後編

 春だった。


 春の空気が、戻ってきたことの証明だった。


 ランビアの世界には春はない。あるのは猛暑と極寒だけだった。


 目の前に広がる見慣れた景色……旧校舎の古ぼけた外壁、落書きとボールの跡で汚れたコンクリート塀、その向こうの道路から聞こえてくる気だるげな車の音、少し遠くの方には新校舎と、そこからぞろぞろ吐き出されて下校していく制服姿。


 校舎沿いに植えられた桜はほぼ満開で、記憶の中の学校よりちょっぴり綺麗に見えた。


 ……戻ってきたんだ。


 泣きそうになったところをぐっとこらえて、慌てて自分の体をあちこち触って確かめた。


 日焼けと汚れで黒ずんでいた肌はすっかり白くなっていて、はち切れんばかりの筋肉も無くなっている。手から足から顔から全身覆っていた呪印も見える範囲には一切ない。ヒゲも……触って確かめたけど存在していない。

 きちんと制服も着ている。裸じゃない。怪我も治ってる。


「よかったああああああああ~~~!」


 最後にスカートの長さと髪型を確かめてから、あたしは自分の体を抱きしめて安堵のため息をもらした。


 あたしはちゃんと、灯代森高校の平凡な二年生、此辺乃春歌に戻っていた。


 こらえたはずの涙がちょっとだけ頬を伝うのがわかった。


 本当に……本当によかった……!

 元の体に戻れてよかった……!


 あのまま異世界のおっさんの体でこっちに戻されてたら大騒ぎどころか通報されていてもおかしくなかった。


 ほぼ全裸で全身入れ墨血まみれの筋肉ダルマが校舎内に急に現れて泣き始める……通報即逮捕されても文句は言えなかっただろう。

 異世界から戻ってきたところなんです! 異世界救ってきたんです! なんて言い訳したところでむしろ通報される場所が刑務所か病院かの二択になるだけだっただろうし。

 万が一、入れ墨筋肉全裸中年男性があたしだと周囲が理解を示してくれたとしても、その後普通の学校生活は送れるわけはないし……。


……学校生活。


 あたしは、何よりも先に確かめなければいけなかった重要なことを思い出す。


 今日はいつで、今は何時だ?


 慌てたところで時計もカレンダーもそうそう都合よくありはしない。

 しばらくあたふたしてからやっと、この世界には便利な道具があることを思い出し、バッグから探り当てる。

 スマートフォン。革製のケースの懐かしいデザインと手触り。画面を見て、私は安堵のため息と共に勢いあまってその場に倒れそうになった。


 ⒋月15日15時53分……ということは。


 新校舎の方角に目をこらす。この旧校舎裏に来るとしたら、そっちから来るしかないはずだった。


 ちょうど、こちらへ歩いてくる久岸いづると目が合った。


 どこか浮世離れした様子で歩くその姿がいつも通りだというだけであたしの胸はいっぱいになって再び涙が出そうになった。いや、正直なところちょっとだけ泣いていた。


 彼はあたしに向かって軽く手をあげたが急ごうとはしない。それもいつも通りだ。そういうところが好きなのだ、久岸くん。


 彼の登場であたしの意識は今度こそ完全に異世界のオッサンから現代日本の女子高生へと引き戻される。


 マジかマジかマジか。本当に来たよ来ちゃったよ久岸くん。


 あんなLINEなんて無視してくれてよかったのに、いや無視しないでくれてありがとうなんですけどでもあのまだ心の準備が、だってほらあたし今戻ってきたばっかりだしいやそりゃ久岸くんからしたら昨日の夜のLINEからそのまま地続きの時間なんだけどでもそれはですね。


「ごめん、お待たせ」

「あ、いえっ、全然、あの」


 いつの間にか目の前にいた久岸くんの声で、あたしは30センチほど垂直に跳ぶ。

 久岸くんがそれを見て笑う。幸せだった。こんなんで笑ってくれるなら何度でも跳びますよ、本気出したらもうプラス30センチ跳べます。あたし跳ぶの得意なんです、ぺヴェスキヤの町で傭兵たちと一緒に戦ってたときなんて森の中ピョンピョン跳び回って魔猿を仕留めたぐらいで……。


