第2話 美人兄弟
背負っているリュックの重量はそれほどでもないが、たぬきは重い。
人間の赤ちゃんもずっと抱っこしていると肩や腕が張ってくる。
体力に自信のある私も、片手にコンビニの袋をぶら下げたまま、たぬきを抱っこして走るのはしんどかった。
「はあ、はあ……せめて出勤前なら……」
八時間しっかり働いてきたあとでこの運動は厳しい。日が暮れ、周囲もすっかり暗くなってきた。
しかも謎の矢印が指し示すのは、「こんなところに道なんてあったっけ?」という細い通路ばかり。
住宅の間を抜け、工場の駐車場を抜け、坂道を登り、まさにけもの道を通り、気がついたら森の入口にいた。
自分が住む場所から見える高地に住宅街や幼稚園があるのは知っていた。が、これほど森と密接しているとは思わなかった。
数歩いけば新しく建った住宅が見えてくる。
「こもりさん、意外に同じ町内だったりして……」
はあはあと息を切らして、森を見上げる。
とっぷりと日が暮れ、木々の葉が黒く見える。舗装されていない細い道があるようだけど、街灯がない。
矢印がくいくいとしなる。「早く行こうぜ」と言っているようだ。
「いやでも……ちょっと暗すぎやしない?」
スマホで道を照らそうにも、両手でたぬきを抱いているからムリ。
こんな暗い山道に入り込んで、不審者にでも遭ったらどうしてくれる。怖すぎるよ。
躊躇すると、腕がずんと重くなった。見下ろすと、ずっと痛みを堪えているようだったたぬきが、口を開けてだらんとしていた。
「あっ。ちょっと、頑張って。しっかりして!」
時間が経つほど、たぬきが助かる可能性は低くなる。
私は覚悟を決め、唇を引き結んだ。矢印が案内する方向へ、再び歩き出す。
スニーカーがざくざくと葉っぱや木の枝を踏む音がする。が、景色は全く見えない。真っ黒だ。
そのせいか、ちっとも前に進んでいる気がしない。なんとなく重力が増したような気さえする。
矢印だけを頼りに歩くと、すぐに足が限界を迎えた。そもそも仕事で酷使した足で坂を上り、ここまで来たのだ。
それでも前に進もうと右足を踏み出したとき、つま先に固いなにかがぶつかった。
「ああっ」
危ないと思った時には、もう遅かった。私は咄嗟にたぬきを庇おうと体をひねり、バランスを崩した。
頭と肩を、したたかに硬い何かに打ちつけた。木だろうか? くらりと視界が歪み、そのまま転倒した。
私の腕からこぼれたたぬきが、ぽすんと葉っぱの上に乗る。私は霞む視界で、そちらに手を伸ばした。
どうしよう。ここで私が倒れたらこのたぬきは……。
なんとか体を動かそうとするけどうまくいかない。自分の意志に反して、まぶたがゆっくりと閉じていった。
「あ……もう目覚めるよ、兄さん」
耳に入ってきた誰かの声につられるように、まぶたが開いた。
ぼやける視界が、瞬きをするたびに鮮明になっていく。
そういえば、私……事故に遭ったたぬきを拾って、暗い森に入って……。
「そうだ、たぬき!」
がばっと跳び起きる。首を左右に振ると、すぐ隣の布団にたぬきが寝かされていた。
あちこちに包帯を巻かれた痛々しい姿ではあるけど、生きているみたい。呼吸が早いような気がするが、動物はこんなものなのかな。
人間は表情がわかりやすいが、動物はそうではない。ずっと一緒に暮らしていれば気持ちを感じる場合もあるだろうけど、このたぬきと私は出会ったばかりだ。
それにしても、たぬきを布団に寝かせるなんて、ここの主は変わってる。
私は顔を上げ、周囲をぐるりと見回した。
古い土壁と襖や障子に囲まれており、畳のいい香りがする。床の間には水墨画の掛け軸が飾ってあった。
上を見れば、木目の板を使った天井。ぼんぼりに似た形の照明がぼんやりと部屋を照らしている。
そして。
後ろを振り返り、ビックリして跳び起きた。いつの間にか開いていた障子の隙間から、二人の男のひとが部屋をのぞきこんでいた。
そのひとりに、思わず視線を奪われた。
白い肌に、銀色の髪。藍鼠色の着物を着ている彼の黄金の瞳と目が合った瞬間、肌がぞくりと粟立った。
なんて綺麗な人なのだろう。まるでこの世のものではないみたい。
すっとした切れ長の目が、私を見下ろす。
「助けてもらって、礼も言えないのか」
低い声が吐き捨てるように言う。
「へ……」
「兄さん、そういう言い方はないですよ」
銀髪の彼の隣に立っていた若い男の人が眉を下げる。どうやら銀髪の人の弟さんらしい。
金茶色の髪に、白い肌。銀髪の彼と同じ金色の瞳。
おそらく二十代前半だろうか。若者らしい普通の服を着ている。
お兄さんの方は二十代後半か。少ししか歳が違わないとは思えないほどのオーラが全身から漂っている。
