10 猫も老人も知っているだけ

 ウルフは礼儀正しく挨拶をした。


「こんにちは、ミスター」


 ミスター・サムは頬を緩ませ、ちょっと帽子を持ち上げた。今日のジャケットはモスグリーンのツイード。自分に似合う色と素材をよく知っている人の着方だ。


「箱は開いたかね」

「ええ」

「そうか。それはよかった。やはり君なら、指輪が無くても開けられたのだね」


 それは明らかに、あの箱の開け方を知っていた人間の台詞だった。


「箱の開け方はグランマからお聞きになったのですか」

「そうとも。もしも孫たちが“開けられない”と困っていたら、教えてやってくれ、と頼まれていたのでね。まさか箱が盗まれるような事態になるとは思ってもみなかったが」


 ミスター・サムは頬を揺らして笑った。


「二匹目のグレムリンは」


 不意を突くようにウルフが話し出す。不意を突かれたのは僕もそうだ。グレムリンの話をここで? ミスター・サムも戸惑ったように、ステッキをぎゅっと握った。


「グランマの家から五分ほど行ったところにあるオフィスで見つかったそうです。そこから考えても、やはりグランマの家のセキュリティが働かなかったのは、グレムリンが狂わせたからだと思われます。ということは、花壇のチューインガムは意図的に配置され、グレムリンが入り込むように誘導したものだった」


 ブラックホールの瞳がミスター・サムを飲み込む。


「あなたがそうしたのではありませんか、ミスター?」


 思わず僕が「えっ」と言ってしまった。ミスター・サムは黙っている。


「従軍されていたのではありませんか? といっても、兵士ではなく整備士か何かで。おそらく空軍の関係。そこでグレムリンの話を聞いたのではないでしょうか」

「どうしてそう思った」

「親指だけをピンポイントで失う場合、兵士よりは整備士の方が可能性が高いかと。それに、皿が割れる音に過敏に反応していましたね。戦争で精神的な外傷を負った方は多いと聞きます。音が引き金になることもあるでしょう」


 ミスター・サムはちょっと口を緩めた風船のようにかすかに笑った。


「根拠が弱いね。名探偵には程遠いな」

「私は探偵ではなく、魔法使いなので。――魔法庁でアントニー・マスターズという方にお会いしました」


 老人の顔色がさっと変わった。


「定年後に再雇用されていた方なのですが、先月うっかりグレムリンを放してしまった責任で、完全に辞めてしまわれると。少しお話を伺いました。彼は第二次世界大戦時、イギリス空軍のある部隊に所属していたそうです。そこでグレムリンの退治と、いくつかのまじない、呪い避け、その他にもいろいろなことをしたそうで」