「ちょっと高峰先生につかまっちゃってさ。話長くて、大事な用があるって言って打ち切ったけど」

「あ、えっあっ、そっ、大事な用、っえ? それ、なんか、あの嬉しいんですけどあたしの話、久岸くんにとってそれほど大事な用かと言われると、あ、でも私にとっては確かに大事なんだけど、でも大事かどうかは人それぞれ相対的っていうかなんつーか」


 意味不明な返事しかできなくて泣きたくなってくる。

 違うんですこんなはずじゃないの、あたし本当は喋るの結構うまくて、即興とかも得意で、あの、シィミアの王様に謁見した時は信用してもらうためにテスと一緒に一芝居打ったぐらいでその時のとっさの機転なんて聞いたら驚くと思いますよ、アレ自分で言うのもなんだけどマジで凄かったって言うか。


「大丈夫?」

「はっ?」

「様子変だけど、体調悪い?」

「あ、いえ、ちょっと、色々、思い出して……まして」


 彼は首をかしげる。あたしだってかしげたいぐらいだ。


「それで話したいことっていうのは?」

 

 ……ああそうだよね、そういう流れになりますよね。っていうかこんな状況もう何が起きるか大体わかりますよね。告白されると思って来てますよね。え、でもじゃあ告白されるってわかっててそれでもここに来てくれたってことは、じゃあもしかしてもしかしてなんですけどそれってほぼOKっていうか……だって嫌だったら来ないし、なんか理由つけて断るだろうし。いや待て、久岸くんちゃんとしてるから、わざわざ面と向かって断りに来てくれた可能性も有るぞ、これどっちだ。ええどっちなんだ。ってかうっわ、あたしの気持ちバレてんのかだだ漏れか、急に恥ずかしくなってきたぞこれ。


「あのっ!」


 頭の中のごちゃごちゃを無理やり大声で振り払った。


「久岸くん! あの! あ、あたし! 実は、実はね!」


 久岸くんの驚いた顔。そりゃそうだ。いきなりこんな。

 あたしはもう脳内めちゃくちゃでわけわかんなくなっていて、多分声も相当大きくて。でももう自分ではどうしようもなかった。

 もう行くしかない。度胸だ。度胸ならこの3年間の異世界生活で誰より鍛えられてきた自信がある。


「もう気が付いてると思うんだけど、それでも、ちゃんと言うね、言います、言わせてください!」


 あああー心臓の音やば、ってか吐きそうなんだが。胃が痛い、胸も痛い。内蔵まとめて潰れるんじゃないのこれ。


「あたし久岸くんのこと!」


 異世界どころじゃない。

 巨獣を倒すのなんかよりめちゃくちゃ大変だ。

 でもやるしかない。


「すっ……き…………なんです……けど……」


 最後の一撃は、とてつもなく情けなかった。


 だけどそれがあたしの精一杯の、この3年間で一番の勇気を振り絞った戦いの、終点だった。


 恥ずかしさのあまりうつむいてしまって、久岸くんの顔は見られない。


 ただその返事を待つしかなかった。


 彼のぼうっとした声があたしに審判を下すのを。


 文字通り命をかけて辿りついた告白がどうなるのかを。


 どんな結果が出たとしても、待って、それを甘んじて受け入れるしかない。



 待つしかない。



 待つしか。



 待つしかない………………あれ、ちょっと、さすがに、え?




 いつまでも続く沈黙に、あたしは一瞬自分が何かを言い間違えたのかと思ったぐらい。


 おそるおそる顔をあげて久岸くんの表情を覗き込む。


 彼は相変わらず驚いた表情のまま固まっていた。


 そんなに驚くか? そんなに驚くこと? あたしからの告白が?


 ちょっと、久岸くん?