どんなオーラかと聞かれても、うまく言えないのだけど。威厳とか威圧感に近いのかもしれない。
「あ、すみません。家主さんですか」
「いかにも」
「私は薬師寺実久瑠です。お邪魔してます」
私は布団から足を出し、彼らの方に正座し直した。
「助けてくださったということは、私は行き倒れていたのでしょうか」
「そうなんです。あなたは森の中で倒れていたんですよ。おそらく、頭を打って気を失ったんでしょう。大したことはありません」
弟さんの方が愛想よく受け答える。お兄さんは腕を組んでむっつりとしていた。
「どうもありがとうございま……」
ずきんと右側頭部が痛んだ。手をやると、包帯の感触がした。頭を木にぶつけたとき、たんこぶができたらしい。
「意識が戻ったなら、早く帰るがいい。ここはお前のような者がいていい場所ではない」
「ちょっと、兄さん」
冷たく言い放つお兄さんは、話し方まで浮世離れしている。どうやら私は彼に歓迎されていないようだ。
「ご迷惑をおかけしました」
私だって、知らない家にゆっくりお世話になるつもりはない。
「それにしても、おふたりはお優しいですね」
「む?」
「だって、私だけでなく、たぬきまで布団に寝かせてくれるなんて」
普通動物は布団に寝かせないだろう。家で買っているペットの犬猫ならともかく、血だらけのたぬきは家に入れるのも拒む人が多いのではないだろうか。
「これだから人間は」
お兄さんがふんと鼻を鳴らした。
「人間はいつも、自分が生き物の中で一番偉いと思っている。俺はそのたぬきを拾ったのだ。お前はおまけだ」
「おまけ……」
「そのたぬきを運んできたのでなければ、お前など救けはしない」
たぬきを運んできた。どうしてこの人がそれを知っているのだろう?
ぱちぱちとまばたきをする私を、お兄さんがにらむように見下ろす。
「もしかして、あなたたち狐守さん?」
「いかにも」
「あなたを案内した矢印は、兄さんの式神だよ。たぬきからの救出要請信号を感じ取った兄さんが放ったんだ」
しきがみ? 聞き慣れない単語にぽかんとしてしまう。
とにかくあの不思議な矢印は、このひとたちが作ったものだってことかな?
「すみません……ちょっと今日は不思議なことがいっぱいで」
頭が今日の出来事を処理しきれない。
「少年が私のお弁当をひったくろうとしたんです。叱ったら走って逃げて、車にはねられて。そうしたらたぬきに変身しちゃって……。しかもたぬきなのに、人間の言葉を話したんです」
狐守兄弟は、驚く様子もなく私の不思議体験を真顔で聞いている。
「ここに連れてきてって頼まれたんですけど、あなたたちはいったい?」
部屋の様子からも、ここがただの動物病院とは思えない。
「ここは……」
お兄さんが口を開いた瞬間。
ぐううううう。
私のお腹の虫が鳴り響いた。
「うわっ、これはそのっ」
そういえば、お弁当食べ損ねたんだった。猛烈にお腹が空いている。
真っ赤になる私を見て、弟さんが堪え切れない様子でふきだした。
「あなたの食べ物はひっくり返って悲惨なことになっていました」
「ああ……」
残念。私のお弁当は、転んだ時にぐちゃぐちゃになってしまったのだろう。
「僕の料理でよければ、食べていってください。そしてゆっくりとお話しましょう」
優しく手を差し伸べる弟の腕を制し、兄がぎろりと彼をにらむ。
「どういうつもりだ」
「だってこのひと、たぬきくんの命の恩人ですよ。彼女がいなければ、たぬきくんは道端で死んでいた」
「こいつが食べ物を素直に渡してやれば、たぬきは事故に遭わなかったかもしれない」
ぎくっとした。たしかに、私がおとなしくひったくられていれば、たぬきはもう少し落ち着いて行動……したかな? おとなしくひったくられるのが正解っておかしいよね? うん、私のせいじゃない。
「それは屁理屈です。さあ、行きましょう」
弟さんがにこりと笑うと、お兄さんはすっと彼から手を離した。勝手にしろと言わんばかりに。
「あの、たぬきは」
どうにも呼吸が荒いような気がする。傍を離れても大丈夫だろうか。
「異常があったらすぐにわかります。大丈夫」
どうやってわかるのだろう? 見たところ、パルスオキシメーターも心電図モニターも、なにもついていない。
けれど、今日は不思議なことだらけだ。きっと二人は私にはわからない仕掛けで、たぬきの状態を管理しているのだろう。
私は弟の手をとり、立ち上がった。彼の肩の向こうで、銀髪の兄がぷいっと後ろを向き、先に部屋を出ていった。
あやかし養生所は眠らない 中園真彩 @mahya
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