 そして、とウルフは老人の反応をほんのわずかでも見逃すまいとするように、一瞬の間を置いてから告げた。


「一度、夜中に部隊が強襲されたことがあり、それ以来ガラスや何かが割れる音が嫌いだ、と言っていました。あなたと同じですね、ミスター?」


 ミスター・サムはゆっくりと息を吐いた。風船がしぼんでいくみたいに。


「……私のことを聞いたかね」

「いいえ。何度か鎌をかけてみましたが、彼は何も話しませんでした」

「そうか」


 緩慢な仕草で何度か顎を上下させ、それからミスター・サムはもう一度息を吐いた。肩がぐっと落ち込む。それは白旗を上げた合図だった。

 ウルフが首を傾げる。


「教えてください、ミスター。どうしてチューインガムを? 本当はあなたが、盗みに入る予定だったのですか?」

「そうだよ、赤コートくん。その通りだ」


 観念したらしく、ミスター・サムはあっさりと口を割った。あるいは言いたかったのかもしれない。聞いてほしかったのかもしれない。若くて無関係の僕らに。


「けれどあの男に先を越されてね。私が入った時には、すでに荒らされた後だった。せめて権利書が本当に売られてしまわないようにと思って、指輪だけ盗っていったのだよ」

「なぜ、権利書が欲しかったのですか」

「本当に欲しかったのは権利書じゃあない」


 ミスター・サムは微笑みを滲ませた。


「天使さ。私は天使が欲しかったのだ」


 ああ、そうか。僕はすんなりと理解して、首をひねり追及を重ねようとしたウルフをそっと制止した。


「思えば愚かなことをしたものだよ。かつて手に入らなかった人を、今になって、それも別の形で、手に入れようとするなど……老いぼれて、新しい欲望は湧かなくなったが、若い頃に満たされなかった欲望というやつは、消えてくれないものだね」


 僕の手を押しのけて、ウルフが一歩前に出た。冷たい声が耳朶を打つ。


「死者からさらに奪うことも辞さないほど強い欲望などあるものなんですか」

「ある」

「身勝手だと思わないのですか」

「思うよ」

「それならっ」


 彼は感情が激化するのを抑えるように、言葉をブツリと切った。僕の位置から彼の表情は見えなかったけれど、拳が強く握り込まれているのは見えた。血管が浮き出るほど握られていたのが、呼吸と一緒に緩んでいく。


「それなら、どうして奪ったのですか」

「……君も、何かを奪われたのかね」


 ウルフの肩がびくりと震えた。

 ミスター・サムが孫を見るような目付きになる。慈愛にあふれ、眩しいものを見る目。


「君がこの感情と無縁であることを祈るばかりだ。……命を懸けてでも欲しい、と願ったものが手に入らなかった、灼けつくような痛みなど、知らずに済むならそれに越したことはない」


 老人は腰を伸ばし、ウルフの腕を軽く叩いた。それから「指輪を返してくる。それでは、失礼」と去っていった。

 ウルフは立ち尽くしていた。

 冷たい風が僕らの間を吹き抜けてゆく。谷底を凍らせるように。橋のない谷を越える手段を持たない僕は、こちら側でただ肩を縮こまらせるしかない。彼が振り向かない限り、手を振ることだって出来やしないのだ。

 やがて彼はくしゃみをひとつすると、首だけでこちらを向いた。


「これで、すべておしまいですね。帰りましょう」


 弱々しい微笑みが、真っ赤なコートとちぐはぐに見えた。



 寮の部屋で、僕らはまたワインを開けた(寮母さんの前を通るとき、ウルフはワインを上手に隠した。たぶん魔法だったと思う)。二日連続の酒盛り。ミックさんがくれたワインは、昨日飲んだのとは少し味わいが違って、これはこれで美味しかった。

 ボトルの中身が半分ほどなくなった頃、僕はふと口火を切った。今なら聞けるような気がした。


「ねぇ、ウルフ」

「なんですか」

「君はさ、その赤いコートをいつも着ているだろう?」


 ウルフは警戒するような顔つきになりながら頷いた。彼のコートは今も椅子の背に掛かっていて、大切にしているのかしていないのかよく分からない感じで扱われている。


「お父さんのコートなんだよね」

「ええ。そうですが」

「どうして、毎日必ず着続けてるの?」

「……なぜ、そんなことを?」

「君、この間グランダッドですごいたくさん飲んできただろ。その時に濡れたコートを着たまま寝てたからさ、せめてコートだけでも取ろうと思ったんだけど……君が触るなって言ったから」

「そんなことを言った記憶はありませんけど」

「ひどい酔い方してたから、覚えてないだろうね。だいたい、僕が帰ってきたのだって知らないだろう?」


 肯定の沈黙。まったく記憶にないらしい。彼は首筋を擦った。


「で、本当は着ちゃいけないんだ、とも言ってた」


 今度は別の種類の沈黙。

 僕はしばらく待っていたけれど、それがあんまりに冷え込んだ静寂だったから、ついに黙っていられなくなった。


「ごめん。話したくなければいいんだ」

「いえ」


 ウルフはゆるゆると首を振った。伏し目がちに口を開く。


「このコートはもともと、祖父が父に贈ったものなんです。詳しい経緯は知りませんが、役者としてデビューしたお祝いのようなものだ、と言っていました。……いつか、私が一人前になったら譲る、とも」