――アタク死が止め手いる乃デス。




 唐突に音が聞こえた。


 金属をこすり合せたような音。

 だけどあたしにはその音がなぜかきちんと言葉として認識できた。


 振り向くと、そこには薄緑色の逆三角形が出来の悪い合成写真みたいにぽかんと宙に浮かんでいた。


「……なに、これ」

――アタク死が穴たを時間の流れから切り離したのです。


 逆正三角形……宙に浮かんだ平面図形が、喋っている……らしかった。

 わけがわからなかった。


――オワ刈りです可?


 わかるわけがない。

 わかるわけがないのに、なんとなくわかってきていた。


 周囲のすべてが停止していた。あたし以外のあらゆるものが。

 降りそそぐ途中の桜、風に吹かれたままの木々、空にしっかり止まったままの鳥たち。


 そして何より、ずっと驚いている久岸くん。


 この時ほど、異世界の体が恋しいと思ったことはない。今のあたしじゃこの異常事態に太刀打ちできない。


――亞亜、ご安心くだ差伊。アタク死の目的和、穴たでスか羅。そチ羅の人間や他のモノ似危害は加エま栓。


 金属音が何度か短くかすれる。しばらくしてそれが笑い声なのだと気がついた。

 すべてが止まった静寂の中で、その音は特に耳障りだった。

 


――アタク死がなぜ紺ナと頃へ来タ可とう云うと、


「またなの?」




 金属音が一瞬止まる。




――絵?




「またなんかあんたたちの所に来て世界救えとか、そういう話?」

――エー、い矢……あ乃。

「え、違うの」

――いや、総なんですケ度……穴た。

「なに」

――なんか、やけに慣れてません?



 口調が変わるほど、逆三角形が逆三角形なりに、ちょっと引いているのがあたしにも伝わってきた。



――フツー、こういう時って混乱したりとか、困ったりとか、そういう反応になるのでは。

「フツーはね」

――ええ、でもあなた……えー?

「そりゃそうでしょ、あんたでもう七回目なんだから」

――ナナ?


 あたしはやけくそになっていた。というより半ば不貞腐れていた。


――七回目?

「七回目。七度目。七人目。……あんたみたいなよくわかんねー連中に告白の邪魔されてどっかの世界に連れてかれて世界の危機と戦えって言われるのをっ! 七回もっ! 体験してんの! こっちは!」


 そう、七度目。

 七度目の正直、のつもりで挑んだのに。


 決意を固めて、LINE送って、告白しようと身構えて、呼び出した久岸くんの前に立つたびに……。


 4月15日15時55分になるたびに。


 混乱した頭となけなしの勇気で告白をするたびに。


 あたしはその瞬間からどっかの異世界に飛ばされて、転生とかなんとかさせられて、世界を救えとか敵を倒せとか言われて、ひどいときは年単位で旅をしてきて……の繰り返し。


 やっと告白直前の時間に戻れたと思ったら……。


「……マジかよぉ」


 もうその場に座りこんであぐらをかきながら、あたしは深々と溜息を吐いていた。

やってらんねえ。


――あの、ちょっと、いいですか。


 逆三角形がおそるおそる話しかけて来るが、あたしは適当にしか頷かない。


――えー、一応、説明するとですね、天の川銀河の果てにある人口惑星内の電子世界からアタク死来てまして。とある情報構造体データを持った生命体を探して……。

「はいはいはいはいはい、それがあたしなのねわかりました。そのなんとか星に行って救って来いってそういうことね了解、わかりました、ガッテン承知、理解理解、やりますー、やらせていただきますー」

