かめりあさんと忘年会で失敗しちゃうまつさん

 正直なところ、大してお酒に執着がある訳でもない。家でお酒を開けることも殆ど無いし、そもそも、複数人で囲んでお酒を嗜む事自体が、初めてに近い。

 ただ徒花家当主の名を背負うものが下戸では示しが付かない、というのと、注がれた酒は飲み干さなければ礼儀にもとる、という想いがあった。

 いや、こんな所でこんな言い訳をしても仕方がない。

 正直なところ、まつさん、お酒強いんですね、と皆から煽てられて良い気分になったのは否めないのだ。

 そうして、私は注がれるがままに麦酒を飲み干し、酒豪の栄誉を欲しいがままにし、今、居酒屋のトイレの一室であまりに絶望的な吐き気と闘っている。

 宴会席からここまでの道すがら、体面を保った自分を褒めて差し上げたい。個室の扉を閉めて便座に顔を近付けた瞬間、乙女の口では形容し難いものが流れ出ていった。

 すぐにでも宴席に戻りたいところだったが、なかなかどうして、トイレの個室というのは"こういう時"になんて安らげるものなのだろうか。もう出すものなど何も無いのに、複数ある胃の全てが翻ろうと胸の中でのたくっている。本当のところ、ここを離れたら尊厳を保っていられる自信がない。

 あまり長い間席をあけていると、皆に訝しまれてしまう。それに、あの鼻の長いお調子お姉さんに心配されてしまう。

 「まつさんっ……!」

 案の定、個室の外から押し殺したような声が聞こえてきた。やれやれである。

 正直、まだ体調は万全とは言い難いが、精一杯の平然とした顔をつくって臨む。

 私は徒花家当主。そしてかめりあさんの前では、完璧な"まつさん"でいなければいけない。

 かちゃり、と、寒気で震える蹄先で、なんとか個室の鍵を開ける。

 案の定、不安げに耳を垂れたかめりあさんが、戸口に立っていた。

 「大丈夫、ですっ……!」

 私は本当に、何でもないように振る舞えているだろうか。作り笑いすら、する余裕がない自分に、じっとりと嫌な予感がした。

 「そんなことないですよ!お顔が真っ白じゃないですか……!」

 いつも真っ白です、という軽口を言う間もなく、立ち上がった反動でふたたび悪寒が込み上げてきて、便座の上に逆戻りして、えづく。

「けほっ……」

 体面を保つ努力虚しく、一番見栄を張りたい相手に、こんな無様な姿を晒してしまった。

 正直、胃液と一緒に涙まで溢れてきそうになる。

 「もうっ、無理しちゃダメっ……!!」

 そう言いながら、お節介お姉さんは、ぽん、と私の頭の上に前脚を乗せる。屈辱、というにはあまりに幼稚な感情だった。

 「むりなんて、してないですから……」

 私はあろうことか、反射的にそう言い返してしまっていた。しかし、半端な意地で絞り出した言葉はどんどん尻すぼみになり、行き場をなくしてトイレにこだまする。

 正直、あまりに子供じみた自分への羞恥で、かめりあさんの目を直視することができなかった。

 「ふふ」

 一方の世話焼き好き好きお姉さんはというと、そんな私の意地っ張りに怒るでもたしなめるでもなく、むしろ笑った雰囲気すらあった。

 そして、くしゃっと私の頭をひと撫ですると、私に少し待つように告げて個室から出て行ったのだった。


 「厨房から貰ってきました。少しだけ口に含んでみて下さい。吐き気が収まってきて、もし飲めそうなら飲んでみてね」

 コップに入った氷水を、何故わざわざ厨房まで行って貰ってきたのか、その時はわからなかった。

 とにかく冷たさが心地よい。口の周りを洗って、口の中をすすぐと生き返った気分だった。おそるおそる口に含んで飲み込むと、火照った胸に冷たい水が落ちていくのが心地よい。

 それから少しの間、かめりあさんは私が小康状態になるまで、ずっとトイレの個室で側についていてくれていた。彼女の折角の宴の席を台無しにしてしまったのではないかと心配しつつ、優しく背中をさすってくれる感触がただひたすらに、ありがたかった。

