたくない。

次の試合、絶対に優勝してファイナルに行く。そしてファイナルでも優勝して金メダルを手にするの。不機嫌に銀メダルを見つめるエヴァの横で次は負けないと言うエヴァの姿を見るの。

次は負けないわ。最後は必ず私が勝つの。


「Representing Japan, Hana Rai.」

 カミーラの手を離してリンクの中央へ走り出す。

スケート靴の刃であるブレードが氷を削る音が耳に響く。

この音だ。私を呼び起こす音。

リンクの中央に立つと私は出だしのポージングをして静止する。

盛り上がっていた観客も静かになってその瞬間は一つになる。

最高の演技をしたい者と最高の演技を待ち望む者。二つの気持ちが一つになる瞬間だ。

両手で顔を覆って涙を流す少女を演じる。音楽が流れ出すと私は覆っていた両手を離して天を仰ぐ。下ばかり向いていた少女が顔を上げて空が晴れていることに気づく瞬間だ。

そのまま彼女は本当の愛を探しに行く。

愛はどこにあるの?

本当の愛はどこ?

どうして誰もいないの?

氷の上で愛を探し続ける。

イーグルからのトリプルアクセル。

着地した瞬間、観客の歓声が広がった。

回転不足はないだろう。ちゃんと回り切った。

ジャンプ跳ぶ時、助走が長いと減点対象になる。あくまで踊りながら、ステップを踏みながら演技の中にジャンプが溶け込む必要がある。

ジャンプが飾りと思えるような演技を魅せたい。でも難しいジャンプを難なく跳んで観客を沸かせたい。

ジャンプもステップもスピンも全てが美しい選手になりたい。

そうなれた選手を今までテレビやインターネットで観てきたから。

彼女達に憧れて、彼女達と違う私を探している。

前半のジャンプ四つを難なくこなした。

次はスピン。フライングキャメルスピン。

スピンとステップはレベルがある。最大がレベル4。そこに加点が入る。

スピンはレベル4を獲るための回転数が必要だ。それから軸となっている足元がブレないようにしなければならない。ブレているとレベルが下がる。

ステップシークエンスは六つのステップと六つのターンをバランスよく入れる。全部で十二個の技術。

チョクトー、トゥ、シャッセ、モホーク、エッジ変更、クロスロール、ツイズル、ブラケット、ループ、カウンター、ロッカー、スリータン。

足元にこれらの技を休むことなく組み込む。

それをしながら上半身を動かして表情も気にしなければならない。

演じながら足元は技術で氷を削っていく。

技と演技が溶け込まならければ高い点数はもらえない。

ステップシークエンスは難しい。

演じながら正確に技を踏まなければならない。ステップが身体に馴染むまで数え切れないほど練習した。

チョクトー、ロッカー、カウンター、ループ。

愛を探す大人になった少女。

残りのジャンプは三つ。最後の三つのジャンプは基礎点が1.1倍になる。絶対に跳んで見せる。

トリプルアクセル-ダブルトーループ

跳んだ。飛距離があった。回転不足はつかないはずだ。

トリプルフリップ-シングルオイラー-トリプルサルコー

難なく跳んだ。シングルオイラーで止まらずにトリプルサルコーに繋げた。

最後のジャンプはスリーターンからトリプルルッツ。

きめた瞬間、心の中でガッツポーズした。

コンビネーションスピンは片脚を上げて上半身を倒し、斜めに回るウィンドミルスピンから片脚を上げたままブレードを掴んで回るY字スピン。

最後は片脚を後ろから頭上まで上げて回るビールマンスピンで終えた。

スピンが回っている間、観客の歓声が聞こえた。

手を叩く音、人々の称賛する歓声。

やり切った。

私はやり切ったんだ!

真の愛を見つけた少女。

最後のポーズをきめて観客に挨拶する。

観客が称賛するようにリンクに花を投げる。

挨拶を終えるとリンクの外で私を待っているカミーラに抱きついた。

「あなたは素晴らしいわ。」

私と抱き合うカミーラが耳元で囁いた。

得点が出る瞬間を待つキスアンドクライに移る。

これから私は何度、ここに座ることになるのだろうか。

得点を待っている間はリラックスするようにカミーラと今の気分を話す。

あのジャンプが上手くいった、とか、あのジャンプのエラーがなかったか、とか、自分の演技について反省をする。

そうこうしているうちに点数を知らせるコールがなる。

私とカミーラは手を握り合って画面見つめた。

出た点数は、フリーが151,06。

ショートと合わせてトータルスコアは227.38。

前回よりも二十点近く高い。

安堵の息が漏れた。

カミーラが私の手を握って称える。

現時点で一位。このまま一位なら優勝でファイナル行きが確定する。

最終滑走はエヴァ・ラドムスカヤ。

彼女がリンクの中央に立つ。

私の時とは比べものにならない歓声が広がる。

エヴァの前大会のフリーの点数は159,23だった。トータルスコアは235,25。

彼女がジャンプを二つミスしても私は間違いなく勝てない。

だけどその日のエヴァは様子がおかしかった。

最初のジャンプを三つとも転倒した。

おまけに基礎点の高い後半のジャンプが跳べずに零点となった。

エヴァの演技に観客が失望する声を上げる。それでも最後は諦めなかった彼女を拍手で称えた。

エヴァは曲が終わると肩を落とした。それからため息を一つ、吐いた。

暗い顔のまま観客に挨拶すると逃げるようにリンクを去った。

いつもの自信に溢れたエヴァの姿はどこにもなかった。

キスアンドクライでも浮かない表情を見せる。

出た点数は本来のエヴァなら考えられない点数だった。エヴァの実力が少しも点数に現れていなかった。

肩を落とすエヴァをコーチが慰める。

エヴァはそのままキスアンドクライを抜けた。

「華、やったわ!ファイナル行き決定よ!」

カミーラが私の肩を揺すってはしゃぐ。

カミーラに揺らされながら私は愛想笑いした。

ミスのない演技が出来て優勝が決まった。そしてファイナルにも行ける。

喜ぶべきはずなのにエヴァの顔が頭から離れなかった。

「エヴァ!」

舞台裏で歩くエヴァの名前を呼ぶ。

エヴァが振り返って私を見た。

「言った通り、あなたはファイナルに行けるわ。でも最後に勝つのは私よ。」

「エヴァ…」

エヴァの目を見ていると何故か涙が出てきた。何故だろうか。

エヴァはそんな私を見て力なく笑った。

「あなたの泣いてる顔、これ以上見たくないから離れて。」

私にそう返して背中を向けた。

私は訳も分からず涙を流し続けた。

表彰式で金メダルを掛けても隣で銀メダルを掛けるエヴァを見て涙が溢れた。

何故だろうか。

何故、あの時、涙が溢れたのだろうか。

凶報が飛び込んだのはその次の日だった。

エヴァが病に倒れたとインターネットニュースを通じて知った。

具体的な病名は明かされていないが試合に出ることは困難だろうと書かれていた。

「カミーラ!エヴァが!」

私が叫ぶとカミーラは私を宥めた。

「落ち着いて、華。」

カミーラが私の肩を抱く。

「華、強くなりましょう。エヴァの分まで強くなるのよ。」

カミーラの胸は私の涙で濡れていた。

声を上げて泣く私はカミーラの胸の中でエヴァの言葉を思い出していた。

 最後に勝つのは私よ。

エヴァ、その約束を守ってよ。

私はもっと強くなってあなたを待っているから。




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Don't give up on love 水綺はく @mizuki_haku

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