――あ、その通りなんですけど……物分かり良すぎやしませんか。


 何のためにとか、どんな理由でとか、そんなこと関係ない。こうなったらあたしにとって大事なのはある一点のみだ。


「で、わかったからさあ、おい」

――はい。


 やさぐれすぎてちょっとだけ異世界での粗暴さがよみがえってくる。ここんとこのあたしはまともに女子高生していた時間より戦士やってた時間の方が長いのだ。


「もう5分だけ時間が欲しい」

――え、無理です。


 あたしの殺気を感じ取ったのだろう。逆三角形が凄い勢いで遠ざかる。ゆらりと立ちながら、あたしはなおも続ける。


「おい……5分で良いんだって……」

――あ、あの、本当に無理です、すいません。

「なんでだよ! 返事きくだけだから! その後ちゃんと行くから!」

――あのですね、時間がもう全然なくて……ええと今あなたの時空間位相だけを変えていて、違う時間の流れの中にいるんです。だから周囲が止まって見える、と。

「おう」

――それで、現実時間……標準時間で5分も経過しちゃうと、アタク死たちの星、もう手遅れになるんですよ。

「そんで」

――だから、ひとまずこのままの時空間位相でこっちへ来てもらって、で、救ってから帰るって方向で動いてもらえればと。行って帰ってで時間ほとんど経ってないことにできるんで。1ナノセカンドぐらいしか経過しないはずです。本当です、はい。


 あたしの視線から逃れるように逆三角形はあちこちふらふらと飛び回る。


「……別にアンタに言っても仕方ないんだけどさ」

――はい。

「毎度毎度、なんなの? あんたたちのその「今すぐじゃなきゃダメなんです」理論。時空ねじ曲げたりできるんなら、たった5分ぐらい待ってくれてもいいじゃんか」

――そう言われても……うちのは本当に待てないやつなんで……。

「みんなそう言うんだよね“ウチだけは違います”って」

――はあ。


 と言っている間にもあたしの体の周囲に赤いノイズが走り始める。どうやら逆三角形が準備を始めたみたいだ。


「ちょっと! あたしまだOKだしてない!」

――もう、ちょっと、そろそろ行かなきゃなんで、道中諸々説明しますんで。


 この野郎。

 ノイズは激しくなり、周囲の景色が歪んでいく。


「……絶対に戻ってこれるんだよね」

――それはもう、救っていただけたらすぐにお戻しいたしますので…………まー、あのー、生きてたらですけど。


 深々と溜息を吐くしかなかった。


 歪んだ景色の中で驚いた表情のままの久岸くん。


 あたしはこの期に及んでまだその表情からあたしへの返事を読み取ろうと悪あがきする。


 驚いているってことは、意外に思ってるんだろうか。

 ってことはあたしのこと今まで意識してなかったのかな。あたし結構アピールしてきたつもりだったんだけど。それとも単純に大きい声でしゃべったからかな。いやきっとそうに違いない。そうだ、そう考えよう。


――というわけでして。あ、すいません、いま説明してるんですけど、聞いてます?

「もっと大変なこと考えてた」

――いや、あの、一応もう一度要点だけ言いますとね。アタク死どもの星につくまでにあなたの体感時間では2年ほどかかると思うんですね。その間、あなたの為の仮想シミュレート空間を一時的に作らせてもらって意識だけそこでトレーニングするんですけど……。

「ああ、そうなの」

――え、それだけですか。

「なに」


いちいちリアクションなんてとってられるかっつーの、こっちはそれどころじゃないんだよ。


――いや2年って、長くないですか。向こうでの活動もあわせると往復で最低6年ぐらいは……もちろんあなたの体感年数なんで、こっちでは時間経たないんですけど。それでも長く感じるんじゃないのかなあと。


 あたしはその言葉を鼻で笑う。


 周囲のすべては歪んでしまって、もう久岸くんも顔しか判別できない。

 辿りつけない彼のその表情の向こう側をあたしは考え続ける。


「6年だろうと10年だろうと20年だろうとね……」


 あたしは今この時の瞬間を忘れずにいようと七度目の決意を込めて拳を握る。


 あたしはきっと戻って来る。


 戻って、今度こそどこかの異世界の幸せじゃなくて、あたしの幸せのために戦う。


 だから待ってて、久岸くん。

 必ず戻って来るから。

 必ずあなたとの決着をつけに来るから。



「そんなのあと5分に比べたら、どうってことないのよ」



 視界が赤い光に包まれる。

 あたしはまた、どっかの誰かの世界を救いに行く。

 あと5分のために。

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プリーズ! ギブ・ミー・”ザ”・ファイブミニッツ! 森宇 悠 @mori_u_you

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