 幸いにも程なくして、まだ足のふらつきすら治っていないものの、悪心をだいぶ胸の奥にしまいむことに成功して、私はなんとか立ち上がれるようになった。

 ただ、いつまでも戻ってこない私がいったいどのように見えているのか考えると、恥ずかしくて皆と顔を合わせにくい。

 それもまた自分の軽率さの代償か、と諦めていると、厨房にコップを返してきたかめりあさんが私にそっと耳打ちした。

 「もう宴も佳境ですから、みんな酔っぱらって、正気を保っているのは先生ぐらいです」

 かめりあさんが、あのお方はあのお方でアルコールとは無関係に正気とも言い難いですけど……と付け加えるものだから、思わず吹き出してしまった。心身ともに、だいぶ回復してきたのを感じる。

 「だから、適当でもだいたい誤魔化せます!私はお腹が痛いって抜けてきたので、話合わせて下さいね」

 訳がわからないという私の顔を置きざりにして、かめりあさんは、まるで道場破りのように堂々と宴会部屋の襖を開け放つ。

 案の定の、2匹ともおそーい!という声に混じって何故か、お腹大丈夫?という声が混じる。何のことだろうか。

 「いや〜チゲ鍋美味しかったんですけど……その、お尻が火吹いちゃって……もう大丈夫ですわよ」

 わざとらしくお腹をさすりながら、ぺろっと舌を出す。一体何を言っているんだろう、このてへぺろお犬様は?

 「でも、まつさんが手を握ってくれていたから、いっぱい出ました//」

 そして、ぽっ、と芝居っぽく頬を染めるかめりあさん、それ一体どういう感情です?

 えっ……個室で?それって……というような困惑のどよめきが広がる。そうなりますよねぇ。

 「わたしもわたしもっ!今日3回も出たの!仲間っ!」

 「ふふ、回数ならば明らかに私の方が"勝ち"ですね。なんせ無数の……」「2匹とも汚いからやめろ」

 ゴールデンレトリバーの女の子がかめりあさんに呼応して、うっかり乙女の口から出てはいけないトークが始まりそうになったのを、別の友人が止める。これだからかめりあは、なんて声も聞こえた。ちなみに、その一連の様子を見ていた私の尊敬する方は、床の上で笑い上戸になって尻尾をのたくらせている。

 その他の友人達は、どうやら私達から興味が薄れたようで、もう宴もたけなわ、それぞれで思い思いの話に花を咲かせていた。

 一方私はというと、時折注がれる麦酒に息を止めて口をつけるフリ(隙を見てかめりあさんが全て飲み干していった。実はお酒強いのだろうか?) をしながら宴会の残りの時間を乗り切った。

 かくして、少なくともかめりあさん以外に対して私のちっぽけな自尊心と酒豪の称号は保たれることになったのだった。


 「傷付いたり、しないんですか?」

 細身で今にも折れてしまいそうな印象の背中に、私は語りかける。もっとも、その背中におぶわれている自分も今は負けず貧弱な様子だと思うのだけれど。

 「うーん、多分明日には全身筋肉痛かなあ、筋肉痛ちゃん、明日に来てくれるといいなあ……あっでもね、まつさんは全然軽い方だと思うよっ」

 帰りの電車に揺られて気分が再び悪くなってしまった私を、かめりあさんが背中に載せて運んでくれているのだった。

 正直なところ、乗り物に揺られてこんなに体調が悪化するとは予想外だったので、素直にかめりあさんに甘えて正解だった。自分一人では夜明けまでに徒花亭にたどり着けたかも怪しい。その辺で行き倒れていた可能性すらある。

 「いえ、お体の方ではなく、」

 どうして察してくれないのだろう。耳の裏を熱くしながら、宴会で、笑い物になって私を庇ってくれた事です、と告げると、かめりあさんはなんでもない事のように頷いた。

 「え?別に慣れっこだし、ね?……あ、でも!まつさんに冷たくされたら傷つく!しんじゃうかも!!」

 なんだか変にはぐらかされたような気がして、角がついた頭をかめりあさんの首筋にごりごりと押し当てる。

 もちろん、豊満なたてがみを持つかめりあさんには全く効かないのだが。   

 「あはは、くすぐったい」

 これが狼の牙も通さないというのだから、全く世の中は意外性のある配役で満ち溢れている。

 ただ、今日の私はその役に相応しい振る舞いだったかどうか。

 「本当に失態でした。貴女にこんなに迷惑をかけてしまうなんて。お詫びのしようもない」

 「そ、そんなことは」

 「もう、お酒の席は控えたいと思います」

 金輪際。例外なく。だって少なくとも、折角のかめりあさんの楽しい時間を台無しにしてしまった。きっとかめりあさんだって、あのトイレで私が唸っている時間、今日しか会えないひとたちとお喋りしたかった筈なのだ。良い事なんて一つもない。