 未来を語る平凡な言葉が、呪いのような響きを持って聞こえた。


「父は私が魔法使いになることを反対していました。最初から――最初から、ずっと。どうしてあんなに反対していたのか、結局まともに聞けませんでしたが……だから、たぶん、私がこのコートを着ることを、父は許してくれないでしょう。とてもじゃないが、一人前とは言えませんので」


 彼はデスクにグラスを置き、椅子の背にもたれかかった。コートに頬を擦り寄せるようにして、目を閉じる。鈍い痛みをこらえているような表情だった。


「それでも、着ていなきゃいけないんです。着なくたって、忘れなどしません。忘れないためではなくて……忘れさせないために」


 誰に、と彼は言わなかった。だからこれは僕の勝手な想像。

 きっとその相手は犯人だ。父親を殺した犯人に、彼はいつかその罪の重さを突きつけてやりたいのだろう。だからコートを着続けている。どこかで生きている犯人に向けて、お前のことを忘れないぞ、と。それは明白な脅しであり、意思表示だ。

 もしかしたら、ウルフはずっと復讐に囚われて生きていくのかもしれない。それはたぶん、どうしても切り捨てられない部分なんだろう。イギリスの一月と二月みたいに。暗くて冷たくて最悪なのに、そこがなければ他の季節も駄目になるような、そういう部分。

 でも、できれば、それが本当の一月二月のように、他の季節を豊かにするためのものになってほしい。そう願うのは身勝手なことだろうか?

 願う以外に何かできることはないだろうか?

 谷のこちら側で足踏みをしているだけじゃ駄目なのだ。せっかく彼が振り返ってくれているのだから。身振り手振りで、伝えなくては。

 君は正しく生きているし、生きていけるのだ、と。

 僕はグラスを揺らしながら言った。


「あのさ、ウルフ」

「なんです?」

「魔法学校の話、聞かせてよ。君が問題児だった頃のこと」

「私が問題児だったことなど一度もありませんけどね」


 飄々と言いながら笑うと、彼は姿勢を正して話し出した。




 さて、魔法学校の話も気になるだろうけれど、すごく長くなってしまったから割愛するとして(また別の機会にね! ここでは、ウルフが誰の目から見ても明らかに“問題児”だった、ってことだけ明記しておいて)後日談を少しだけ。

 グランダッドは無事、ミックさん夫婦の所有となった。遺言書はきちんと相続人を指定していたのである。さすがグランマ、抜け目ない。

 ブレット・ロビンソンがどうなったかは知らない。彼が熱いシャワーを浴びる機会に恵まれていたら、呪いも解けていることだろう。

 マチルダは猫の国に帰っていった。帰る直前、僕らのもとに挨拶へ来てくれたけれど、彼女の姿は黒白のまだら模様の小猫に変わっていた。魂が変わるたびに、姿も変わるらしい。でも声はやっぱり、セクシーな女性の声のままだった。

 ミスター・サムは常連さんじゃなくなった。それが彼なりのけじめだったのかもしれない。僕は彼が元気であることを祈っている。


 二月はもうすぐ終わる。この冷たくて暗い日々ともお別れだ。ジョージ・オーウェルのコラム集もそろそろ読み終わってしまうし、貰ったチューインガムもようやく食べきれそう。どんな月日でも本でも、まずいガムでも、別れは少なからず惜しいものだ。

 でも、おしまいはおしまい。喜ばしいのは、ちゃんと「めでたし、めでたし」で終われることだね。


 めでたし、めでたし!

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【旧版】サクラメントと魔法使い 井ノ下功 @inosita-kou

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