一杯のカップうどん+

羽生零

5 minutes date

 僕がいるゼミに一人、天才がいる。

 試験の成績も常に満点のトップ、学年の最優秀生徒にも二年連続で選ばれている。ゼミでの発言も理路整然として分かりやすい。ほとんど完璧な彼女にひとつ欠点があるとすれば、可愛いのに見た目を整えてないってことぐらいか。でも、不潔にしてるってわけでもないし、化粧しなくても可愛いんだから別にいいと思う。

 そんな彼女の名前は、波多野夕那。ユナ……もしかしたらハーフなのかもしれない。抜けるように白い肌をしているから、その名前も西洋風に聞こえるだけなのかもしれないけど。


 そんな波多野さんだが、僕はあまり言葉を交わしたことは無い。……いや、波多野さんが誰かと喋っているところを見たことはほとんど無い。あったとしても授業のことばかりで、プライベートの話をしている様子はまるで無かった。他の人から聞いた話だとサークルにも入っていないらしい。

 波多野さんはいつも一人だった。何故か周りに人が寄ってきていることもない。どうして誰も話しかけないのだろうと思うのだけれど、僕も波多野さんを遠巻きに見ているだけなので、人のことは言えない。本当は話しかけたいと思っているのだけれど、中々タイミングが掴めないのだ。


 僕が波多野さんの姿を見るのは授業中と、学食にいる時だけだ。授業中は話したりなんかできないし、チャンスは学食に波多野さんが来たときだけだ。


 波多野さんはいつも、テーブルの窓際の席に座っている。周りにはやっぱり人がいない。まるで避けられているみたいだけれど、別に周りの人は避けているつもりは無い。ただグループで固まって行動している人ばかりだから、自然とそうなっているだけだと思う。けれど僕はグループでも何でもない。僕は僕で一人だった。だから、昼になって人が多くなった学食で、波多野さんの隣に座るのは不自然じゃない。ただの相席だ、と自分に言い聞かせて、カウンターで料理を受け取りテーブルへと向かう。

「と、隣、いい?」

 何もおかしなことは無いのに、緊張して声が裏返ってしまった。恥ずかしさに顔から火が出そうだったけれど、波多野さんはたぶんそんな僕の様子を気にも留めなかったのだろう。チラリとこっちを見て、顔色も変えずに小さく頷いた。椅子を引いて波多野さんの隣に座り、料理を乗せたトレーをテーブルに置く。

 何か話そうとしたのだけれど、結局その日は何も言えなかった。波多野さんが食べていたのは食堂の料理ではなく、カップうどんだった。学内の売店で売ってるものじゃない、スーパーで売っているプライベートブランドという名の既製品より安いものだった。



 次の日も僕は波多野さんの隣に座った。今度は何も言わずに、ちょっとお辞儀をするだけだった。波多野さんの反応は昨日と同じだった。そして、波多野さんが食べているものも昨日と同じだった。毎日カップうどんで飽きないのだろうか。思ったことをそのまま言いそうになったけれど、ふと、彼女にも事情があるんじゃないのかと思って口をつぐんだ。

 波多野さんはいつもカップうどんを食べているように思える。それに、サークルに参加しないのはいつもバイトをしているからなのではないだろうか? 成績が優秀なのは、実際に優秀だっていうこと以上に、そうしないと奨学金がもらえないからなんじゃないだろうか――。


 実際のところどうなのかは分からない。この日もやっぱり波多野さんと会話することはできなかった。明日こそ、次に会った時こそはと思って隣に座っても、どうしても会話の糸口は掴めないまま、僕は一つ百円もしないカップうどんができるのを待つ波多野さんの横で、毎日週替り定食を食べていた。


 このままでは駄目だ。


 一週間ぐらいして思った。いつも僕は思い立つのが遅い。悪いことだと思うけれど、その癖はどうしても直せないまま成人してしまった。それでも、どうにか僕は、考えたことを行動に移した。

「あの、さ、波多野さん」

 波多野さんがカップうどんの蓋を開けた辺りで、僕は声をかけた。話しかけられると思っていなかったのか、波多野さんはちょっと驚いたような様子で「あ、はい……何ですか?」と言った。

「定食のおかずなんだけどさ、ちょっと多いから……一品貰ってくれない?」

「え? ああ……いいんですか? なら……」

 どういう反応をされるかなと身構えたけれど、波多野さんは素直に受け取ってくれた。その日は焼き鮭が一匹、波多野さんの昼食に加わった。



 鮭をあげた日から、毎日僕は波多野さんにおかずを一品おすそわけするようになった。それでも、僕たちの間に会話というものはほとんど無い。波多野さんの、苦学生のような雰囲気が僕の無駄口を封じていた。

 いや……波多野さんにはそんな気はこれっぽっちも無いだろう。

 けれど、波多野さんを前にすると、僕の言葉は世間話だろうが講義の内容だろうが、全てがどうでもいい、取るに足らないようなものなのではないかと思えてしまう。スマートフォンひとつ出さず、腕時計で時間を確認しながら無言でカップうどんができるのを待ち続ける彼女の頭の中には、きっと僕が思い付かないような深い考えがあるに違いないと、見ても聞いてもいないのにそう思ってしまう。

 彼女の沈黙は、僕がゼミの中で生みだしてしまうようなしどろもどろで不格好なものではなく、整然とした深慮のように僕には見えていたのだった。決意を固めて近付いたというのにそういうことしかできない、自分を少し情けなく思ったものの、反面僕はいまの位置に奇妙な誇りを感じていた。

 僕は波多野さんを煩わせることなく、彼女を支援してあげられている。栄養バランスがお世辞にも良いとは言いがたいカップうどんに、一品だけでも彩りを添えることができている。それは他の学生たちには誰もできない、素晴らしいことなのではないだろうか?