 「うーん」

 かめりあさんは、暫しなにかに逡巡する。足取りが止まって、急に道端の草の匂いを嗅いだのは、何か彼女なりの落ち着く儀式なのかもしれない。

 かめりあさんは、暫し鼻をクンクンした後、ゆっくりと口を開いた。

 「私が傷付くとしたら、それはまつさんが"まつさん"でなくなった時かな」

 急に意味深な事を言い出したと思ったら、いやどうなんだろう、エゴなのかなっ?と今度は自信なさげな事を言い出すので、先を促すためにまた首筋に頭をぐりぐり擦り付ける。

 「もうっ、くすぐったいですよ!」

 笑いの余韻が夜の帷に消えてしまえば、暫し、ぺたぺたとかめりあさんが四つ足で土を踏む音だけがあたりに響く。

 もう街の郊外に出て、あたりはすっかり山の様相だ。灯ひとつ、獣の気配ひとつなく、ただ闇の中に2匹の吐息だけが浮かんでいる。かめりあさんの肩甲骨の隙間にくっつけた耳から、ドキドキという鼓動が伝わって来る。

 「……私は、まつさんと違ってこれまで失敗を繰り返してきました。失敗しないように、失敗しないようにと読めない他者の顔色ばかり伺うようになって、挙句に自分のやりたい事が、わからなくなってしまったんです」

 かめりあさんの過去を、私はよく知らない。私にとってかめりあさんは、まだ、急に庭に降って湧いたすけ毛不審者お姉さんのままだ。(いや、普通のお淑やかなお姉さんだった時もあったかもしれないけど、もう記憶にない)

 だから、この不思議なお姉さんとも思えないお姉さんの話を、いつか聞いてみたいと、思う。

 「だから、まつさんの世界が、ただ一度の失敗で、狭まっていくのが、なんだか嫌だなあって」

 それで、得心がいった。

 嗚呼、この方は、厨房からコップを持って来た時も、宴会で笑い物を演じた時も、ずっと、私の行く末を案じていたのだ、と。

 胸の中に温かい感情が広がって、背中にしがみつく四肢に、思わず力を込める。そう、これは振り落とされないようにするためで、決して抱きついた訳ではないのだ。まあ、かめりあさんは揺らさないよう細心の注意を払って四つ足で歩いているので、酔うことも落とされることも万が一にも無いのだが。

 「だからね、まつさんがもしまた失敗したら、また私が笑い話にしてあげます。だから、ね?」

 これだから、このうっかりお調子世話焼きお姉さんは、油断ならないのだ。

 でも、このお立て上手お姉さんの元でなら、また頑張れる気がする。

 「うふ、徒花家当主をみくびって貰っては困ります。ちょっと、ちょっと弱気になっただけです!自分の限界は知れましたからね、"次"はもっと上手くやりますとも!」

 乞われるなら答えてみせよう。それが私の目指した"まつさん"であるならば。

 「良かった!まつさん!好き!」

 首がぐるりと回って舌が迫ってくるが、流石に背中に積載されている私をぺろぺろするには可動域が足りなかったらしい。

 残念そうに鼻を鳴らすと、諦めて徒花亭への歩みを再開するかめりあさんだった。

 いじらしくて、突っ伏したままの顔から思わず笑みが溢れる。こういうかめりあさんには、どうしても、意地悪をしたくなってしまう。

 「どうして、私にこんなに良くしてくれるんですか?」

 答えなどわかりきっているのに、我ながら性悪な質問だったと思う。案の定、耳の下で心臓が跳ねるのがわかった。

 「ま、まつさんが元気な時に話しますねっ」

 「あら残念」

 まあ良い。言質は取った。

 後は体調が良い時に煮るなり焼くなり好きにさせてもらえば良いだろう。

 かめりあさんをいじって満足すると、今度は体の調子が戻ってきたのか、穏やかな睡魔が忍びよって来る。

 徒花亭まではまだ暫くあるはずだ。だから、今はこの犬100%の毛布で、一眠りさせていただくことにしよう。

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かめりあさんとケモ女子達 椿 渡 @corax87

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