 そんな風に思っていたから、波多野さんの方から話しかけられると、僕はとても驚いてしまった。


 昼食の席を共にするようになってから、一ヶ月ほどが経ったある日。

「大和田さん、って……」

 自分の名前を呼ばれても、話しかけられていると理解するのに時間がかかった。それぐらい、僕たちの間には会話というものが無かった。

「食べきれないのに、どうして定食を頼むの?」

「……え」

 そして、話しかけられ、しかも具体的な質問をぶつけられていると気付いて、僕はとても動揺した。だって、別に食べきれないわけではないのだ。波多野さんにおすそわけした一品なんて、腹がはち切れる量じゃない。そんなものはただの口実で、でも君の隣に座るための口実だなんて言うのはできなかった――これが格好いい、アイドルみたいな男ならそれを言っても許されるのだろうけれど、僕みたいな目立たない、人付き合いも上手くない男が言うと気色悪いだけだろう。けれど口実を探していつまでも黙っていると逆に怪しまれる――僕は慌てて、その場しのぎの言葉をまず言った。

「食べきれないってわけじゃないけど……」

「けど?」

「…………ほら、お腹いっぱい食べると、後の講義で眠くなるから」

 それだと結局、他のメニューを頼めばいいということになる。分かっていたから、どうにかあまり間を空けずに次の言葉を紡ぐことができた。

「それに、ここの定食の味は気に入ってるから。週替わりだから色んな味も楽しめるし……」

 苦しい言い訳というか、言い訳にもなっていなかったと思う。けれど、波多野さんはそれ以上は追及してこなかった。腕時計をちらりと確認すると、カップうどんの蓋を取る。そこからはまた無言の食事だった。

 波多野さんは、僕の言葉に納得したのだろうか? そうは思えない。納得どころか、僕の浅はかな企みさえも、全部見通しているような気がしてならなかった。

 ……幸いなことに、この問答で僕たちの関係が変わったりはしなかった。いや、少しだけ変わった。波多野さんがカップうどんにお湯を入れて、僕が隣に座った後の五分間。その間だけは沈黙が取り払われるようになった。話す内容は、僕が以前波多野さんにくだらないと思われているかもしれないと感じていた、ただの世間話だった。明日の天気がどうだ、次の講義の内容が何だという些細な話が、五分間に含まれる沈黙をほんの少し、薄めてくれた。

 不思議なことに、自分から言い出すとくだらないようなことでも、波多野さんが中心になって話題にすると、何かとても深い意味があるように思えた。何気ない一言、誰でもするような話の中に、世界の真理の一片が含まれているような気さえした。

 それは、僕が取るに足らないという以上に、波多野さんが僕にとって特別なのだという証拠だった。


 最初のうち、僕はその感情を否定しようとした。波多野さんが特別だからこそ、そんな俗っぽいものの対象にしちゃいけないような気がした。けれど僕は、初めて人に恋をした僕は、その気持ちをどうやって止めれば良いのか分からなかった。

 だから、波多野さんに止めてもらおうと思った。

 アプローチして、玉砕したら、すっきりした気持ちで止まれる気がしたんだ。


 僕はまた決意を固めた。決意して行動に移すまでにまた時間が経っていて、気付けば本年度も終わろうかという時節だった。

 外は粉雪が舞っている。雪を背景に座っている波多野さんは、ガラスのカンバスに描かれた絵画にも見えた。やっぱり波多野さんは僕にとっては特別な存在だった。彼女の前には湯を注がれたばかりのカップうどんがあって、僕はその横に定食のトレーを置いて座る。何となく、そわそわとした心地になって、僕は自分が持ってる手提げ鞄の中を見た。そこには、綺麗にラッピングされた、手の平より少し大きい程度の四角い箱が一つ入っている。スマートフォンを出して日付も確認した。間違いなく、二月の十四日だった。

 男の僕からバレンタインデーのチョコレートを贈るなんて、変かもしれない。それでも僕には、直接告白するなんてできない僕には、こんな形でしか想いを伝えられそうも無かったのだ。このチョコレートを、いつもの一品の代わりに渡す――正直食前に渡すものじゃないし、波多野さんからすれば普通のおかずの方がいいに決まってるだろうけれど、どうせ振られるのだからどうにでもなれと思っていた。

「大和田さん」

 けれど、振られるとこうして話すことも無くなるかもしれない。そう思うと、告白なんてしない方がいいのかもしれないとも思った。僕は昂揚と憂鬱でどうにかなりそうになっている内心を押し隠して、いつも通りな振りをして「なに?」と聞きながら波多野さんの方へと顔を向けた。

「あの、これ……大和田さんに」

 僕は声をかけられるまで、波多野さんを見ていなかった――彼女に目を向けられなかったのだ。だから気付くのに遅れた。彼女が自分の鞄から、僕の鞄に忍ばせていたのと同じような、綺麗な包装紙に包まれた小箱を取り出していたことに――。

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